第06部
珠洲が過去改変前の『俺以外の周りの事が見えなくなり、俺の知り合いの内で珠洲以外の女の子全員を殺害しようとする』状態に戻るなんて言うおかしな幻覚を見てしまった俺は、全身が汗でぐっしょりと濡れ、制服の下に来ているシャツが肌に引っ付いて心底気分が悪かったにも関わらず、自宅の玄関ドアを勢い良く開け放った後に外へと飛び出した。
全く、俺とした事が何て物を見てしまったんだ。珠洲は過去改変作業によって更正し(本人にはその記憶は無い)、過去改変後となった今では優秀な中学三年生の受験生として生きていると言うのに。それなのに、何でまたあんな事を……。
「遅いよー、次元ー」
「……あ、ああ。悪い」
先程の非日常的に狂気染みていた出来事は現実でも夢でもなく、おそらく俺にのみ急に訪れた幻覚なのだと言う事を理解していながらも、それでもやはり俺はその事が少しだけ、トラウマになってしまいそうになっていた。
そんな時、俺が何分も待たせていたにも関わらず、ずっと待っていてくれていた音穏が軽い調子で俺の名を呼んで来た。音穏のその元気そうな声を聞くと、俺は心の何処かでホッとした気持ちになり、又、安心した。
「……大丈夫?」
「え? な、何が?」
突然の恐怖体験により息遣いが荒く、全身汗だくの姿になっていた俺に対して、音穏は少し心配そうな表情をしながらやや前傾姿勢でそう聞いて来た。
盛大に荒れていた俺に対して音穏は、至っていつも通りの様子で、茶色の短髪に細い紐の様な赤いリボンを二つ括り付けている。そして、俺達が通っている原子大学付属高等学校の青っぽい色の制服を身に纏いながら、小さめの学生鞄を体の後ろにまわして持っている。
「いや、何か次元の様子が変だったから。それについさっき、次元のだと思うけど、家の中から大声がしてたでしょ? だから、何かあったのかなーって」
「……大丈夫だ。問題無い。多分」
「そう? それなら、良いんだけど」
正直な所、音穏に自身気にそう言える程、俺の精神状態は大丈夫でも何でもなかった。それくらいは当の本人である俺が一番良く分かっている。幾ら過去改変の連続で疲労が蓄積しているとは言え、あんなとんでもない幻覚を見る程に疲れているとは。
大丈夫でない事は分かっているが、そんなに疲れていると言う事は全く想像も出来なかった。と言うよりはむしろ、そんな事を予測出来るのならば、その人は予知能力者か何かなのだろう。
まあでも、今日は一週間の内で最後の平日である、金曜日だ。即ち、今日一日を乗り切れば今週はもう学校に行く必要は無いのだ。次の月曜日から中間テストが始まるとは言え、それまでにはまだ土・日曜日がある。だから、幻覚を見てしまう程に疲れきった自分の体を休めるだけの時間は充分過ぎる程に残されているのだ。
音穏は俺の大丈夫そうでないその台詞を聞き届けた後、学校へと向かう為にすたすたと歩き始めた。俺も荒れている自分の息遣いや格好を直しながら、音穏の後に付いて行く。
普段ならばここで、『最近の調子はどうか(主に音穏中心の話)』とか『湖晴の様子、珠洲の様子はどうか』とか『テスト勉強は上手く進んでいるか』等の話題が音穏によって提供されるのだが、今日はそんな事は無く二人ともただただ無言のままで、学校へと向かう為に歩いているばかりだった。
おそらく、音穏自身も、俺の様子が何かおかしいと言う事には気付いているのだろう。もう八年以上も続いている長い付き合いだ。それくらいならある程度は分かるはずだし、だからこそ、そんな俺の事を気遣って会話を持ち出そうとしないでくれているのだろう。
……まあ、音穏の過去改変の直前、俺は音穏の異変に全く気付く事が出来なかったのだがな。
「ところで次元?」
「ん? 何だ?」
学校までの近道である、グラヴィティ公園に入ってからおよそ一分。公園中心部に位置する公園の命名の記念に建てられた時計塔が微かに見える地点で、不意に音穏が俺に話し掛けて来た。
『次は、何処が良いと思う?』
「え?」
音穏のその台詞の直後、俺の背後で何かが大爆発したかの様な激しい爆発音が聞こえて来た。何が起きたのか全く理解が追い付かない俺は、一先ずその音の方向を向いてそれを急いで確認した。その先には、何処かの建物から火災でも発生しているのか、大きな火柱が立っており、辺りではその光景に唖然としている人々、遠くの方では悲鳴を上げる人々の叫び声が聞こえて来ていた。
「今度は……何だ……?」
『あちゃー、予定よりも大分早く爆発しちゃったなー。やっぱり、次元にはもう少し簡単なタイプのバクダンを渡すべきだったかもねー』
「ど、どう言う意味だ……?」
