第73話
アパートに戻って寝室に入った途端、小さな甥っ子達の行動に目を剥いた。
ドレスを着たまま静かにベッドに横たわる典子の両側に座り込み、交互に典子にキスをしているのだ。
「…何やってんだ、お前達!?」
「カナメ…ノンちゃん、お姫様みたい!」
「え?」
「ノンちゃんと結婚するのは、俺なんだからなカナメ!」
「お姫様は、王子様のキスで起きるんだよ!」
「…それで…ノンにキスしたのか?」
「でも、起きないんだ」
「当り前ぇだ…お前達じゃ起きねぇよ…」
甥っ子達を掴み上げてベッドから下ろし、自分の躰を乗り上げて典子に口付けを落とす…いつもの様に唇を食み、じっくりと…舌を吸い上げ甘噛みし、転がす様に絡めて口内を擽る。
「……ん…ふぅ…」
微睡む典子が俺の頬に手を添えても、俺は典子の舌が蕩ける迄口付けを与え続けた。
「うわぁーーん!」
ベッドの横で突然泣き出した甥っ子の声に、微睡んでいた典子が目を剥いた。
「…わっ…和賀さん!?何を…」
「どうだ、起きたろ?」
「えっ?」
「凄い…ホントに起きた…」
「ノンちゃん、カナメに食べられるぅ!」
興味津々で見詰める瞳と、怖がって泣きじゃくる瞳に曝され、典子は愕然としている。
「アンタ達ッ!!こんな遅くに何やってんの!?」
子供達の泣き声に飛んで来た姉貴は、一緒に涙ぐむ典子を見て雷を落とす。
「要!?何やったの、アンタ!!」
「カナメが、ノンちゃん食べてた!」
姉貴の腰にしがみついて泣く子供の声に、もう1人が思い切り俺の脛を蹴る。
「まだ、カナメが王子様って決まった訳じゃないんだからな!」
「何で?ちゃんと典子は起きたろ?」
「長い間キスしてたからだろ!!」
「何やってんだか…ホラ、行くわよ!」
姉貴は2人を抱えると、馬鹿じゃないのと俺に苦言を吐いて出て行った。
残された典子は、涙を溜めたまま俺を睨む。
「何て事するんです…子供達の前で!?」
「…妬いた」
「え?」
「ノンにキスをしてるアイツ等に妬いたんだ」
「…」
「王子様のキスで目覚めるって言うから、俺が起こしてやっただけだ」
「…」
「俺が…ノンの男だと、証明しただけだ」
「…和賀さん」
「なのに、何でお前は俺から逃げ様としてる?」
「…」
「婚約は解消しねぇぞ、ノン」
「…着替えます」
「…」
「借り物のドレス…破られては、困ります」
「馬鹿にするな!」
「…どちらにしても、着替えますので…出て頂けますか?」
仕方なくベッドルームを出た途端、背後でガチャリと鍵を掛けられる。
「ノン!?」
「…」
「開けろ、ノン!!」
「…今は…何も話したくないんです」
「いいから、開けろ!!」
「お願いです…」
「こんな扉…直ぐにぶっ壊せるのわかってんだろうがっ!?」
「…わかって下さい」
扉の向こうから、啜り泣く声が聞こえた。
「足の麻痺が進んでるんだろう?大先生から車椅子を奨められてる事も聞いた。お前、何で言わなかった?」
「…」
「お前が嫌がってるのは、隣に建てるビルに引越す事だとばかり思っていた。まさか結婚の事だとは、思っても見なかった」
「…」
「だけど何故だ、ノン!?具合が悪りぃなら、何で俺に頼らねぇ!?お前の躰が麻痺してる原因は俺にあると責任を感じる事は、そんなに悪い事か!?」
手に握った胡桃が、メキリと音を立て…高ぶろうしていた感情がスッと引いていく。
「違います!」
「…」
「あの事件の責任は…和賀さんにあるんじゃありません!」
「…だが、俺への逆怨みで…お前が傷つけられたのは事実だ」
「…あれは…私の不注意で起きた事です。私が、真っ直ぐ帰宅すれば…大木さんを待って、細田さんと3人で帰っていれば、回避する事が出来たんです!」
「…お前が、そんな事を思う必要ねぇ!!」
逮捕された長流姉弟の事件は、余りにも悪質なストーカー犯罪として世間を騒がせ、2人共に実刑が確定し現在も拘置所に収監されている。
「和賀さんが、責任を感じる事なんてない…そんな風に思われる事が辛いんです…」
「…ノン」
「……麻痺が進んでいるのは…事実です。そろそろ車椅子に乗る事を考えた方がいいと、大先生に言われました」
「…」
「仕事も出来なくなります…麻痺が進行して、寝た切りになるかもしれません」
「だから?」
「え?」
「だから、何だって言ってる」
「…だから…」
「そん時には、俺や家族が面倒見るだけの話じゃねぇか?」
「簡単に仰らないで下さい!!それが、どんなに大変な事か…」
「じゃあ逆に聞くがな…お前、俺がそんな躰になったらどうする?必死で世話するんじゃねぇのか?」
「…それは」
「同じ事だろ…親父や姉貴、子供達が具合悪くなったら…やっぱり必死で世話するだろ?何でお前だけが例外なんだ?」
「だって…私はまだ…」
「籍が入ってねぇだけで、お前はもう俺達の家族で…俺の嫁だろ!?」
「…」
「開けろ、ノン」
「…」
「俺は、ドアに向かって愛を告白する気はねぇぞ」
カチャリと音がしてドアが開くと、ドレスを脱いだ典子が、俺の脱ぎ捨てたワイシャツを着て泣き張らした目で立っていた。
又、そんな格好で…無防備に煽りやがって…。
