街の薬屋さん
咲良はバイト先の薬屋でごく普通に店員をしている。
チェーン展開の店舗ではなく、店主自身が経営している店な為にこじんまりとはしているが、店主の確かな知識と親切な対応から地域からの信頼は厚かった。
バイトの咲良は別として、当たり前だが、薬剤師は普通に居り、割と背が高めの店主兼薬剤師の外国人らしき風貌の女性は【ユフィール】と名乗っていた。
咲良は霊感ゼロな為に蠅野が胃薬を買いに来ても気付かず、店主と気軽に話す作業着の青年に、独り者だという店主と上手くいく様にコソッと願っていたが、それは実は語弊がある。
このドラッグストアの薬剤師、ユフィールは医学に特化した魔神であり、地獄に在っては特に中間管理職たるベルゼバブや大悪魔達の健康管理を任されるほどの薬学にも卓越した頭脳や知識を示した悪魔である。
当たり前なのかどうかは別として、やたらと地上でも気苦労の多い蠅野の健康もまた、このユフィールが握っているとしても過言ではないだろう。
地獄に在ってはベルゼバブの宮殿にお抱えの治療師として勤め、あまり蠅野との関係は変わってはおらず、信頼し合う部下と上司といった関係なのだ。
豊富な知識から、ユフィールは遥か昔から薬剤師や医師の真似事を続けているが、薬剤師としては戦後の動乱に紛れて半ば無理やり経営する形だったのが、ここ最近、ようやく正規の薬剤師として資格を持ったらしい。
だからこそと言うべきか、現代以前に販売していた薬剤は怪しげな材料が多く、身体に良いと日干しにしたゴキブリや土竜を渡された現代のサタンもとい佐田はげんなりとした顔をしていたが、蠅野は寧ろ喜んでいた様である。
こうして、いつもの様に穏やかな時間が流れる。
客も引け、女性同士と言うことも有ってか、客が居ない時、咲良は良くユフィールと話を交わす。
どう見ても二十台程度にしか見えない筈の彼女だが、異様な程に様々な事に詳しく、そんな彼女に咲良は近所に越してきた明日野に付いて話をしていた。
最初こそ、笑って話を聞いてくれるユフィールだが、話の途中から彼女の顔は青ざめ、僅かだが冷や汗すら見える。
「咲良……その子、もしかして……少し日焼けしていない?」
そう言うユフィールに、そう言われればそうかもと咲良は頷く。
「その子……貴女には恥ずかしそうにしてるのよね?」
そんなユフィールの質問に、咲良はケラケラと少し笑う。
「そうなんですよぉ? なんか……私の前だと恥ずかしそうにしているのが可愛くって…………」
そう言うと、咲良は嬉しそうに笑った。
幾つかの質問でユフィールは確信していた。
蠅野に胃薬が増えた理由と、最近この国に来たバカでかい力の持ち主の事を。
そんな中、ユフィールは硝子の向こうへと注意を向ける。
彼女の長い金髪の毛が僅かに逆立ち、息を飲む。
遠い昔に感じたことの在る嫌な気配に、ユフィールは判断に迷っていた。
蠅野や明日野も、大悪魔らしく嫌な気配を覚えていた。
昔ながらの独善的な欺瞞と正義に塗れた、天使擬きの気配である。
「先に行く!!」と走り出す明日野に、蠅野は後を追うことを躊躇していた。
下級であれば天使などどうと言うことも無いが、問題なのは協定である。
根本的には喧嘩両成敗であり、その気が無くとも天使達は下っ端を差し向け大悪魔にワザと喧嘩を売らせる事も珍しくなく、蠅野やサタンはそれを危惧していた。
協定自体は悪魔代表のサタンと天使代表ミカエルの両者の間で行われており、実は強制力はあまりない。
とは言え大悪魔や熾天使が少し暴れれば町一つは簡単に瓦礫の山と化してしまう事を含め、面子の事も在ってか争いは厳に戒められていた。
此処で問題なのは、ごく一部除けば天使は人間をどうとも思っておらず、彼等は神にのみ忠実だという点であり、同時に問題なのは悪魔達は寧ろ地上に実に好んで馴染んでいると言う点であった。
人間など構わず暴れたがる下っ端は多いが、佐田は親分として下っ端のそれを厳に戒め、逆らう者は容赦なく地獄に叩き返していた。
蠅野は急いで電話を取り出し、佐田へと電話を掛けるが、果たして自分が間に合うかどうかを心配していた。 咲良のために少年が暴走しないことを祈りつつ。
