第13部
湖晴が珠洲と音穏の事を忘れ、何か湖晴の様子がおかしいと感じた俺は、グラヴィティ公園近くの暗がりであった湖晴とのなんやかんやのやり取りを振り切った後、ようやく学校の教室へと辿り着いた。約束通り、湖晴は俺が通っている原子大学付属高等学校の校門の所まで来て、俺がテストが終えて帰って来るまで待っているらしい。
そして、今朝は家を出るのが早かった為か現在時刻は八時二十分を少し過ぎた所。俺と湖晴の方が珠洲と音穏よりも早く学校へと向かったのだが、どうやら俺が湖晴と公園近くの暗がりで少しばかりの寄り道をしていたせいか、音穏の方が先に学校に着いていた。
音穏の雰囲気は重く、その表情はどうにも出来ないもどかしさを抱えているかの様にも見えた。一応、音穏は栄長の机の上にもたれ掛かる様にして座っているのだが、一方の俺はそんな音穏に対して今だにどうも会話を切り出す事が出来ず、テスト前なのでむやみやたらに寝ると起きれなくなるかもしれないので寝る事さえ出来ず、それはそれはしんどい数分間だった。
「音穏ちゃん、次元君、おはよー……って、何どんよりとした雰囲気になってるの? お二人さん」
すると、そんな暗く重い雰囲気に包まれていた俺達に対して、全く持って場違いな……いや、この場面においては救世主と呼ぶべきだろうか。そんな人物が現れた。俺はふと俯けていた顔を上げてみた所、そこには至って普段と変わらない様子の栄長が少し謎めいた表情をして立っていた。
「あ……おはよ……燐ちゃん」
「次元君。説明しなさい」
「……状況把握が早いな」
音穏の気分が落ち込んでいる事が主に俺のせいである事を栄長はすぐに察し、そんな風な台詞を少し怒った表情をしながら俺に放って来た。
いや、正確には、湖晴が珠洲と音穏の事を何故か忘れていたと言う妙な事が音穏の気分を落ち込ませている大きな要因なのだとは思うのだが、それに対するアフターフォローもろくに出来ていない幼馴染みとしては、俺にも大きく非がある。それに、湖晴があんな風になってしまったのは、もしかしなくても俺のせいなのだと思うから。直接的には関係無いとしても、俺と湖晴が彼氏彼女の関係になる以前にはこんな事は無かったから、そうとしか考えられない。
栄長は俺の一つ前にある自身の席に座る事無く、椅子に座っている俺の隣に立ち、じっと俺の事を見ていた。やばい、かなり気まずい。と言うか、何でも知っていそうで洞察力が鋭過ぎる栄長にこんな風に何か目を付けられたのは、そう言えば初めてではないのだろうか。とてもではないが、逃げられる気がしない。
「はぁ……話し難い事なんだって事は何と無く分かるけど、そんな風に落ち込まれていると、私としてもやっぱりどうしても気になっちゃうのよ」
「……」
どれ程優秀な女の子であるあの栄長に話した所で、湖晴の珠洲と音穏に冠する記憶は戻らないだろうし、今の状況は何も解決しない。それどころか、栄長に余計な心配と負担を掛けてしまうかもしれない。栄長の親友である音穏だってそんな事は望んでいないはずだ。そう考えた俺は栄長からの台詞に特に答える事無く暫くの間、沈黙を維持していた。
「そう言えば、校門の所で湖晴ちゃんらしき女の子が双眼鏡持ってこっち見てたけど……あれって本当に湖晴ちゃん? 私が話し掛けても返事しなかったし、それに、何か雰囲気がおかしかった様な……」
「!?」
栄長のそんな台詞を聞いた俺は急いで教室から校門が見える手前の廊下に出て、そこから校門付近を見下ろした。そこからは、只今登校真っ最中で生徒達が十数人見えた。そして、肝心の校門の所には両手で双眼鏡を構えてこちらを凝視している青髪長髪で女の子らしい可愛い服を着た一人の女の子の姿があった。
湖晴が校門の所で待っている事は二人で相談して決めた事だから知っているが、まさか、双眼鏡を使ってまでこちらを見て来るとは思わなかった。校門の所からは、教室は直接的には見えないのでその視線を気にする必要は無さそうだが、そんなに俺と離れたくなかったのだろうか。と言うか、何時の間に双眼鏡なんて用意したんだよ。
……ん? ちょっと待てよ? 今、栄長は『私が話し掛けても返事しなかった』と言ったよな? それはつまり、湖晴は珠洲と音穏だけではなく、栄長の事さえも忘れたと言う事に他ならないのではないだろうか? ただ単純に双眼鏡を使っていたからと言っても、大抵の場合は知り合いが声を掛けて来たのなら、一瞬でもそちらの方向を見るはずだから、これはおそらくそう言う事なのだろう。
と言う事は、まさか、湖晴は本当に自身と俺と玉虫先生以外の人の事を忘れたって言うのか? 何で? 俺と付き合い始めたから?
