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俺が釈放されてからというものの、事件に進展の様子はない。それに、今まで起こっていた不可解な出来事もぱったりと止んだ。嵐の前の静けさのようで、気味が悪い。次に、影の俺はどういったことを仕掛けてくるのだろうか。やつは未だに正体を現さない。
ぼうっと、窓の外を眺めていると、携帯にメールが届いたことを告げる着信音が鳴った。メールは麻衣からだった。内容は、午後に映画を見に行く時の、待ち合わせ場所についてだった。待ち合わせ場所は駅とのことだった。
昼食を家でとってから、俺は駅に向かった。約束の時間を五分ほど過ぎて駅に着いた。
「遅いって」
後ろから背中を突かれ、俺は振り返った。
「悪い」
「ほら、切符買っておいてあげたから」
麻衣は俺に切符を渡した。
俺たちは改札口を抜け、三番ホームに向かった。麻衣に聞いたところ、映画館は三駅ほど離れたところにあるらしい。
ホームの階段を駆け下りると同時に、電車は発車していた。
「もう、乗れなかったじゃない。大輝が遅刻するから」
麻衣はため息混じりにいった。そして、ホームの椅子に座った。
時刻表を見ると、次の電車は三十分後だった。俺がそのことを告げると、麻衣は露骨に残念そうな顔をした。
「それじゃ、映画に間に合わないじゃない。次の上映時間は三時間後だよ」
俺は腕時計に目を落とした。今から、三時間後だと次の上映時間は四時になる。
「まあ、いいじゃん。ゆっくりしようぜ。時間はあるんだしさ。それまでどっかで時間潰してればいいだろ」
麻衣は長いため息を漏らした。俺は自動販売機で、二本の飲料を買うと、一本を麻衣に渡した。彼女は、ありがとうといってそれを受け取った。
カランと空き缶の甲高い音が聞こえ、俺は隣の麻衣の顔を見た。彼女が空き缶を落としたようだった。彼女はどこか一点をとらえ、なにかに怯えていた。
「どうしたんだ?」
「なんで……あれ、大輝じゃない?」
麻衣の声は震えていた。彼女は反対のホームを指さしていった。俺は彼女の指さすほうへと視線を移した。
そこには、不気味な笑みを浮かべながら俺たちを見つめている、俺の姿があった。ワンポイント入りのティーシャツにジーンズを穿いている。二つとも以前に突然なくなったものだ。俺の心臓は高鳴っている。もう一人の俺が、とうとう姿を見せたのだ。
反対側のホームで、特急列車が通過するというアナウンスが流れた。彼は俺たちを見つめたまま、ぴくりとも動かない。
間も無く、特急列車がやってきて、反対側のホームを通過すると彼の姿はなかった。だが、彼は俺たちの目の前に立っていた。反対側のホームから、一瞬にしてこちらのホームにやってきたのだ。俺たちの同じホームにいる人たちは、皆一様に驚いた顔をしている。
俺は立ち上がり、彼のほうに歩み寄った。麻衣も立ち上がったが、臆した様子で足を踏み出そうとはしなかった。
「どうもはじめまして、といったほうがいいのかな」
彼は不適な笑みを浮かべながらいった。
「いや、はじめましてではないだろう。俺たちは二度会っているんだからな。そして今日が三度目の再会だ」
彼はぱちぱちと手を叩いた。小馬鹿にしたようなその態度に、俺は少し腹が立った。
「おやおや、あの鈍感な俺とは思えないね。そう、俺たちが今日会うので三回目だ。もう俺の正体はわかってるんだろ」
「お前は俺の影だろ。今までの不可解な出来事は、全部お前の仕業だ」
「お見事」
彼はもう一度、手を叩きながらいった。
俺は彼に手を伸ばそうとした。しかし、あと少しで触れられるというところになって、彼は消えた。俺は空を仰いだ。ちょうど、雲によって太陽が遮られたところだった。
「おっと、危ない。あんたに触れられるわけにはいかないんだよ」
俺の背後で、彼の声がした。あわてて俺は振り返った。彼は麻衣の隣に立っていた。
「どうして触れられたら困るんだ?」
「影と本体は一心同体だ。あんたに触れられたら、俺はあんたの影に戻されるからな」
やはり俺の読み通りだった。彼に触れることさえできれば、俺の影に戻るのだ。
