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Time:Eater  作者: タングステン
最終話 『Se』
180/223

第08部

 もう……駄目だ……。


 俺は心身共に心底疲れていた。それは、最近の度重なる過去改変作業やテスト勉強等によってもたらされた物ではない。根本的な原因は別の所にある。それは俺の幻覚症状と言う、非日常的且つ悪夢の様な出来事によってもたらされたのだ。


 今朝自宅を出る直前の珠洲から始まり、登校中には音穏、教室では栄長、そして昼休みでは阿燕、須貝、飴山の三人が同時に、あたかも過去改変前の状態に戻ったかの様な言動をしていた。あれらが全て、俺だけに見えている幻覚だと言う事をある程度は理解出来ていても、俺はそれによってもたらされた恐怖心を拭う事が出来なかった。


 だってそうだろう? 救われたと思っていた子達が再び、苦しくて辛い境遇にある過去改変対象者になり、しかも、今の俺が知っているよりも遥かに酷い状態に陥っているんだぞ? 俺がした、あれらの過去改変作業は一体なんだったのか。俺がした事は無意味だったのか。そんな虚しさと、悲しみと、絶望。そして、そこに追撃とばかりに訪れる残虐非道な光景。それらが俺の中の恐怖心を生み出していたのだ。


 放課後、俺の事を心配してわざわざ屋上まで起こしに来てくれた音穏と栄長に対して、俺は『ごめん。今日、珠洲からお使い頼まれているから、先に帰る』とだけ言って、二人と別れた。当然、今朝にあんな事があった後で、そんな事を頼まれる訳が無い。


 今朝から俺の様子が何処かおかしいと言う事には気付いており、もしかすると阿燕や須貝や飴山から昼休みの事について聞いていたかもしれない音穏と栄長は俺のその台詞の後、『分かった。珠洲ちゃんと湖晴ちゃんに宜しくね』とだけ言って屋上から姿を消した。


 この事は、俺の頭のネジが少し飛んだだけの事で二人は何も悪くないのに、余計な心配を掛けてしまった事を俺は酷く後悔していた。しかし、後悔していても何も解決はしない。まずはそれを解決する事から始めなければ。


「た……だい……ま……」


 玄関ドアをゆっくりと開けた俺は、そんな気の抜けた小さな声を発しながら、ゆっくりと廊下に倒れた。顔が冷たい床に当たり、鼻が潰れる感覚がする。だが、今の俺はそんな些細な事に気を使っている余裕など無かった。一刻も早くこの幻覚症状をどうにかしないと俺の日常生活にまで影響が及ぶ、と言う事は分かっていても、それによってもたらされた疲労と眠気はそれを遥かに上回っていた。


 このまま寝よう。そして、そのまま土・日曜日もずっと寝よう。テスト中に幻覚を見て大声を出したらクラスメイト達に迷惑を掛けるし、俺自身もカンニング扱いされて失格にされるかもしれないしな。だから、今から丸二日半もの時間を全て睡眠に費やし、この症状を一時的に治す。根本的に解決しなかったとしても、俺の意識や記憶からそれが少しでも消えれば、なんとかなるはずだ。


 そう考えた後、俺がゆっくりと静かに目を閉じようとしたその瞬間、またしても唐突に、突然に、何の脈絡も無くあの悪夢はやって来た。


「あれ……?」


 気が付くと、そこは何処かの学校の屋上だった。時刻はおそらく夕方なのだろう。沈み掛けている太陽が赤く光っているのが遠目にもよく分かる。心地の良い風がそっと吹く。地面はコンクリートだろうか、先程まで俺が横たわっていたはずの自宅の廊下よりも随分と堅く、冷たい。


 遂に俺の幻覚症状はここまで来てしまったのか。今日は嘗て過去改変対象者だった子達六人全員分の幻覚を見たから、幻覚の発生条件は『嘗て過去改変対称者だった子達と会話する事』だと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。


 自宅の玄関前廊下に横たわった時点で俺は誰とも会っていないし、誰の姿も見てはいない。それに、幻覚を見る範囲も、その時俺がいる場所をある程度残虐に変化させた物ではなく、今は俺の知らない何処かの学校の屋上だ。最早これは幻覚などではなく、妄想に近い現象かもしれない。おそらく、心の安らぎを必要とした俺が、現実世界から切り離された空間を自分の脳内に作ったのだろう。……重症だな、これは。


 うつ伏せになっていた俺は、突然何処からともなく聞こえて来た、勢い良くドアを開け放つ音に驚き、思わず飛び上がった。少々辺りを見回してみると、そこには屋上と校内と結んでいるのであろうドアがあり、そこが大きく開いていた。