しかしながら、その明確な因果関係が全く分からない。湖晴が自身と俺と玉虫先生以外の人の事を忘れる事にどんなメリットがあると言うんだ。おそらく、それにメリットなんてありはしない。少なくとも、今の俺が思い付く範囲内では。
「……くんくん」
「?」
俺が廊下から教室に戻り、様々な事に対する仮説を立て、椅子に座りながら考えを深めていたその時。既に自身の椅子に座っていた栄長が目を瞑りながら、何やら鼻を立てて俺の方を向いていた。その様子は、犬が縄張りを確認したりだとか食物が安全か否かを確かめる際にその匂いを確認する、あの仕草によく似ていた。
何でだろうか。昨晩も今朝も特に匂いが体に付き易い物を食べた記憶は無いし、昨晩もきちんと風呂に入った。だから、臭いとかそう言う事は無いと思うのだが……どうも女の子にこんな風に匂いを嗅がれるとそんな事にまで気になってしまう。
「……湖晴ちゃんの匂いがする……」
「え!?」
「何で?」
「え、いや、その……」
栄長のそんな台詞に慌てふためく俺に対して、栄長は至って真剣そうな表情をしたまま、一言だけ問い質して来た。
そうか! この金・土・日曜日は外出こそしなかったものの、家中では何時でも何処でも何があってもずっと湖晴と二人でくっ付いて過ごしていたから、それで湖晴の匂いが俺の体に付いていたのか! そう言えば、昨晩は湖晴が『一緒にお風呂に入りましょう♡』と言って来たからそのままの流れで一緒に風呂に入ってなんやかんやしたから、俺の体から湖晴の匂いが取れなかったのか!
『不味い。なんとか誤魔化さないと』と必死に俺の脳内から数少ない語彙からこの状況に適切な言葉を搾り出して選択していると、不運な事にも、ここでもまた、栄長の鋭い勘は見事に的中してしまう。今回ばかりは栄長自身もただの当てずっぽうだったみたいだが、その一言は俺の『誤魔化さないと不味い精神』に深刻なダメージを与えた。
「あ、そうか。遂に、次元君も湖晴ちゃんと一線越えちゃったかー、成る程ー。おめでとう。それでそれで? どっちから誘ったの? 次元君? それとも湖晴ちゃん? 次元君はヘタレだから、私的には湖晴ちゃんからだと踏んでいるんだけど。でもまあ、せめて赤ちゃんは高校を卒業してから……」
「……」
「え?」
「……」
「ちょ、ちょっと、次元君!? もしかして、本当に……」
栄長の冗談交じりのそんな軽い調子に対して、唖然としていた俺の異変を感じ取ったのか、今度は逆に栄長まで驚き始めた。しかし、その会話の結末が最後まで進むよりも前に、テスト開始五分前の本鈴前にある予鈴が教室中、校舎中に響き渡り、それは寸断された。
そして、結局特に何も話す事無く、俯いたままそそくさと音穏は自身の席へと歩いて行った。そんな音穏の姿をどうする事も出来ず、俺と栄長は眺めていた。ふと気が付くと、俺の隣の席にはいつも通りに静寂のままに難しくて分厚い本を呼んでいるをしている、長髪で落ち着いた雰囲気がして、これまでに幾つもの謎言動を残している杉野目施廉が座っていた。
「次元君!? 何!? どう言う事!? まさか、本当に湖晴ちゃんと一線越えちゃったの!? 一応、私は場の雰囲気を和ませる為に言ったつもりだったんだけど!?」
