神の言葉を伝える天使
明日野の明るい筈の日常は、呆気なく消えた。
犯人が放った、たった一矢の凶弾に因って、全てが覆ってしまった。
教室が別である故、授業中は明日野も安堵をする事が出来るのはせめてもの救いなのだが、問題なのは、休み時間である。
どこからともなく、軽部は現れては、明日野に恋を歌いながら後を追い掛け回すという、摩訶不思議な事態に、少年は悩まされていた。
無限に近い体力の有無に関わらず、少年は疲弊し酷い頭痛を、生涯始めて覚えていた。 無論、この頭痛自体、蠅野はしょっちゅう感じてもいる訳なのだが、それとこれは別に関係は無いだろう。
恐れていた事は咲良に誤解をされると言うことだが、科学の授業中、隣に席を確保した際、咲良からポンと肩を叩かれる明日野。
普段であれば、それだけでも幸せを甘受出来るのだが、この時ばかりは、何故だが、少年には非常に恐怖を煽るモノであった。
どこか、意地の悪げな咲良の微笑みは、明日野の心を凍てつかせる。
かつて、ラファエルに囚われた際と、全く同じ様な感覚に、少年は恐れおののいてしまう。
最高まで高ぶった明日野の視覚は、咲良の口の動きがまるで普段とは別物のように見える。
だが、少年の絶望とは裏腹に、咲良は明るく笑った。
「良かったね? 何があったか知らないけどさ…………理恵ちゃんと仲良く成れたんでしょ?」
咲良の質問自体は、いつもの明日野と軽部の関係に起因している。
ともすれば、顔を合わせれば犬猿というよりも、一方的に軽部が明日野を嫌悪して見せている様であり、それ自体には、咲良も多少心を痛めてもいた。
だが、なんにせよ、二人がいがみ合うのを止めてくれたことに関して言えば、心優しい咲良には、有り難い出来事だったのだろう。
しかし、明日野からすれば、別である。
仇敵、しかも、戦力的には、ガブリエルの方が上であり、真っ向勝負では、歯が立たない事から、アスモデウスとしての明日野は、軽部とはお近付きには決して成りたくない相手なのだ。
授業そっちのけで、明日野は、咲良の肩をガッキと掴む。
だが、決して力は入れすぎず、咲良が痛いと思うことは無かった。
「咲良……よく、聞いてくれ……ガブ…軽部と俺は、その……あくまでも友達未満、知り合い以上でしかないのだ。 信じてくれるな?」
この時ばかりは、気が焦っていたのか、明日野の声はいつもの様に恥ずかしさから来るどもりを吹き飛ばし、実に在る意味、カッコ良く見えた。
だが、咲良は難しい顔をしながら、少し眉をひそめてしまう。
「え~…………そうなの? 理恵ちゃん結構可愛いと思うけど?」
「いいや…………見た目が云々ではないのだ。 咲良……とにかく、俺は…………」
明日野はこの時、神聖もとい、悪魔にもかかわらず奇跡の瞬間で在ると、確信していた。 心は落ち着き払い。 いつもの恥ずかしさは微塵も無い。
なんと言うことだろう。
後は、たった一言、彼女を如何に想っているのかを、【告白】という言葉に乗せ、咲良に贈れば良いのだ。
心臓が、三つ打つ間、明日野は、深く息を吸い込んだ。
「す、すみませんが、授業中なので、真面目にお願いしまーす!」
どこか気弱な科学科目担任は、明日野と咲良に向かってそう言いはなってしまった。
「あ…………そだね、駄目だよ、授業は静かにしてないとさ…………」
オッという顔をしながら、咲良は、明日野の頭をポンポンと叩きながら、授業へと意識を戻してしまった。
悲しいかな、明日野は、茫然自失のまま、まるでゾンビかキョンシーの様に、両手を上げたまま硬直してしまっていた。
その後、無事に授業自体は進んでいったが、教師は、在る方向には決して顔を向けなかった。
何故なら、憤怒に顔を歪める明日野が、瞬きもせずに自分を睨んでいるという恐ろしい事態に、教師は気づいてしまったからだ。
彼、科学科目担任は、この間、生きた心地がしなかったと、帰宅後に、妻に涙混じりに語っている。
