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「大輝こっちにこいよ」
教室に入るなり、荻窪隼人に声をかけられた。俺は、鞄を机に置き、彼のところへ向かった。
「昨日、坂倉とどこ行ってたんだ?」
隼人はにやにやした顔つきで訊いてきた。
「どこって……どこにも行ってないけど」
「とぼけんなって。お前と坂倉が、手繋いで歩いてるところを見たんだからさ」
「はあ? 人違いだろ。俺は昨日坂倉と会ってないし」
昨日はずっと家にいたのだ。本屋へ買い物に行ったときくらいしか、外出はしていなかった。
「そんなはずはないぜ。お前に声かけたんだからさ」
依然として、彼の表情は緩んでいる。なにかを期待しているような顔だ。
「俺はなんて答えたんだ」
「彼女とデート中だって」
隼人は俺のほうに顔を近づけると、周りの者に聞こえないように、声のトーンを落としていった。
「えっ! 本当……なのか?」
俺は確認するように、隼人に尋ねた。隼人は首を縦に振った。
信じられなかった。坂倉に告白されたことも、俺が彼女に告白したことも記憶にない。それに、昨日隼人が見たという俺は一体誰なのだろうか?
「で、昨日はどこ行ってたんだよ」
隼人はしつこく訊いてくる。
「だから、どこにも行ってないって」
俺がいい終わると同時にチャイムが鳴った。タイミングのよい、救いのチャイムだ。それを機に、俺は自分の席に戻った。頭の中は混乱していて、どういうことなのか、さっぱりわからない。
ぼうっと、黒板を見つめていると、突然脇腹に激痛が走った。誰かに蹴られたような、強い衝撃と痛みだった。そして、その衝撃と激痛は、二度三度と脇腹に感じた。その後に、左頬に強烈な衝撃を受けた。唇が切れたようで、口の中に血の味が広がった。
ずきずきと痛む脇腹を押さえ、机に顔を埋めた。突然のことに、誰に殴られたのかさえもわからなかった。いや、誰も俺を殴っていないのだろう。それを裏付けるように、教室の中は何事もなかったかのように、皆が黒板に目を向け板書していた。ブレザーを脱ぎ、シャツをめくってみると、激痛の走った脇腹に青痣ができていた。
その夜、坂倉からメールが送られてきていることに気付いた。そのメールを見て、俺は驚いた。
メールの内容は、昨日彼女と遊園地に行ったことについてだった。俺には身に覚えのないことだ。どうやら、隼人が俺を見たというのも嘘ではないかもしれない。そうすると、もう一人俺が存在するということになる。だが、そんなことは有り得ないことだろう。
俺はメールを返信せず、翌日、坂倉と直接話そうと決めた。それに、結局、あの影がいったことはわからず仕舞いだった。
俺が屋上に行くと、フェンスの金網をつかみどこか遠くを見ている坂倉がいた。昼休みに、話があるといって、放課後屋上に来るよう呼び出しておいたのだ。
「なに見てんの?」
俺が坂倉の背中に向かって声をかけると、彼女はゆっくり振り向いた。
「こっち来て」
坂倉に呼ばれ、彼女のところへと歩み寄った。
「あの公園だよ」
坂倉は指さしながらいった。
「懐かしいな。小学生の頃、学校帰りによく遊んだんだよな」
「そうそう。覚えてる? 大輝が鉄棒から落ちたとき、私が泣き叫ぶあんたを引っ張って帰ったこととか」
「そんなこともあったっかな」
俺は苦笑した。
坂倉は笑いながら、俺のほうに顔を向けた。一瞬、彼女の笑顔にどきりとした。
「それで、話ってなんなの」
「昨日のメールのことなんだ」
「メール?」
「遊園地に行ったってあったけど、俺全然覚えてないんだ。だから、そのときの話が聞きたくて」
「うそ! 本当なの?」
坂倉は信じられないというような顔をした。俺は頷いて答えた。
「記憶障害でもあるの?」
「そういうわけじゃないと思う。坂倉といたときの記憶がないんだ」
坂倉は小首をかしげ、なにか考え事でもしているかのような表情をした。
「ねぇ、もしかして大輝って二重人格とかそういうなんじゃないよね?」
坂倉の探るような質問に、俺はどきりとした。最近、身に覚えのないことが起こっていたこともあり、俺自身、二重人格であるのかもしれないと思っていたのだ。
「どうしてそう思うんだ?」
「私と遊園地に行ったとき、大輝は私のこと坂倉なんて呼んでなかった。麻衣って名前で呼んでくれてたから」
