悩ましい選択肢
『………ニャー…参っちまうなにゃ…………旦那、あっしは仕事に入りやすよ? 其処でツマミのイカみたいに伸びてないで、ビシッとしてくんなせぇ………』と、そんな言葉を残し、子猫は、咲良の後を追った。
時が時であれば、この時の子猫は、【英雄】と讃えられたで在ろう。
なにせ、人間全てをあっと言う間に滅ぼし兼ねない大悪魔を、口三寸で言い負かしたうえ、当の明日野は、死んだようにアスファルトに転がっていたからだ。
しかしながら、如何に深手を負ったとはいえ、咲良との約束を違えるというと選択肢は、明日野の中には無いのだ。
「…………俺様が…………咲良を悲しませたのか…………」
震える膝に鞭を打ち、己を鼓舞しながら、少年は、此処が正念場であると、歯を食いしばり、カウントエイトのボクサーさながらに、ゆっくりと立ち上がった。
実際の所、当たり前だが、超重量級ボクサーに殴られた訳ではない。
だが、少年の膝は、確実に主人の意志を無視し、笑ってすらいる。
「…………退くわけには、いかんのだ…………退くわけには…………」
何かは知らないが、その何かに、負ける訳には行かぬと、少年は唇を噛み締める。
心臓辺りに残る、謎の鈍痛にもメゲず、明日野は、必死に自宅であるアパート目指して、歩き始めていた。
精神に、根深く負傷を負った為か、明日野は気付けない。
遠巻きに、フードをかぶりながら、顔をを見せない謎の人物の視線に。
帰り道の中、明日野は、子分の言葉に感服しつつ、その対処法を模索していた。
確かに、思い返してみれば、思い当たる節は在りまくり、今更詫びでは済まない話である。
偶にとはいえ、夕食をご馳走に生った際にも、やはり、彼はしどろもどろで咲良に応対しつつも、その妹、理彩には、ある程度いつもの調子で返していた。
それが、如何に咲良を傷付けていたかのを考えると、実に恐ろしい。
事実、明日野の心の内では、地獄裁判が始まっていた。
見た目には、チッコい明日野が、大きな木槌を振り下ろす。
【判決! 咲良様の前で! 三段切腹の刑に処する!!】
そんな、悪魔的な裁判官の声に、同じ様な顔した陪審員達も、わーきゃーと唸った。
確かに、明日野自身も、今すぐ咲良の前で、己の腹をかっ捌いて詫びを入れるのも、吝かではない。
その時、明日野の心の内では、やはり同じ様な弁護士が立ちあがり、声を張り上げる。
【しかしながら! 裁判長! それでは咲良様が困りまする!!】
考えてみれば、いきなり友人に目の前で切腹されても、それでは彼女が困るだけだろうと、その案は、脳内の者達全てが賛同し、却下の声をあげていた。
それでも【なんとか詫びを入れねば成るまい】と、頭の中の裁判長は唸った。
其処で、検事役のチビが【金銭では!?】と声を上げるが、その頭に、陪審員から、ボールペンやら色々とモノが飛ぶ。
【モノで釣るなんて…雄として…サイテー!!】と、何処からか、咲良と同じ様な髪型のチビ明日野が、裁判所内に響く程の裏声で叫んだ。
【オウコラ! オンドリャア! ドウスラエンジャイ!?】
【あん? んなもん、てめぇで考えろや、マヌケ!】
【何言ってんだ? お前こそ、その自分だろうが?】
トボトボと歩く一人の少年。
その頭の中では、戦争さながらの話し合いが続く。
しかし、道は無限ではない。
いくら遅く歩こうと、場所が変わらない限り、着いてしまうモノは着いてしまう。
自宅たるアパートを見ても、明日野からは、悲しげな溜息しかでてはくれなかった。
普段から、鍵一つ掛ける気がない為、明日野の部屋には鍵が掛かってはいない。
無論、中に入った所で、煎餅布団が一枚と、やたらと空の酒瓶が在るだけという、何とも殺風景な部屋な為、仮に入った泥棒が入った所で、逆に気まずい気分に成るほどである。
ともかく少年は、部屋の真ん中に仰向けに転がった。
どうしても、答えは出てくれない。
何度となく、ブエル先生を困らせ、他の仲間にあからさまに嗤われた事も一度や二度どころか、軽く千は超えるだろう。