「久しぶりだね。麻衣の告白を受けたのは俺だよ」
彼は麻衣に向かって笑顔でいった。麻衣はなにもいわず、怯えた表情を浮かべているだけだった。
俺は、彼のほうに足を踏み出した。
「それ以上近づくなよ」
彼は、バタフライナイフを取り出すとそれを麻衣に突きつけた。麻衣は逃げ出そうとしたが、彼に腕をつかまれ首にナイフを突きつけられる形となった。
「それ以上近づくと、この女を殺すぜ」
彼はぺろりと舌を出すと、不気味に笑った。
「大輝……助けて」
麻衣は泣きながらいった。恐怖のあまり、彼女の身体は小刻みに震えている。
「お前はもう俺に手出しできないぜ」
「それはどうかな。お前、リバーシってゲームを知ってるか?」
「なんだそれは?」
彼は問い返した。
「逆転ゲームだ。一見、優勢だったほうが、後半で逆転されることもあるゲーム。オセロのようなもんさ」
「それがどうした」
「この状況、どう見てもお前のほうが優勢だ。それをひっくり返してやろうってんだよ」
彼は大笑いした。
「この状況をどうやってひっくり返すってんだ。見ものだね。やれるならやってみろよ」
「いわれなくてもやってやるさ」
俺は、周りを見回すと、数人の人物に目で合図を送った。そして、俺は自分の右腕に、勢いよく噛み付いた。
「いってぇ」
彼は、苦痛に顔を歪め、ナイフを落とした。その瞬間を見逃さず、麻衣は彼の手を振り払い俺のほうに駆け寄ってきた。それと同時に、俺が目で合図を送った人間が、彼の周りを取り囲んだ。取り囲んだ中の一人の男が、彼の落としたナイフを線路のほうへ蹴り落とした。
「どうだ、これで形勢逆転だな」
彼はちっと舌打ちした。俺の右腕からは、血が滴り落ちていた。右腕がじんじんと痛む。もう少し加減しておけばよかった、と後悔した。
「お前らなんなんだよ?」
彼は、彼の周りを取り囲んでいる人間に向かっていった。そのうちの一人が警察手帳を出し、警察であることを示した。
「なんで、警察の人がここにいるの?」
麻衣は呟くようにいった。
「ごめんな、黙っていて。俺は記憶を無くしたんじゃなかったんだ。刑務所にいるときに、そいつの存在に気づいた」
麻衣は改めて、もう一人の俺を見た。未だに信じられないという顔をしている。
「そいつを捕まえるために、警察の方に協力してもらったのさ」
「そういうことなんだ。君のいうとおり、君を見張っていて正解だったよ」
彼を取り囲んでいる中の一人の男がこちらを向いていった。その男は、変装に使っていた帽子をとり、サングラスを外した。
「伊勢崎さん」
麻衣は、驚いた表情で、伊勢崎の顔を見た。
「じゃ前に私たちをつけていたのは、警察の人だったの?」
「そう、麻衣が不審に思っていた人は伊勢崎さんだったんだよ」
麻衣はむっとした表情で、伊勢崎を睨んだ。伊勢崎は彼女の顔を見て、ごめんと謝った。
「終わりだな。お前の負けだ」
俺がいい終わると同時に、四番線を特急列車が通過するというアナウンスが流れた。
「俺の負けじゃない」
彼は、きっと俺を睨みつけた。追い詰められているというのに、その目には余裕が感じられた。
「この期に及んで、勝てるとでも思ってるのか? 俺がお前に触れた瞬間、お前は俺の影に戻るんだからな」
彼はふっと笑みを漏らした。
「勝てるとは思わないさ。だけど、この勝負、引き分けにはできる」
彼は、一歩二歩と後退していった。
「なにするつもりだ?」
俺の問いかけに、彼はただ笑っているだけで、なにも答えなかった。すると、遠くから特急列車が迫ってきているのが俺の目に飛び込んだ。やばいと思い、俺が彼に飛び掛った時には、彼は後方にジャンプしていた。
「あばよ」
彼が特急列車に跳ねられると同時に、俺の身体に強い衝撃が走った。俺の身体は宙を舞い、身体のあちこちは引きちぎられ、頭からは頭蓋骨が割れるような鈍い音がした。一瞬の出来事で、痛みさえも感じない。
目の回る世界に飛び込んできたのは、麻衣の泣き顔に彼女の悲鳴だった。数秒後、俺の意識は、深い暗闇の中だった。もう光の世界には戻れない、深い暗闇の中。あいつと最初出会った時の暗闇を思い出し、俺の意識はなくなった。