第01部
“全てはここから始まった”
「はぁ、はぁ、はぁ……」
俺は今、自分が通っている『英理親和学園』と言う高校の中をただひたすらに、たった一つの目的を達成する為だけに走っていた。俺は大して運動が得意な訳ではなく、その足は疲労が蓄積した為に随分と前からがくがくと震えているのに、そんな事になど構う事も無く全力で走り続けていた。
何処だ……!何処にいるんだ……!
今日だけでもう何度目だろうか。俺は辿り着いた教室のドアを右手で勢い良く開け放った後、その内部をすぐに確認した。しかし、そこには俺の探している人物はいなかった。そこには誰もいない、電気も点いていない、四十台程度の机が整然と並べられているだけだった。
俺はある少女の事を探していた。とても辛い過去を持っていて、俺が助けなければ生きて行けない、そんな弱過ぎる心の持ち主の少女を。
「……あ、先生! 湖晴は……」
俺は俺と同様にその少女の事を必死に探してくれている、『玉虫先生』と言う俺と彼女がいるクラスの担任教師がこちらに走って来たのを見た後、その先生に声を掛けた。『あんな事件』が起きたすぐ後の今、一刻も早く彼女の事を見付け出さなければならないと言う事を先生は充分に理解してくれていたからこその、その行動だった。
俺はまだ彼女に何一つとして自分の想いを伝えていないにも関わらず、彼女は俺の言動を全く逆の意味として勘違いしてしまった。俺がしっかりしていなかったから。彼女を不安にさせてしまっていたから。
だからこそ、早く見つけ出さなければならない。
俺はあんな事を言いたかった訳ではなかったのに、彼女は何も悪くないのに。それなのに、彼女は俺に『嫌われた』と思い込んでしまった。
「私も照沼の家や携帯に何度か電話を掛けたが、一向に出る気配が無い! 他の先生方にこの事を伝えても、あの人達は駄目だ。何一つとして事の重大さ分かってはいない! 上垣外はもう校内を一通りは探したのか?」
「はい! この教室が最後のはずです!」
先生も必死に彼女の事を探してくれている。彼女に直接連絡が付かなくても、他の教師達に全然相手にされなくても、彼女を助け出す為に俺と彼女の為に全力を尽くしてくれている。その事は、全身汗だくになって、普段は纏められている髪型が今は乱れている先生のその容姿を見ればすぐに分かった。
俺は先生から投げ掛けられた質問に威勢の良い返答をしたものの、実はまだ探していない場所が一箇所だけあると言う事を思い出した。そして、俺は小さな声で先生へ言った。
「……いえ、すみません。実はまだ一箇所……」
「何? それは何処だ?」
「……あ、そうだ……不味い! あそこは……!」
俺も先生もまだ探していない、ただ一箇所の場所。その場所の危険性を思い出し、そこで彼女がどの様な行動に出るのかが予想出来てしまった俺は自分の背筋が寒くなって行く感覚に陥り、そのまま先生を教室の前の廊下に置き去りにして、そこへ向かう為に再び全力で走り始めた。
先生からの電話に出る事無く、校内の何処にもいない。当然、俺が住んでいるアパートやその周辺、彼女が住んでいる家やその周辺も既に探し行った。だが、その何処にも彼女はいなかった。そして、もう一度校内を探すと言う意味合いと、玉虫先生に連絡をする意味合いで再び高校へと戻って来た訳だ。
彼女の事を大事に思っているのは俺と、担任の玉虫先生だけだ。他の人達は皆彼女の事を妬み、蔑み、虐める。他の誰に頼る事が出来なくても、俺は絶対に諦めない。
『あんな事件』なんて起きなければ、こんな事にはならなかったのに。『あんな事件』なんて起きなければ、俺は彼女に本当の気持ちを伝える事が出来たのに。それなのに……何で……!