 だが、そのドアの近く及び俺の周囲に誰かがいる気配は無い。あるのは整然とした、だだっ広い何処かの学校の屋上と、そこから見える夕焼けの景色のみ。それはそれは、俺一人だけが取り残されたのではないかとすら錯覚してしまう様な空間だ。


「……私が……」


 そんな小さな声が俺の耳に聞こえた。その声は、何処かで聞いた事がある、俺の最も大切な人の声によく似ていた。しかし、ここが現実と掛け離れた空間ならその可能性は無いだろう。思考停止をした俺はその声のした方向を確認した。


「……あれ……?」


 屋上の隅、鉄柵の向こう側に誰かが立っている。その『誰か』の身長は多分百六十センチメートルくらいで、長くて綺麗な青い色の髪をしている。ふと見えるその『誰か』の容姿はともかくとして、その『誰か』は鉄柵にもたれている訳でもなく、ただ単純に下方を見ながら直立しているだけだった。


 その状態は、うっかり強風が吹けば簡単に落下してしまいそうに危険極まりない状態だった。


 状況認識が追い付かず、息を潜めて耳を澄まして時を待つ。数秒後、その『誰か』は再び小さな擦れてしまいそうな声で呟く。


「私が死ねば……次元さんを縛り付けていた物が全て無くなる……次元さんに何もしてあげる事も出来ない、こんなどうしようもない出来損ないの私が死ねば……」

「……え?」


 今、もしかして、俺、名前を呼ばれたか? でも、何で? これは一体、どう言う……?


 俺の考えが纏まらないままで数秒が経過し、そして、その少女は屋上から飛び降り、俺の目の前から姿を消した。目の前で飛び降り自殺を目撃する事はかなりショッキングな事だと思うが、それ以上に、俺はその光景の中で見た信じられない物に驚きを隠す事が出来なかった。


「湖晴……?」


 俺の目の前から完全に姿を消す直前、その『誰か』は俺の方を振り向いた。いや、もしかすると俺ではない、別の誰かの方を振り向いただけなのかもしれないが、とにかく、その『誰か』は後ろを振り向いた。


 いや、違う。その『誰か』は俺の知らない人ではない。その人物は、その少女は、彼女は俺の最も大切な人である、照沼湖晴に他ならなかった。


「え、え……え?」


 手を伸ばす。しかし、その手は何を掴む事も無い。声を出す。しかし、その声は誰に届く事も無い。目を見開く。しかし、その目は誰を映す事も無い。


 意味不明な結末を見届けた瞬間、俺の幻覚はそこで終了した。それ以前に、この体験が本当に幻覚だったのかすら分からない。それはもしかすると俺の見た悪夢だったのかもしれないし、俺の脳が勝手に作り出した幻覚ではない妄想だったのかもしれない。はたまた、俺が実際に体験した出来事だったのかもしれない。答えは誰にも分からない。少なくとも、今の俺には。


「……さん! 次元さん! 次元さん!」

「……あ、あれ……? ここは……」


 意識が少しずつ回復して行く中、少女の声が俺の耳に聞こえて来る。そして、寝起き特有のぼやけた視界がやや晴れた後、俺は辺りを確認した。つい先程まで俺が見ていた幻覚では何処かの学校の屋上にいたのだが、見渡す限りではおそらくここは俺の自宅の玄関前廊下だろう。


 そう確信出来た決め手は多々あったが、大きかったのは、俺の目の前にいる一人の少女の存在だった。


「次元さん! 良かった……やっと……」

「湖晴……か……?」


 その少女は俺の頭を抱え、膝枕の様な状態で仰向けになっている俺の事を介抱してくれていた。純粋無垢を具現化したかの様な碧い目、さらさらで綺麗な長い青髪、透き通る様に健康そうな真っ白な肌、うっかり触れてしまいそうになる豊満な胸……容姿の良い所を言葉にして表すときりが無い。そこにいたその少女は何を隠そう、俺にとって最も大切な女の子である照沼湖晴本人だった。


 意識を取り戻した俺に対して湖晴は一瞬自身の瞳一杯に涙を浮かべた後、その嬉しさのあまり、俺の顔をそのまま自身の体に寄せて抱き締めた。その行動によって、俺の顔は湖晴の豊満な胸に埋もれて行ったのだが……その事に対して喜びを感じる暇は俺には無かった。と言うよりはむしろ、息が苦しくなってしまった。


