第02部
「ただいまー」
俺の自宅の二つ隣にある『和』な雰囲気が漂う大きな家に住んでいる幼馴染みと別れた後、そんな何の変哲も無い適当な台詞を発しながら、俺は自宅の玄関ドアを開けた。そして、自分自身にとって唯一気を緩める事が出来る(時もある)その空間へと足を踏み入れた。
結局、本日もいつも通り一日中強烈な睡魔に打ち勝つ事が出来ず、七回もあったはずの授業を何一つとして聞く事無く、しかしまだ眠気はしっかりとは取れていない状態で、俺はようやく学校から自宅へと帰って来たのだ。
もし今俺の目の前に布団か枕かその類の物があるのならば、きっと俺は瞬時に睡眠活動に入り込む事が出来るだろう。そして、数時間は絶対に目を覚まさない事だろう。つまり、今の俺はそれくらいに疲労困憊で寝不足な状態にあるのだ。
この俺上垣外次元は九月十一日に怪我をして血塗れになった白衣を着た謎の少女、照沼湖晴に出遭った。その後、何かと非日常的な事があったものの、湖晴は『タイム・イーター』と言うタイムマシンを使用してこれまでに幾度と無く過去改変を繰り返して来た『タイムトラベラー』である事が分かった。
そして、その次の二十四回目の過去改変対象者が俺の小学生の頃からの幼馴染みで、つい先程そこで分かれたばかりの野依音穏である事が判明した。これはあくまで俺と湖晴が二人で考えただけの推測だが、音穏は両親を失った八年前の研究施設の爆発事故を何者かによる意図的な事件であると判断し、その関係者を殺害する事によって両親の復讐を果たそうとしていたのだ。
過去改変前の音穏には過去改変前の音穏なりにその考えや根拠があったのかもしれないが、音穏は自作の水素爆弾を使用して無作為に街中の研究施設を片っ端から爆破して行った。死者や怪我人が何十人も出ているこの重犯罪がタイム・イーターの検索に引っ掛かったらしく、過去改変対称者になったのだと湖晴は言った。
その後、平凡な日常が崩れ落ちて行くのを実感しながらも、俺と湖晴は音穏を救う為に過去改変作業をした。最終的に、過去改変は成功した。だが、その時の俺的には何故過去改変が成功し、今だに俺と音穏が幼馴染みでいられているのかはよく分からなかったが、その理由についての大体の理由を以前湖晴から聞かされたので、ここでは省略させて貰う。
過去改変が成功した結果、音穏は両親の復讐などと言う行為に走る事無く、純粋無垢な女子高校生に戻る事が出来た訳だ。
それからと言うもの、俺は『音穏を救う手掛かりをくれた』と言う意味合いと『持病のある湖晴にこれ以上一人で過去改変作業を続けさせるのは心配』と言う意味合いを含ませつつ、湖晴の過去改変作業を手伝って来た。
ソフトボールが大好きなスポーツ少女の豊岡阿燕、ある科学結社の№2である栄長燐、俺の義理の妹の上垣外珠洲、完璧人気アイドルとして有名な須貝輝瑠、軽音楽部に所属していて音穏の後輩の飴山有藍と言った順番で、音穏を含めた合計六人の過去改変をして来た。
それぞれがそれぞれに辛い過去を持っており、それと必死に格闘した結果起こしてしまった重犯罪事件。俺はそんな辛い思いをして来た彼女達の達成出来なかった、もしくは達成したかった事柄を完璧に理解出来てはいないと思う。
だが、過去改変後の今の世界に住む彼女達の楽しそうな姿を見る度、過去改変前の辛そうな彼女達の表情を思い出す。この世界の誰もが、それも本人達さえが、彼女達の辛さを忘れていようと俺は絶対に忘れはしない。
何の特技も特徴も無く、ただただ平凡・普通・平均を理想とする平凡主義を自己の理念としてこれまでの約十七年間を生きて来た平凡主義者である俺の、初めて出来た『この世界の誰かの為になれるかもしれない事』。俺は彼女達の思いを忘れないようにしながら、過去改変活動を続けて来た。
そして、俺にとっては六回目の過去改変活動、湖晴にとっては二十九回目の過去改変活動が終了した九月二十六日から二日が経った九月二十八日の今日、俺は少し不安に思っている事が一つだけあった。
それは……、
「次元さん。お帰りなさい」
「……ん? ああ、湖晴か。ただいま」
学校から帰宅した俺が靴を脱いでいる最中、目の前の廊下に隣接するリビングからかなり長めで綺麗な青い色の髪を持ち、透き通ってしまうくらいに真っ白な肌をしている一人の少女が現れた。平凡な日常に満足していた俺の事を非日常な世界に連れ込んだ元凶とも言える、又、俺の中の何かを劇的に変えたとも言える、あの湖晴だ。