試験監督の先生が入って来るよりも少し前に、栄長が俺の方を振り向いて、口を隠しながら小さな声でそう話し掛けて来た。その栄長の様子は怒っている様にも、驚いている様にも、焦っている様にも見えた。
「まあ、あの、はい。一応は……」
「……」
「……どうも、初めまして。つい先日から照沼湖晴さんの彼氏になりました、上垣外次元です。どうぞこれからも宜しくお願い致します……」
「いやいや、そんな改まって言われても」
栄長にはどの様な言い訳をした所で、最終的に……と言うか数秒後には見破られてしまう事をこれまでの経験から知っていた俺は、俺と湖晴の関係について包み隠さず答えた。それを聞いた栄長は『あちゃー』とでも言いそうな感じで頭を軽く押さえながら、次の台詞を発した。
「不味くね?」
「何が?」
「いや、だって、やっちゃったんでしょ?」
「一応、湖晴はOKだったけど……」
「まだ貴方には……と言うよりも、高校生には子供はまだ早いわよ?」
「……湖晴は元々子供が出来ない体質らしいから、多分その心配はいらない」
もしこの会話を俺と栄長以外の誰かが聞いていたとすれば、『何、朝っぱらからエロい話してんだよ! しかも男女で!』みたいな事を言われそうだが、そんな事はどうでも良い。隣の席の杉野目辺りにはもしかすると聞こえていたかもしれないが、そんな事はどうでも良い。
「一時間目終わったら、音穏ちゃんが何であんな事になっているのかについてと、この件について詳しく聞かせて貰うから覚悟しときなさい」
「りょ、了解」
栄長さん、怖いっす。台詞も、その笑顔も。
「私としてはあまりお勧めしないけど、次元君も疲れているんだったら、一時間目くらいは寝といたら?」
「……は? それは流石にしないぞ?」
「そう? 次元君にしては珍しいわね。いつも寝てる癖に」
「いやいや、留年寸前の野郎が大事な大事なテストで寝たら、それ以外の何処で点数を取れって言うんだよ」
「あれ? テストって? 今日って、小テストか何かあったんだっけ?」
「ん?」
自身の鞄の中から筆箱や教科書、ノート等を取り出しながら、栄長はそんなおかしな事を言った。もしかして栄長の奴、今日が中間テスト初日だと言う事を忘れているな。栄長にしては珍しいが、ここは一つ、知り合いとして教えておいてやろう。
「今日、十月二日月曜日は中間テスト初日だぞ? 科目は……」
「次元君。中間テストなら、今日を含めてまだ四日間も余裕があるわよ?」
「……はい?」
栄長が今言った台詞の意味が分からない。今日は十月二日月曜日、中間テスト初日のはずだ。それなのに、栄長はテストまではあと四日間もあると言った。だが、以前音穏から聞いた時も、念の為予定表を確認した時も、中間テストは今日の日付(十月二日月曜日)になっていたはずだ。そうすると、今栄長が言った台詞はどう言う意味になるんだ?
暫くの時間が経過し、栄長からの次の台詞を待ちつつ、俺はそんな事を考えていた。そして、次に発せられた栄長の台詞は再び俺に、この世界の異変を感じ取らせる物となった。
「だって、今日はまだ『九月二十八日木曜日』でしょ?」