「そうなのか?」
坂倉は頷いた。俺は彼女に対して、名前で呼んだことは一度もなかった。
「遊園地に行った日、隼人に会ったってのも本当なのか?」
「うん、本当だよ。私嬉しかった。大輝が誤魔化さず、本当のこといってくれて」
本当のこととは、俺と坂倉が付き合っているということなのだろう。俺にはどういう経緯でそうなったのかはわからないが。
「俺たち付き合ってるのか?」
俺の言葉に、坂倉はまたしても驚きの表情を浮かべた。
「そんな……私が告白したことも記憶にないの?」
「ごめん。ないんだ」
「ひどい……」
坂倉の表情は悲しそうな顔に変わっていた。彼女の顔を見て、聞いてはいけないことだったのかもしれない、と俺は後悔した。彼女の悲しそうな表情に俺の胸は痛んだ。
「それじゃ、大輝が付き合ってくれるっていったのはなんなのよ」
俺は言葉を失った。頭の中が混乱していて、どう答えればいいのかわからなかった。
「私のことどう思ってるの?」
坂倉は真っ直ぐ俺を見つめていった。
「それは……」
思わず彼女から視線を逸らしいい淀んだ。あと一言、言葉が出てこない。俺は、自分の中で答えを出せないでいた。
「もういい……」
坂倉は俺に背を向けると、走って屋上を後にした。
俺は坂倉のことが嫌いではない。かといって、好きかと聞かれれば、素直にはいといえるかどうかわからない。ただの幼なじみとして仲がよかっただけで、彼女を恋愛対象として見てこなかったからだ。複雑な気持ちで、やりきれない思いだ。
俺の周りで一体何が起こっているのだろうか? 夢に見る黒い影に、俺の周りで起こっている不可解な出来事。いくら頭の中を整理しても、まるで理解できない。もう一人俺が存在していると考えるのが妥当のように思えるが、果たしてそんなことがあるのだろうか。
一人取り残された屋上で、俺はフェンスの金網をつかみ項垂れた。その瞬間、目を疑った。
俺の影がなかったのだ。空は夕空に変わりつつあるが、陽は出ている。周りの建物や、グラウンドを歩く生徒たちにはちゃんと影がある。それなのに、俺にだけ影が存在していない。身体には特に変わった様子はないが、影がないとはどういうことなのだろう。これも例の不可解な出来事に関わってくることなのだろうか?
家に帰ると、俺はベッドに寝転がった。身体が鉛のように重く、ひどく疲れているのがわかる。目を閉じてしまえば眠ってしまいそうだ。しみで黒ずんだ天井を見つめ、しばらくして目を閉じた。
頭の中に、様々な不可解な出来事が蘇ってきた。唯一共通していることは、全ての不可解な出来事が日中に起こっているということくらいだ。それだけではさっぱりわからない。
それに、坂倉のこと。幼なじみとしての彼女ではなく、男女の関係として向き合う必要がある。俺が答えを出さなくてはいけない。彼女に対しての俺の想いはどうなのだろう?
しばらく考え込んでから、俺はベッドから飛び起きた。カバンから携帯電話を取り出し、電話帳を開け坂倉に電話をかけた。呼び出し音が四回鳴ったところで、彼女は電話に出た。
「なんなの?」
坂倉は突っかかるような、不機嫌そうな声でいった。
「えっと、ごめんな。その……遊園地に行ったことや、坂倉に告白されたことが記憶になくてさ」
「もういいよ。あの後考えてたんだけど、記憶がなくなってるのは仕方ないことだもんね」
「それでさ、今度の日曜日空いてないかな?」
「日曜日? どうして?」
「ほら、俺たち付き合ってんだろ。麻衣の予定が空いてるなら、どこかに出かけよう。それに、前に借りた数学の宿題の埋め合わせもしたいからさ」
坂倉を名前で呼ぶのは初めてだったが、なんだか違和感を覚え気恥ずかしくなった。電話越しにくすくすと坂倉の笑い声が聞こえてきた。
「なっ、なに笑ってんだよ」
「ごめん、ごめん。大輝ってさ、随分前のこと覚えてるんだね。私すっかり忘れてた」
「当たり前だろ。麻衣には課題出される度世話になってるんだからな。そういうわけで、日曜日頼んだぜ」
「わかった。空けとく」
坂倉は明るい声でいった。彼女の機嫌も直ったようだ。
電話を終えると、俺はばたりとベッドに倒れこんだ。
「麻衣……か」
黒ずんだ天井を見つめ、そっと彼女の名前を呟いてみた。そして、目を閉じると、俺の意識はすっと遠ざかっていった。