ひなびた温泉
「うーん! 澄んだ空気と清い空! そして! 山深いだけあって何にもないこの開放感! 流石は明日野君! 実に良いところだよね!?」
そう言う軽部だが、その声とは裏腹に在る意味、彼女の言葉は嫌みであった。
確かに一行を乗せたワンボックスは温泉宿に辿り着いた。
近くを流れているのか小川のせせらぎや小鳥達の歌声、時折木々が奏でる風に靡く音。
分かる人ならばとても良くひなびた雰囲気なのだが、若い理彩もまた、うぅんと眉を寄せる。
確かに立派な旅館は其処に在ったが、生憎と周りには何も無い。
電柱がほんの少し、道路は途中からはろくに舗装すらされておらず、自動販売機すらなかった。
そう、明日野一行が辿り着いたのは山深い場所に在り、尚且つ知る人ぞ知る温泉宿【竈屋】である。
旅館の外見は古風な宿を意識しており、古めかしくも磨き抜かれた一枚板に看板には竈の文字が象眼で誇らしげに掲げられていた。
旅館の玄関からは、主らしい小柄な老人が姿を表すのだが、高品姉妹以外は物腰の柔らかそうなこの人物の事を知っていた。
「あぁ、どうもどうも、御予約のべ…………蠅野様ですね? どうも、主の久座と申します、良くお越しくださいました」
そう言いうと、旅館の主である久座はペコリと頭を下げた。
さて、この久座老人。
見た目こそ小柄な温泉宿の主人風だが、生憎とその本性は違う。
余談ではあるが、山中深くにある温泉宿【竈屋】を経営する小柄な老人の本名はクザファンである。
第二階級の魔神であり、佐田が天界において謀反を企てた際に、彼もまた参加者として大いに歓迎された一人であった。
サタンを筆頭に起こした天界の反乱は、結果として失敗に終わり、久座もまた地獄へとその身を落とした一人だが、過去の地獄に在っては魂を焼くための【煉獄の炎】は彼が焚いていた。
端的に煉獄の炎は魂を焼くと言われるが、罪を贖いその魂を浄化せんとする炎は咎人にとっては福音だろう。 もし煉獄の炎が無ければ、咎人は無限に地獄をさ迷わねばならないからだ。
では、そんなクザファンが居なくとも、地獄では問題ないかと言えば一応は確かに彼の後任の者も存在する。
過去の地獄では天界との【最終戦争】に備えて魂を集めるなどという時期が在ったが、今となっては誰も気にはしていない。
ブゥブゥと文句を垂れ流す軽部とは関係無く、咲良は久座に頭をペコリと下げる。
「御世話になりまーす! お風呂大好きなので、早速なんですが温泉の方を教えてくれると助かります!」
たった一言。 それだけを咲良は言うと妹を伴い久座に案内を頼んでいた。
「おやおや、今の若い子には珍しいねぇ…………ささ、お部屋にご案内を致しますので」
咲良に微笑み掛けられた久座だが、のほほんと接してくれる彼女の事は面白く思うと同時に、片方の眉を上げる明日野を見て、面白そうに笑っていた。
老人姿らしく、ワザと遅く歩く久座。
女性陣、軽部以外の荷物全てをその背に背負う明日野の隣に並ぶと、人には聞こえない声で呟く。
『いい子みたいじゃないか? なぁ?アスモデウスよ………ついでにアッチの方もさ…』
そんな久座の声は、お客様に対するモノとは違い、何処か好色めいた老人の声に近かった。
『クザファ…………久座さん。 俺も確かにアンタを敬愛してはいますが…………でも、本気でやるなら躊躇は無いですよ?』
そう言う明日野の言葉に嘘はない。
例えば、仮にサタンや【勝利の剣】を携えたミカエルですら、明日野は一人で相手をする覚悟が在った。
明日野の目はわずかに赤く光っており、能力を使うことに躊躇はない。