しかしながら、その反面、戦場から無事に生還を果たした事からか、科学科目担任は、生きている事を喜び、妻をより一層愛し、遂には、十ヶ月後、初の子供と対面する事が出来たという。
そんな遥か先の未来の事よりも、大事な事が在る。
未来の事はさて置き、いよいよ放課後が来てしまったのだ。
咲良はバイトが在るため、専ら帰宅部であり、明日野もまた、特に部活には所属はしてはいない。
一応、余裕が出来たことから、暇なときには、誘われるがままに、色々な部活に顔を出した事はあり、中でも、楽器演奏とデザインからは、本格的に入部を勧められたりもしたのだが、これについては、あくまでも趣味であると言う理由を盾に、やんわりと断り、大勢の女生徒が溜め息を漏らしたらしい。
「じゃあね、明日野君、この後バイトだからさ………また、後でね?」
「…………はい、御気を付けて…………」
本来であれば、咲良をバイト先まで見送るのが常なのだが、この時ばかりは、挨拶もそこそこに、咲良を渋々見送る明日野。
走り去る咲良を見ている明日野の横には、あの子猫がスッと姿を現す。
いつの間にか明日野と使い魔として契約を果たした子猫が、色々と御仕事を買って出てくれていたのだ。
『旦那…………良いんですかい?』
「言うな…………お前には理沙の前でゴロゴロする事と、咲良の監…………見守る事を頼んでいる筈だ」
『へぇへぇ…………ま、あっしはご飯と、住むところが有れば、それで充分ですんでね…………』
「それでよい…………頼むぞ?」
少年と猫の会話。
端から見れば、明日野は独り言をブチブチと呟き、その横では、子猫がニャアニャアと鳴いてる様にしか、一般人には見えなかった。
走り去る咲良を子猫に任せつつ、明日野は、近場に居るであろう巨大な力に、思わず息を飲んでいた。
もはや、気配すら隠す事無く、軽部が悠々と間合いを詰めて来る。
臆する心を奥へ奥へと押し込んで、明日野は、チッコい熾天使と、相対していた。
「何用だ…………ガブリエル?」
どこか冷たい明日野の言葉だが、言われた軽部はと言うと、後ろ手に手を組んで、モジモジと身体を揺すった。
ぱっと見、恋に燃える小柄な少女にしか見えず、事実、軽部は原因はともかく明日野に恋をしているのだ。
「冷たいんだぁ…………どうして?」
潤む瞳と、小首を傾げてそう言う軽部は、実に絵になる。 が、明日野からすれば、目の前の少女は恐怖の対象に過ぎずに、むしろ困ってすらいた。
「どうして? どうしてもこうしても在るものか……貴様、過去を忘れたとでも言いたいのか?」
「はい、忘れました!」
明日野の言葉を余所に、軽部は、スッと間合いを詰めて、自分の腕と少年の腕を絡める。
実に不味い。
嫌がる明日野と、なんとも楽しそうな軽部。
だが、不肖アスモデウス、腐って大悪魔であり、彼が恋をしているのは、咲良、ただ一人である。
骨格が、悲鳴を上げようが、蛇の如く身体をくねらせ、軽部の腕から逃げ出す事に、少年は成功した。
そして、それはそのまま、大悪魔とは思えない様な動きで、脱兎の如く走り出していた。
恥も外聞すら問題ではない。
マトモに抑えつけられたとして、明日野では軽部を跳ね退ける事は不可能に近い。
万が一、軽部が、力任せに明日野と関係を持とうとするのであれば、それは、即座に実行可能なのであった。
荒く息を吐き出しながら、明日野は根城であるアパートへと何とか帰り着く事が出来た。
未だに、蠅野は帰宅しておらず、理沙も恐らくは、部活動に励んで居るのだろう。
ともかく、部屋に置いてあるウイスキーでも引っ掛けようかと、明日野は、ソッと自分の部屋のドアを開けた。
途端に、明日野は我が眼を疑った。 どこから入ったのか、有り得ない筈の者が其処に居た上、読み伝えられる天使の如く、実に慈愛に満ち足りた笑顔を、向けてきたからだ。
「…………あ! おかえりー!」
実に可愛らしく、何故か学生服にエプロンと言う服装の、軽部理恵が、其処には居た。