「湖晴ーーーー!!!!」
俺は先程思い出したその場所へ行く為に走りながら、自分の腹に精一杯の力を込めて彼女の名前を全力で叫んだ。どれだけ大声を出そうが、どれだけ叫ぼうがその声が彼女に聞こえるはずはないのに、構う事無く俺は叫び続けた。
階段を二段飛ばしで勢い良く上って行く。一刻も早く彼女のいる場所に辿り着く為に、一刻も早く彼女を救い出す為に、俺は突き進んだ。俺にとって唯一無二の存在であり、この世界で最も大切な彼女を守る為に。そして、ようやくそこへと辿り着いた。
荒立った息を落ち着かせる時間を自分に与える事無く、俺は目の前にあるドアを開いた。
「湖晴!」
俺の目の前には綺麗な夕焼けの空を背景に、整然としたごく一般的な学校の屋上が広がっていた。何ら変わった所は無い。何度も掃除される訳でもないはずなのに、思いのほか綺麗なコンクリート製の地面。雨が降ったせいなのか、少し錆び付いているフェンス。
しかし、俺の意識はそんな何処にでもある様なありふれた屋上の光景からはすぐに外れ、フェンスの外側にある屋上の縁、即ち、残り数センチ前方に移動するだけで落下してしまう様な場所に目が行った。そこには俺が探していた、英理親和学園の制服を着ている青色長髪の少女が立っていた。
彼女はフェンスにもたれ掛かる事無く、フェンスの外側にある屋上の縁に直立して下の方を眺めていた。俺は彼女がこれから何をしようとしているのかを直感した。そして、その行動の原因が俺と彼女との大きな誤解にある事も把握した。
どうすれば良い。残り時間がどれ程あるかは分からない。だが、俺がそこへ走り、彼女に想いを伝える事が出来れば全ては元に戻るはず。そう考えた俺だったが、非情なるこの世界は俺の微かな希望さえも打ち砕いた。
直後、何の前触れも無く、彼女は自身の体の重心を前に倒した。それと同時に、彼女の体が屋上から何も無い空間へと何の抵抗も無く放り出される。
「待てええええ!!!! 湖晴ーーーー!!!!」
俺が再び叫んだ時には既に手遅れだった。俺は自分の足が壊れてしまいそうになるくらい全力で、彼女を助ける為に走って行った。しかし、彼女の体はみるみる内に落ちて行く。固くて冷たい、叩き付けられればまず命は無い地面に。
彼女の体が完全に落下するその直前、俺のそんな声にようやく気が付いたのか、彼女が一瞬だけ俺の方を見た様な気がした。その時の彼女の表情は少しばかり微笑んでおり、この行動を達成すれば、俺が救われると悟りきっているみたいだった。
だが、俺はそんな事なんて何一つとして望んではいなかった。俺はただ、辛過ぎる過去を背負った彼女の事を一生を掛けて守り、二人でずっと仲良くしていたかっただけだった。彼女に死んで欲しいだなんて、一度たりとも思った事は無い。俺はただ、平凡を望んでいただけだった。
そして、俺は彼女に対する本当の気持ちすらも、まだ伝えていない。
「湖晴! 俺は、湖晴の事が……!」
俺のその台詞を最後まで言い終わる前に、彼女はその姿を俺の前から完全に消した。その光景を目の当たりにした俺は全身から吹き出る大量の汗と、込み上げて来る吐き気、全身が震え上がる様な酷い寒気と言った、ありとあらゆる不快な感覚に支配された。
数秒後、ドシャッと言う、何かが地面に叩き付けられた様な音が聞こえて来た。俺は自分の目の前が真っ白になる様な感覚に陥った。全身から力が抜け、四肢はがくがくと震えている。
「あ……ああ……」
何が起きた? 今、俺の目の前で何が起きたんだ?