それはまるで、テストの答案用紙のマークシートで一つずつ記入欄がずれてしまっていた事を知った時みたいにうっかりミスをしたかの様に、右手で自身の頭を軽く押さえながら、台詞とは裏腹に反省の色が全く見えない調子で至って軽い雰囲気の中で音穏はそう言った。
俺が聞くと、音穏は何の躊躇いも無く、続けて言った。
『どう言う意味って……次元も知っての通りだよ?』
「え……?」
『? 次元は私の復讐の為に、協力してくれる事になったんじゃない。もしかして、忘れちゃった?』
「俺が……音穏の復讐に……?」
『うん』
俺の事を不思議そうに、目の前で起きている異常現象がさも当然の事の様に音穏は頷いた。しかし、一方の俺は全く理解が追い付かず、何が起きているのかすらの状況整理が一つも出来ていなかった。
動揺する俺に、音穏は自身が持っていた学生鞄から見た事も無い金属製で直方体の外見の機械を取り出した。
『私は私の両親を殺したあいつを許さない。だから、あいつがいるかもしれないこの街にある研究所を一つ一つ、片っ端から全部爆破して行ってる。それで、そんな哀れで可哀想で可愛い幼馴染みである私の為に、次元は爆弾を設置して来る係を受け持ってくれる事になったんじゃない』
「ま、待て! さっきから何を言っているんだ! 音穏! 音穏はもう、誰の事を恨む事も無く、普通の女子高校生としての生活が……」
『いやいや、「さっきから何を言っているんだ」って言いたいのは私の方だよ? 次元。念の為言っておいてあげるけど、ついさっき遠くの方で爆発した研究所にバクダンを設置したのは「次元なんだよ」?』
「……!?」
何だよ……これ。何がどうなっているって言うんだ……。音穏の過去改変は、俺が湖晴と出遭った初日で完全に済んだはず。確かに不確定要素も多く、確実に過去改変を成功させる事が出来たのかと聞れれば答え難いが、それでも、音穏は過去改変が成功した次の日以来、普通で平凡な前と同じ女子高校生に戻ったはず。それなのに……。
『何でかは知らないけど、どうやら、次元の中で何かが混在しちゃってるみたいだね』
「……」
『まあ、確かに次元は過激な事は苦手だと思うけど、安心して。今、思い出させてあげるから』
頭の中がぐちゃぐちゃになって今すぐにでも考える事を止めたくなっていた俺に対して音穏は続けて話し掛けて来る。頭を抱えて沈黙を維持している俺にその台詞を放った音穏は手に持っていた金属製で直方体の外見の機械のボタンに指を掛けた。
『私の計画とは少し違うけど、もう一回次元自身が設置した爆弾の威力を見れば、思い出すよね? まあ、今私達以外の周りにいる人達だけでなく、この街にいる人達はみーんな焼け死ぬと思うけど……仕方無いよね?』
「……! ま、待て……!」
そう言って、音穏は指を掛けていた金属製で直方体の外見の機械のボタンを躊躇う事無く至極簡単に押した。俺はそんな音穏の元へと駆け寄ったが、その行動を止めさせる事は出来なかった。
音穏がボタンを押した直後、俺達の周り半径十メートル程度から外側一面が真っ赤な炎に包まれた。そして、断末魔とも捉えられる、一般の通行人達の悲鳴や叫び声が俺の耳に聞こえて来た。その声は俺の耳に根強く残り、耳鳴りがしてしまう程、大きくて狂気染みていた。更に、俺の鼻を刺激する肉が焼けた匂い、眼球に移る真っ黒な死屍累々、その全てが俺に吐き気を催す物に他ならなかった。
「止めろおおおおおおおお!!!!」
「じ、次元!? 大丈夫!?」
つい先程まで様子とは打って変わり、まるで俺の事を心配しているかの様に焦っている様子で、音穏が何度も俺の名を呼んでいた。俺は俺の周りにいていた人々が全員焼け死んだ事や、音穏が過去改変前よりも更に酷い状態になってしまった事に深く絶望していた。
しかし、そんな俺の負の感情は、自分の俯けていた顔を上げる事によって容易に解消された。
「……あれ?」
「もう、どうしたの!? ……あ、あんっ! 次元! そんな所……触っちゃ……」
俺が音穏の体にしがみ付いていたからなのか、音穏は顔を耳の先まで真っ赤に染めながら、音穏にしては珍しくそんな色っぽい声を出して必死に俺に抵抗して来ていた。状況理解が追い付かない俺はふと自分の手の先で握り締めている物を確認してそれを理解した瞬間、急いでその手を離した。
俺が音穏が金属製で直方体の外見の機械のボタンを押そうとする行動を止めさせようとしていたからなのか、その途中で、俺は音穏の胸を鷲掴みにしてしまっていたらしい。初めて味わう、音穏の大きい胸の感触はそれなりに素晴らしい物だったが、これ以上続けると当然ながら犯罪なので止めておいた。と言うか、これは完全に事故だ。
「ご、ごめん!」