そんな湖晴の優しい声を聞いた俺はすぐに返事をした。学校では一度も目覚める事は無かったとは言えこれでも一応テスト一週間前の週(厳密には四日前)なので、自室に行って勉強でもしようかと思ったその時、俺は俺の目の前に立つ湖晴のいつもと異なるその容姿についてある事に気が付いた。
「あれ? 湖晴、何でエプロンなんて着ているんだ?」
普段と言うよりはむしろ一日中何時でも何処でも湖晴は、市販の物を少し改造した様な印象を受ける白衣を下着とシャツ一枚の上に羽織り、太股の露出具合が素晴らしいかなり丈の短めのスカートを履いているのだが、今の湖晴はそんな様子とは全く異なっていた。
俺が今湖晴に投げ掛けた疑問の台詞通り、何処で買って来たのか分からないが、湖晴がエプロンを付けていたのだ。特別変わった所は無く、文字やマークすらも無い、薄ピンクっぽい色の何の変哲も無いエプロン。しかし、湖晴は普段の格好が普段の格好なので、今の俺にはその何の変哲も無い容姿が非常に真新しい物に思えていた。
更によく見てみると、今湖晴は白衣を着ていないと言う事が分かった。いや、まあ、流石に『白衣+エプロン』なんて言う謎な組み合わせを見てみたくもなかった訳ではないが、冷静に考えると当然と言えば当然かもしれない。白衣もエプロンも分類的には『上着』になるはずだからな。『上着』+『上着』の組み合わせが出来るのは冬場に寒さを凌ぐ為に何枚も着るジャンバーくらいの物だ。
ジャンバーがどうとか言う話はさておき、それでは、湖晴はエプロンの下に白衣ではなく何を着ていたのかと言う事になる。念の為に先に言っておくが、『裸エプロン』なんて言う男の妄想の産物を俺の目の前にいる湖晴が実行している事は絶対に無い。断じて無い。むしろ、あったとするならば是非とも拝見させて頂きたいものだ。
結論だけ述べると、湖晴は私服を着ていた。ここで言う私服とは学生服とか白衣とか寝巻きとか全裸とかではない湖晴個人の普段着の事を指すのだが、これまでの湖晴を知っている俺からしてしまえば、この事は湖晴がエプロンを着ている事や白衣を着ていない事くらいに驚くべき事だった。
この間の土曜日に俺と湖晴、そして音穏と栄長の四人は近く(とは言っても徒歩数十分は掛かる)ショッピングモールへと出向いた。そこで、白衣とその内側に着ているシャツと下着しか持っていないと言う湖晴の為に、音穏と栄長が服を選んでくれる事になったのだ。
その結果、一度だけ俺に試着後の様子を見せた後湖晴は俺の知る限りでは初めて自分用の白衣以外の私服を手に入れた。それから今日に至るまで、何か特別な理念でもあるのか、それともやはり前から着用していた白衣の方が着心地が良いのか、湖晴はその時に買った私服を一度も着る事は無かった。
だがしかし、今俺の目の前にいる湖晴は違う。白衣の代わりにエプロンを着ており、今後一切着ないと思っていた私服をその内側に着ている。珍しい。珍し過ぎる。
須貝と飴山の過去改変が終わってから今この瞬間までの二日間は特別変わった事は無かったはずなのに、何故今このタイミングで湖晴はそんな格好をしているのか。俺はその事が不思議で不思議で仕方が無かった。
「次元さん……あの、あんまり……じろじろ見ないで下さい……照れます」
「え? あ、ああ。ごめん」
暫くの間普段見る事の出来ないそんな湖晴の珍しくて可愛らしい可憐な容姿を凝視していた俺に、何故か顔を真っ赤にしながら湖晴はそんな事を言って来た。確かに、他人に自分の姿をじろじろと長時間にも渡って見られていると言うのは気恥ずかしいものだと言う事は分かるが、そんなに恥ずかしがる程のものなのだろうか?
湖晴は今だに顔を真っ赤にしつつ、少しもじもじとしながら身に纏っているエプロンとスカートの裾を少しだけ手で直した。その仕草の際に、湖晴の腕によりその豊満な胸が寄せられた為に強調され、かなり丈の短めなスカートが僅かに舞った事により柔らかそうな太股が俺の目に映った。
うん、可愛い。そしてエロい。
「えっと、まだ完成までは程遠く、かなり中途半端な状態にあるのですが、実は……少し……お料理でもしてみようかと思いまして……」
「料理? 湖晴が?」
「はい……」
何だ? 明日は、世間はまだ九月にも関わらず雪でも降るのか? 大雪か? 警報レベルか?