咲良に微笑み、今日は店の奥で在庫整理をして残るよう言い付け、ユフィールは一人ソッと店を出るのだが、其処には異様な光景が広がっていた。
夜とはいえ人通りも多いはずの通りに人は無く、在っても気配はほとんど疎らであり、店にはどんどんな気配が近付いて来る。
昔ながらの嫌みな方法に、ユフィールは舌打ちをしていた。
周りを見渡し、ユフィールは人には聞こえない声で叫ぶ。
『なんなわけ? この辺りをソドムとゴモラにでもするつもり!?』
そんなユフィールの声に返事は無く、返事の代わりに遠くからは頭の上に小さな輪が輝く学生達の影が現れていた。
地上に置いて、悪魔にも天使にも覚られない様に【力】を使う方法は幾つか在るのだが、薬屋が店舗を構えるビルの屋上には、大きく明日野が用いたのと同じ丸型の陣形が描かれていた。
ただ、その図柄は明日野が用いたモノとは逆の効果をもたらすよう改変されている。
所謂【古代魔術 人払いの陣】であった。
異変については明日野は遠くからでも見渡せる。
だが、受肉化に伴い足の速度は遅くなりそれがなんとももどかしく思えど、彼は必死に走った。
時速六十キロと言えば早く感じるだろうが、それが今の明日野の限界でもある。
無論、正体を見られる覚悟や、協定違反から地獄へ戻される覚悟が有れば本来の姿へと変身は可能だが、それは明日野には決して出来ない相談だった。
と言うのも、悪魔の長命からすれば懲役刑代わりの数十年と言う年月はあまり長く感じないかも知れないが、それでは二度と咲良に会える機会を失いかねない。
輪廻は確かに存在するのだが、その魂は常に形を変え、自然の流れと一緒で決して同じモノでないのだ。
だからこそ、愛する者の元へと大悪魔は走るのだ、そのもどかしい人間の様な苦悩を背に背負いつつ。
明日野が人除けの陣へと走る間、中では異様な睨み合いが続く。
戦力的にはどうと言うことはないのだが、戦えばユフィールは別の意味で苦戦を強いられる。
殺すことは容易くも、それでは操られているだけの人間まで殺してしまうことに成りかねず、周りを取り囲みながら笑う学生達の姿に、ユフィールは魔神の力を出せずに牽制されてしまっていた。
下っ端悪魔ならば、人間数人程度はどうとも思わないだろうが、地上に長く居る内にそれに愛着を持つ者は多い。
世界を見つめ、人をみる内にそれぞれが生き様を見せ、短くも様々な世界を形成するそれを気に入ってしまう者も多かった。
ユフィールもまたその一人で在り、手をだし兼ねていたのだ。
だが、そんな悪魔の葛藤などいざ知らず、頭に輪を浮かせた学生達は襲い掛かった。
古代魔術を使える者はそうは多くない。
古の魔術師やよくよく勉強熱心な魔法使い。
或いは、天使か悪魔のどちらかである。
魔法など人間の間では最早ロストテクノロジーであり、それを使おうなどと言う者は人間には皆無と言ってもいいだろう。
焦る明日野だが、彼の横に追走するかの如くバイクが一台。
生憎と明日野はバイクに疎いため車種は分からないが、スポーツタイプの真っ赤な車体にはステッカーが張ってあり、【WAR tuning】とあった。
ヘルメットからはフルフェイスでないために女性らしい横顔が伺え、尚且つ何処であつらえたのか、ワザとらしくボディラインを強調するような黒のライダースーツ。
気配云々以前に誰かが分かり、明日野は若干辟易する。
だが、眉根を寄せる少年に構うことなく、女性ライダーはノホホンと口を開いた。
「やぁ、明日野君。 ランニングでは間に合わないんじゃないかな?」
そういうと、バイクの後部座席をポンポンと叩く。
舌打ち一つし、さも当然の様に明日野は飛び乗った。
「行け! 借りは後で返す!!」そんな明日野の言葉に、バイクを操る安藤はニッコリと笑う。
「その言葉……忘れないでよ?」そう言うと、安藤はギアを切り替え前輪が持ち上がる程バイクを加速させるのだった。
余談ではるが、明日野の両腕はしっかりと安藤の細めのウエストに掴まっており、安藤自体は満更でもないのか、彼女の満足そうな気分に応えて、二人を乗せるバイクも高らかに吠えていた。