例え、地獄に引き戻されたとしてもだ。
そんな可愛らしい同朋の反応を見て、久座は冗談だと笑った。
ふぅと溜め息を一つ、明日野は警戒を解いて辺りを伺う。
温泉旅行自体は確かに本来の目的だが、ソレとは別に副目的といったモノが明日野頭にはある。
それは佐田からのモノだという一枚のメモであり、明日野は隠された財宝を見付けるという事も出来る大悪魔だが、地上で暮らしている内に彼には見つけられないモノが在ることを知った。
例えば、古風な陶器や絵画、人が値段を付けたモノは彼には感じ取る事が出来ない。
明日野からすれば国宝と言われる茶器ですら、単なる薄汚れた茶器に過ぎず、絵画の美しさは理解できても、だからといって価値を見いだす事は出来ない。
だからこそ、明日野の頭のアホ毛は常に咲良の方を向いており、この近くに佐田の言うような価値の在るモノがあるとは思えなかった。
「おーい明日野君! どーしたのー!?」
少し離れた所から、咲良のそんな呼び声に反応し、明日野は急いで一行の後を追ったのだった。
「うーん! 素晴らしい! やっぱりお部屋も大したモンだよ! 広い畳敷き、高めの天井! 後はテーブルと有料テレビ!」
相も変わらず、何処か嬉しそうにすらそう言う軽部だが、やはりと言うべきか彼女の言うとおり部屋はそれだけだった。
調度品はそれぞれが品が良く、所々は綺麗に纏まってはいるのだが、端的に言えばほとんど何も無いのだ。
勿論、テーブルの上にはお茶菓子が少々。
ついでに、電気は在るのかポットとお茶筒、人数分の湯飲み。
とは言え、いい加減ちびっ子に頭に来そうに成っていた明日野だが、咲良の前では決してその様な顔を見せることは出来ない為か、笑いながらもこめかみはピクピクと動いていた。
人数分の荷物を明日野が置き終えた所で、久座はペコリも頭を下げる。
「特にお部屋の方で説明する事は御座いません。 夕食まではまだ間が在りますので、当宿自慢の温泉をお楽しみいただくか、森の散歩など如何でしょうか?」そう言うと、久座は部屋を後にした。
流石に元上役に毒を吐くわけにも行かず黙っていた安藤だが、ふぅと溜め息一つ。
「ま、あの人も言ってたけどさ、良いんじゃないの? 偶には……なんて言うかさ、ゆったり過ごすってのもさ」
意外にもジャケットスラックスのボーイッシュな安藤は旅館座椅子に腰掛けそう言う。
「そうですよー? 取りあえずお茶でも入れますから…………あ! 安藤先輩、後でお風呂見に生きません?」
そんな咲良の言葉に、明日野の耳がピクピクと動くが、蠅野はそれを見逃さない。
少年の腕をグイグイ引っ張って女性陣には「すみません、ちょっと用を足しに」と、言い残した。
「駄目ですよ? 貴方はには目的が在るんでしょう? 彼女達は僕がしっかり引率しときますから、君はとっとと久座さんに聞いてきてくださいね?」
そう言う蠅野に、明日野は疑惑の視線を投げかける。
「貴様…………俺が居ない間に…………は!? まさか咲良のはだ…………」
明日野は話の途中だったが、それは蠅野が明日野の頭を叩く事で止める。
「馬鹿言ってんじゃありません。 僕はこれでも保護者です! 貴方みたいなストーカーとは違いますから!」
そう言う蠅野に背中を押され、明日野はトボトボと広めの廊下を歩いていく。
蠅野も大悪魔だが、能力を制限されている彼等悪魔は普段は普通の人間と変わりないのだ。
長く過ごせばより人間らしく生きられるが、それは同時に悪魔としての勘を鈍らせる。
だからこそ、ソッと影から自分達をみていた理彩の姿に、蠅野が気づく事はなかった。