「……うぅぅ……次元だから、許す……でも、次やったら絶対に殺す……」
「すみません! 本当にすみません! いや、でも、まじでわざとじゃないから!」
公園内で音穏に額を地面に擦り合わせるくらいに土下座をして全力で謝り終わった後、俺は辺りを見渡した。そこには、黒焦げで焼け死んだ一般の通行人の人達の姿がある……と思われたが、実際には公園内で違和感満載な漫才をしていた俺と音穏の事を蔑む様な、不審者でも見る様な目付きをしている、原子大学付属高等学校の制服を着た生徒や、サラリーマン等が歩いているだけだった。
顔を上げてみても、何処か遠くの方で火柱が立っているなんて言う事も無く、耳を澄ましてみても、人々の悲鳴や叫び声も聞こえて来ない。俺の周りに限らず、この世界は今日も平和で平凡な姿を保っているばかりだった。
「また……か……」
周囲からの突き刺さる様な痛過ぎる視線に耐えながら、俺と音穏は再び学校へと向かう為に歩き始めた。そんな中、俺は一言だけそう呟いた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
今朝の珠洲の過去改変前化だけでは、俺の幻覚症状はまだ終わってすらいなかったのだ。ついさっき、登校中に俺が見た、音穏の過去改変前化の場面。当然ながら、これまでにあんな事が俺の目の前で起きた事は無いし、起こるはずもない。
しかし、あの場面は今朝の珠洲の時みたいに嫌に現実味があり、背筋が凍り付いてしまうくらいに寒くなる程の恐怖を覚えてしまう物だった。何時か何処かで実際に起きた事なのではないか、そんな風にすら思えてしまう。珠洲も音穏も過去改変は完了し、どちらも成功しているはずなのに、それなのに俺はあんな幻覚を見たのだ。
一度だけならば、最近の過去改変続きの疲労困憊寝不足な生活によって俺の深層心理に根付いた嫌な記憶が突然変異して脳内で勝手に作り出した物だと言う風に解釈しても構わなさそうだが、たった十分程度の間に二度もこんな事が起きたのでは、何か別の可能性を考える必要がある。
それの正体は何なのか、今の俺には分からない。だが、俺の中で何らかの大きな異変が起きていると言う事くらいは分かる。疲労や寝不足や深層心理に根付いた恐怖の感情以外の何かが。
「おはよー……って、次元君、どうしたの? それに、音穏ちゃんは?」
朝っぱらから自分の幻覚とは言え、血や死体等の非日常的でグロテスクな光景を見てしまった俺は心底気分が悪くなっており、安らかに寝られる気分でもなかったので教室内の隅にある自分の席で、表現通りグデーっと手足をだらんと伸ばして脱力していた。
そんな時に、完璧人気アイドルである須貝を除けば、圧倒的に学園のアイドルと呼ばれるべき、全男女から人気の高い赤毛変則ポニーテール少女の栄長が俺に声を掛けて来た。
「……音穏はテスト明けのクラブについての連絡を顧問の先生に聞きに言ったー。で、俺についてはあまり深く聞かないでくれー。気分が悪いんだー」
「詳しくは分からないけど、りょーかい」
俺は栄長の姿を横目で確認すると、そのまま体勢を変える事無く適当に返答した。栄長も音穏の行方について分かればそれで良かったらしく、特に追求する事無く、俺の席の一つ前の席に腰掛けた。
自身の学生鞄から教科書の類の物を全て取り出し終わったらしい栄長はグデーっと手足が伸び切っていた俺の方を振り返ると、適当に質問を投げ掛けて来た。
「寝不足?」
「まあ」
「疲労困憊?」
「まあ」
「湖晴ちゃん関係?」
「……まあ」
「成る程。昨晩は頑張り過ぎちゃったのか。湖晴ちゃんと」
「何を!?」
気分が悪かった俺としては無気力な体勢のままで雑な返答のみで栄長との会話を終了させようと思っていたのだが、やはり栄長と会話をしていると俺の予定が上手く行くなんて言う可能性は消えてしまうらしい。栄長は周囲に何か誤解を生んでしまいそうなそんな台詞をやれやれと言った調子で、微かに鼻で笑いながら俺に言って来た。
「それはさて置き、次元君」
「おい待て。さて置くな。俺の、人としての評価が最底辺にまで落ちそうになっているのは気のせいか? 頼むから気のせいと言ってくれ」
俺の人としての評価どころか、栄長の中での俺の好感度が激落ちしている様な気がしたので、俺はそれを否定もとい弁解しようとした。しかし、栄長は先程までの明るい表情とは打って変わり、極めて真剣そうな思い詰めた様な表情を俺に向けていた。
『奴等が来たから、ちょっと殺して来る』
「へ? 奴等って?」
『次元君やクロの事を狙う、組織の人間』
そう言って、栄長は瞬間空間移動装置のテレポーターを右手に、拳銃を左手に構えて、戦闘態勢に入った。