湖晴は音穏の過去改変が終了した二日後からこれまでずっと俺の家で居候をしている。過去改変前の珠洲は湖晴の居候を断固反対していたが、俺が頼み込むと一応は了解してくれた。その時に、生活費等のお金は湖晴が持っているらしい銀行口座から上垣外家の物へと自動的に振り込まれる事になっていると説明があった。
だからなのか、それともただ単純に出来なかっただけなのか(多分後者だと思うが)、湖晴はこれまで俺の家で家事と言う家事をして来なかった。海外出張続きの両親がいない状態での俺と珠洲の二人暮らしの状況に、俺同様に家事をほとんどしないニート人間が一人増えたに過ぎなかったのだ。
これまでの居候生活の中で湖晴が出来たのは精々、買い物と皿洗い程度で、この俺にだって出来る様な至極簡単な事だ。前者は珠洲の詳し過ぎる買い出しリストを元にスーパーで探しに行けば良いだけだし、後者は……言うまでも無いか。
そんな湖晴が、普段とは全く異なる珍しい格好をした上で料理をするだって? 改めて考えれば考える程不自然だ。明日は雪が降るに留まる事無く、世界が滅亡するのではないかとすら思えてしまう。いや、ちょっと待て。もし、『料理をする』と言う湖晴の台詞が俺の聞き間違えでないとするならば、一つ納得の行く事があるじゃないか。
それは『湖晴がエプロンを着ている』と言う事だ。白衣を着ずにエプロンのみを私服の上に着ている件については先程述べた通りだが、肝心の『何故湖晴はエプロンを着ているのか』と言う件についてはまだ解明されていなかった。しかし、先程の湖晴の台詞によって、それについても充分解明されたと言っても過言では無いだろう。
「あまり次元さんや珠洲さんばかりにお手間を取らせてばかりなのも悪いかと思いまして」
まだ少し先程の余韻はあるみたいだが、真っ赤に染まっていた顔が大分元の綺麗な白さにに戻って来た湖晴はそう言った。と言うか、俺はともかくとして、あれでも立派な受験生である珠洲に家事をさせ続ける事を悪いと言う思いはあったんだな。
まあ、俺も自分がテスト前だからと言って、珠洲に家事を押し付ける訳にも行かないのは分かっているのだが、中々それを実行に移すのは難しいものなのだ。
「湖晴のその気持ちは素直に嬉しいが、俺は別に今まで通りでも大丈夫だと思うけどな。まあ、少なくとも、受験生の珠洲は家事が減れば喜ぶだろう」
「……次元さんは?」
「俺か?」
ふと気が付いた時には、湖晴は俺の事を上目遣いで少し見上げる様な状態でかなりの近距離に立っていた。しかも、結構顔が近い。湖晴の、再び高揚してほんのりと赤く染まっている顔、俺の喉下に当たる湖晴の吐息とその音。そして、うっかり触れそうになる(触りたくなる)様な豊満な胸。
実質的な距離がかなり近い事も影響しているのだが、それ以上に俺は、そんな湖晴の姿がより近くに感じる事が出来た。そして、自分の心拍数がつい数秒前と比べて格段に早くなっていると言う事も実感出来た。
「そりゃあ、勿論。湖晴の手料理とあらば、幾らでも食えるだろうな」
心配そうに俺の事を見上げる湖晴に気遣った訳でもなく、俺は心の底から思っていた事をそのまま口に出した。
「本当ですか!?」
「ん? おう」
すると、今だに顔が真っ赤な湖晴はやけに嬉しそうな表情をしながら、そのまま飛び跳ねて何処かへと行ってしまいそうなくらいに喜び始めた。流石に湖晴のキャラ的に、実際は飛び跳ねたりもしていなければジャンプもしていない訳だが、つまりそれくらいに今の湖晴は喜んでいたのだ。
そして……喜びのあまり起きた事故ではなく、湖晴は自分の意思で、何の前触れも無く静かに俺の頬に優しく口付けをした。
「……え?」
「絶対に、次元さんに『美味しかった』って言って頂ける様な物を作りますから、待ってて下さいね」
湖晴はそれはそれは嬉しそうに、満面の笑顔で俺にそう言った。対する俺は、湖晴からの唐突なキスにただただ驚くばかりだった。