 湖晴の胸に顔を埋めながら、何とか酸素を得る為に俺は必死に抵抗した。しかし、湖晴の俺を抱き締める力は女の子とは思えない程非常に強く、その状況は何一つとして変わらなかった。そこで、須貝の過去改変の時の事を思い出した俺は湖晴の胸(肌が露出されている部分)に少し息を吐くと、湖晴の色っぽい声が聞こえた後、俺はようやく酸欠状態から開放された。


「じ、次元さん! な、何をするんですか!」

「いや、それはこっちの台詞なんだが……」


 危うく湖晴に窒息死させられる所だった。危ない危ない。


「でも……良かった……次元さんの声がしたから玄関まで来て見れば、そこで次元さんが倒れていたのですから。驚きもしますよ」

「あー、そう言う事ね」


 おそらく、つい先程俺が帰宅すると同時に力尽き、幻覚を見ていた時の事だろう。


 それはそうとして、先程の幻覚には湖晴が出て来た様に思えた。しかも、その状態は酷く、幻覚が途切れる直前に屋上から飛び降りると言う物だった。だが、今俺の目の前に湖晴はいる。どの様な経緯であの様な物を見たのかは分からない。しかし、今俺の目の前に湖晴がいる事は確かだ。それだけは。


「湖晴。そう言えば、こんな所で悪いんだが……」

「はい。何でしょうか?」


 軽く涙を流していた湖晴はすっかり元の状態に戻っており、俺からの問い掛けに対して正座をしながら首を少しだけ傾げた。しかし、俺はそんな湖晴を見て思い留まった。今から俺が聞こうとしている事は本当に、湖晴に聞いても良い事なのだろうか、と。


 言うまでも無く、俺が湖晴に聞こうとしていたのは『今朝から六回も起きた謎の幻覚現象』についてだ。これまでに二十九回も過去改変を繰り返し、そもそもその知識の量が尋常では無い湖晴なら、何か有益な答えを出してくれるだろう。そう思っていた。


 だが、俺が湖晴にその事を聞けば、湖晴はまた心配するんじゃないか? 今、俺が玄関で突っ伏していただけでこんなにも心配してくれている湖晴だぞ?


 俺が今日だけで六回も幻覚を見て、精神的にかなりまいっていると言う事を知れば、おそらくきっと湖晴は何か解決のヒントをくれる事だろう。だが、それと同時に俺の事を心から心配する事だろう。俺は湖晴にこれ以上の心配は掛けたくない。出来る事ならば俺は、湖晴には何の不安も悩みも抱えずに生きていて欲しい。


 そう結論付けた俺は、予定とは全く異なる質問を湖晴に投げ掛けた。俺のその機転に特に気付く事無く、湖晴は淡々と俺の質問に答えて行く。


「そう言えば、今朝は何処に行っていたんだ?」

「今日は夕方から珠洲さんがいらっしゃらないので、お夕飯を作る為の材料を少し遠くまで行って買って来ていたんですよ」

「え? 珠洲、今日何か用事なのか?」

「あれ? 珠洲さんから聞かされてませんでしたか? 朝、次元さんが学校に行かれる直前までには言う、と言っていましたけど……」


 今朝、俺が幻覚症状を見た事により、俺は強引に珠洲の会話を切った。それにより、珠洲の予定が狂って、俺に連絡をする事が出来なかった。学校では俺はずっと寝ていたし、午後からもずっと屋上で気絶していたから、スマートフォンによる連絡が付く訳も無い。つまりは、そう言う事だろう。


「あの……それで、次元さん……」

「どうした?」


 正座のまま、少し頬を赤らめて俯きながら湖晴が俺に話し掛けて来る。


「今晩もまた、私が料理を作るのですが、召し上がって頂けますか……?」

「あ、そうか。珠洲がいないから、そうなるよな」


 とは言っても、昨晩も湖晴が夕食を作っていたので、それ程違和感は無いのだがな。俺は、心配そうに眉をひそめながら上目遣いで俺に接近している湖晴に、何故か自身有り気に答えた。


「当然だ。昨日も言ったろ? 俺は、湖晴の作った料理なら幾らでも食べられる、って」

「次元さん……はい! それでは、絶対に次元さんに満足して頂ける様な料理を作ってみせます!」

「おう。頼んだぞ」


 料理を作って貰う側にしてはやや上からの台詞になってしまった様な気もしたが、俺は湖晴にそう答えた。湖晴も俺のその台詞を聞くと同時に、満面の笑みを浮かべて意気込んでいた。


「あと、今夜は私と……」

「ん?」

「い、いえ、何でもありません! それでは!」

「ああ」


 湖晴が何かを言い掛けていたと思ったのだが、そうではなかったらしい。湖晴が一階リビングに隣接している台所へと向かうのを見届けた後、俺は自室へと戻った。

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