俺は彼女の方へと伸ばしていた手を下ろし、そのままよろよろと一歩ずつゆっくりと前へ進んだ。そして、屋上の鉄製のフェンスに手を掛け、そこから地表を見下ろした。
俺の視線の先、およそ数十メートル。そこには、俺が一生を掛けて守り抜かなければならない、そして、俺にとってこの世界で最も大切な存在である彼女が、真っ赤な液体を地面に濡らしながら目を閉じて倒れていた。
その瞬間、俺は今さっき自分の目の前で起きた現象を理解した。それは俺にとっては自分が死ぬよりも辛い事に他ならない。それは『彼女は俺の目の前で、俺の為に自殺した』と言う残酷な結末だった。
「うわああああ!!!!」
俺は屋上のアスファルト製の地面の上に崩れ落ち、大声で泣き叫んだ。彼女は何も悪くなかったのに、本当に悪いのは彼女をあんな境遇に追い込んだこの世界全てなのに。何で彼女が死ななければならなかったのか。俺はただ純粋に平凡を望んでいただけなのに、何でこんな結末になるんだ。
絶対に取り返しの付かない現実を目の当たりにした俺は、自分の拳を力の限り地面に叩き続けた。両手の拳の骨が砕けてしまいそうになるくらいに、何度も何度も何度も……。それでも、当然彼女は二度と戻っては来ない。
『絶対に』。
俺は考えた。どうすればまた、彼女に会う事が出来るのか。どうすればまた、彼女と笑い合えるのか。
現代科学において人体蘇生は不可能。可能だとしても、その技術は俺には無い。魔術なんて言うオカルト染みた物にさえ縋りたい今の俺だが、残念ながらあれはただの人間の妄想、新興宗教みたいな物だ。だから、俺がもう一度彼女に会う事が出来ると言う技術ではない。
「そうだ……!」
その時、俺の脳内に一筋の光が走った。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、赤く腫れて血塗れになった拳のまま、不快な感覚は消えていないのに、俺はある一つ希望にすがる事にした。
その希望とは、全ての発端を根本から無かった事に出来る、いや、それ以上のより良い世界にする事さえも出来るかもしれない方法だった。それはまだ誰も成功はしていないはずだったとは思うが、そんな事は俺には何の関係も無い。それに、可能性が無い訳ではなかった。当てならあった。
俺は彼女を……照沼湖晴と言う一人の少女を助ける為だけにそれを絶対に成功させてみせる。
そして、俺はぼろぼろになった自分の体を起こし、その場で力強く言った。
「俺はこんな結末は絶対に認めない……! こんな残酷な世界は間違っている! 過去改変だ……過去改変をするんだ……! 湖晴を助けられるのなら、成功するまで何度だって繰り返してやる! 湖晴と一緒に笑い合える『平凡』な日々を再び迎えられるその時が来るまで!」
これが全ての始まりだった。一人の少女を救う為に、全てを掛けた俺の物語の。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「わああああああああ!!!!」
深夜二時。俺は唐突にそんな大声を上げながら、ベッドの上で横になっていた自分の体を起こした。俺が着ているパジャマは雨の日に外で干したかの様にぐっしょりと濡れており、自分の額などを軽く触るだけで俺がどれ程汗を掻いていたのかが実感出来た。
「何だったんだ……?」
長くて辛い、とても嫌な夢を見た気がした。
俺は今さっきまで自分が見ていたはずの夢の内容を思い出そうとたが、上手く思い出す事が出来なかった。誰が出て来たのか、何時何処で何が起きた話なのか、そのほとんどが分からない。
それ所か、夢の中の話なのだから、当然俺の脳内で作り出された話のはずなのにその夢は何処か現実味があり、何時か俺が実際に体験したのではないかと思ってしまう程リアルな不気味さを持つ夢だった。
暫く汗だくの体を起こして、手で頭を抑えながら考えていた俺だったが、その答えは出なかった。何か、俺や俺以外の誰かにとって、とても重要な内容の話だったと思うのだが、それが何なのかすらも分からない。
少し痛みが走っている頭を抱えて溜め息をついた時、ふと俺のすぐ隣から可愛らしい寝息が聞こえて来た。当然ながら、その寝息は俺の物ではない。わざわざ言うまでもなく、当たり前の事だ。
俺は静かに、自分がつい先程まで寝ていた所のすぐ右隣を見た。そこには、青色長髪の少女が眠っていた。しかも、衣服を何一つとして纏う事無く、全裸で。
「……ったく、風邪ひくぞ……」
おそらく、以前の様に湖晴が寝惚けてここまで来てしまったのだろう。どんだけ寝相が悪かったらこうなるのか、それとも意図的になのかは分からないが、俺は俺の隣で無防備な全裸ですやすやと眠る湖晴の方へと、自分が掛けていた布団を寄せて掛け直した。
まだ九月末だからそこまで程寒くはないとは言え、それでもこれから寒くなって行くのだから、湖晴の『全裸で寝る』と言う謎の性癖は直して貰いたい所だ。
それにしても、さっきの俺の大声でよく起きなかったな。まあ、最近は過去改変が続いたから、それくらい湖晴も疲れていたのだろう。多分、俺もそれと似た様な感じであんなよく分からない悪夢を見たのだと思う。
俺は湖晴を一人ベッドの上に残して、一回のリビングへと向かった。流石に、年頃の男女が一緒のベッドで寝る(しかも片方は全裸)と言うのは不味いと思うしな。だから、俺はリビングのソファで再び寝る事にしたのだ。
こうして、俺と湖晴の『すれ違い』とも呼べる、この世界の歯車は静かにゆっくりと、しかし着実に動き始めた。