しかし、考えてみれば、人の世の時間は有限であり、それは、悪魔の明日野からすれば、途方もなく短い間でしかない。
深く深く吸い込み、息を吐き出す。
幸いにも、理沙を伴い、咲良を迎えに行くにも、時間的には余裕がある。
僅か、一時間程とはいえ、それをなるべく有効的に使わねば、成るまいと、明日野は心に決めていた。
ブエル先生の所へ行っても、たぶん今回もまた、彼は答えを出せずじまいに終わる事を考えると、在る別の人物の事が、明日野の頭を過ぎった。
佐田や、蠅野ですら、行きたがらない場所が在る。
其処は、【職業安定所 嘆きの穴】のすぐ近くに、在り、特に目立ったモノではない。
しかしながら、これから行っても、相談に乗ってくれるかどうか、そこが問題である。
自分の過去を考えれば、それなりには友好的とも言える人物だが、果たして、明日野が望む結論をくれるのかどうか、それが、問題であった。
しばらくの間、静かな時が流れる。
そんなおり、明日野の部屋のドアが、コンコンコンと小刻みにノックされた。
叩く手の持ち主の、せっかちな性格故か、それは、実に早い。
だいたいの当たりを付け、ソッとドアを明日野が開けば、いつになく、めかし込んだ理彩が居た。
「よっす! さぁ、行きましょうか?」
「…………あぁ」
理沙の元気な声に、どこか渋々といった具合に、明日野はいつもの革靴に足を通す。
サッと理沙の横を抜け、歩を進めんとするのだが、肩をガシッと掴まれてしまった。
半ば無理やり、理沙は明日野を振り向かせる。
「ちょっと! 理沙さんのこんな姿を見ても、なんも無いの!?」
腰に手を当て、どこか不機嫌そうに頬を膨らませる理沙。
そんな、頭一つ小さい女の子を見て、明日野は笑う。
「いつ買ったんだ? そんなにお洒落に気を使うとは…………」
何とも返答し難い明日野の言葉に、理沙は、明日野の頭を少し叩いた。
「………別に良いでしょ? せっかくのコンサートなんだもん!」
「おう、しっかりついて来いよ?」
そう言うと、理沙の頭を撫でつつ、明日野は踵を返した。
少し離れる少年の背中を、理沙は複雑に見つめる。
本当ならば、確かに、自分を綺麗に見てもらいたいというのが、理由だ。
だが、それが、いったい誰なのか、それについて、理沙は結論を出せずにいる。
しかし、いつまでも悩んでいる性格でもなく、理沙は気を取り直すと、明日野の後に続いた。
コンサートどころか、咲良のバイト上がりまでは、まだ時間が在る。
それ故、理沙は、明日野と何処かへ行こうかとも考えていたが、それを、隣に歩く少年にぶつけると、明日野は、少し唸った。
「理沙……少し、行きたい所が在るんだ…………」
実に、意味深な少年の声に、理沙の頬が少し染まる。
思わず、目を左右に泳がせながらも、理沙はアレコレと想像し始めていた。
正直な所、成長期の女性ともなれば、異性とのあれやこれやと、色々と考える。
無論、男性のそれも同じ様なモノだが、猿並みに考える事が一つでしかない。
とはいえ、理沙もまた、実に同じ様に考え、何故か明日野の後ろを歩きながら、モジモジとしていた。
少し、前を向けば、其処に居てくれるのは、その辺の平均男性以上に背が高く、何より、一本気にして、気っ風がよい伊達である。
理沙の通う中学にも、気障な男子も居ない訳ではないが、蠅野や明日野と色々付き合う内に、自分の周りには、実は野暮ったい子供しか居ないとすら、理沙は考えていた。
モヤモヤと、理沙があんな事やこんな事を考えている内に、明日野の背中にぶつかる。
鼻を撫でながら、前を確認すると、目的地なのか、少年の足は止まっていた。
しかし、明日野の見ているらしき看板を見て、理沙が眉間にシワを作る。
その看板は、ごく普通の電飾看板にしか見えない。
小豆色の地に、金の文字で【スナック 知恵の林檎】と記されている。
今更、場末のスナックバー程度では、特にいかがわしいとは、理沙は思わないが、中学生の自分を、こんな所に連れてこようとは、どういう了見かと、思わず、明日野の顔を睨む。
だが、少女の想像とは違い、明日野の顔は、若干青ざめてすらいた。