抱き締め様と腕を伸ばすと、フラフラとしながら後退る。
「…ちゃんと籍入れて結婚しよう、ノン」
フルフルと頭を振って、典子は俯いた。
「…和賀さんの…皆のお荷物になりなくありません」
「そんな事、誰も思ってねぇ!!」
「この7年…本当に幸せでした。和賀さんにも、家族の皆さんにも…街の人達にも可愛がって頂いて……本当に、一生分の幸せを味わったんです」
「…」
「与えて頂いてばかりで…甘えるばかりで…だから、今度は…私から皆さんを……和賀さんを、幸せにする番なんです!」
「それが、何で婚約解消になる?」
「……自由に…なって下さい」
「え?」
「…何の柵にも…囚われる事なく……自由に羽ばたいて頂きたいんです」
「俺は…今迄、自由じゃなかったって言うのか?」
「…」
「答えろ、典子…」
地の底から響く様な声に、典子はブルリと震えた。
「お前の不安な事…全て俺が解決して、お前の心を溶かしてやるから、俺を信じて任せろって…お前を絶対に離さねぇって…そう言ったよな?」
「…」
「婚約する時には…お前を縛りたい、お前が俺に惚れてるが為に、変な風に考えて…どっか行っちまうんじゃねぇか…暴走する俺に、愛想尽かすんじゃねぇか不安なんだって…そう言った筈だ」
「…」
「俺を狂わせたいのか、お前は!?」
「そんな事!?」
「その躰は、俺の物だ…お前自身が、滝川にそう言った」
「…」
「…もう俺の傍しか考えられないと…お前が自分で言ったんだぞ!?」
「…だって…」
「だってじゃねぇ!!馬鹿娘!!」
強引に腕を伸ばすと、典子の小さな躰を抱き込んだ。
「お前の言う通りに、婚約解消したとして…一体誰が幸せになれる!?」
「…皆に…幸せになって欲しいのに…」
「俺の家族か?ふざけんな!?お前が居なくなったら、チビ共は泣き叫び、親父や姉貴達も心を痛めるに決まってんだろうがっ!?」
「…」
「お前は!?俺の傍でしか生きられねぇお前は、俺と離れて幸せなのか!?娘の不幸な姿を見る親父さんは、幸せになれんのか!?」
「…」
「俺は…確実に、狂い死にするからなッ!?」
「…ふぇ…」
「…お前の優しさの選択は、誰も幸せになれねぇんだ。俺が決める事に、お前は黙って付いて来いって言ったろ?」
「…」
「不満か?」
「…そんな事は…」
「今迄俺が強引に決めた事で、間違ってた事があるか?」
フルフルと頭を振ると、典子は俺の胸に顔を埋めた。
「墓の事で電話して、又酷い事言われたって?」
「…仕方ないです」
「もう、あんな婆ぁ共と付き合うな!」
胸の中でクスリと笑う声が聞こえる。
「…なぁ…思い違いだったら悪ぃが…」
「何ですか?」
「もしかして…子供の事、気にしてんのか?」
「…」
「…自分が、子供産めんのか…気にしてんのか?」
「……私…」
「…怖いか?」
コクンと首が揺れ、涙の溜まった瞳が俺を見上げる。
「お前の好きにしていいから」
「…」
「…子供が居なくたって構わねぇんだ…俺は…」
「…」
「…お前さえ…俺の傍に居てくれたら…それでいい…」
典子の目尻から、大きな涙がポロリと落ちる。
「…イタリアに連絡したのか?」
「……和賀さんと…良く話し合えと…」
「1つな…誤解のない様に言っとくがな…」
「え?」
「結婚の話が出た時に…俺が躊躇した理由…」
「っ!?」
「…やっぱり気にしてたのか…」
「…」
「あれは、お前の親父さんとの約束を気にしてたんだ」
「ぇ?」
「お前の親父さんの納得する男に…ノンを幸せに出来る男に…俺が本当になれたのか……今一自信が持てねぇだけだ」
「そんな事を、考えていらっしゃったんですか?」
未だに涙で濡れる目を見開いて、典子は俺を見上げた。
「俺、まだ助手だし…コーチやってるけど、薄給だしな…」
「……私の幸せは、お金で計れる物ではありません!わかっていらっしゃるでしょう!?」
「…」
「和賀さんって…いつも、自信に満ちた方だと思ってたのに…」
「…幻滅したか?」
「そんな事ないけど…」
そう言って、俺の胸に抱き付く様に腕を回す典子を抱き上げ、ベッドの上に座らせてやる。
「いつにする?」
「…」
「結婚式、いつがいい?」
「…」
「ノンにウェディングドレス着せて、親父さんと一緒にバージンロード歩かせてやるって、約束したろ?」
「…本当に?」
「あぁ…って言っても、浩一や玉置みたいに派手な事出来ねぇけど…チャペルで式挙げる位は出来るだろ?」
「いつでも…」
「なら、ノンの親父さんが帰国して…秋季リーグが終わった頃にするか?披露宴は、店でもいいか?」
「商店街の方達も、気軽に立ち寄って頂けますか?」
「あぁ…店開放して、皆に祝って貰おう」
「…」
「…どうした?」
「…」
「ノン?」
じっと俺を見詰める瞳が、又悲し気な光を宿し…繋いでいた手がスッと離れた。
「……何だ…」
「ぇ?」
「………早く……覚めればいぃのに…」
「…何言ってる」
パタリとベッドに倒れると、俺に背を向けて典子はシクシクと泣き出した。
「ノン?どうした?」
「…こんな夢…」
「…」
「……酷い…こんな幸せな夢……ある筈ないのに…」
一緒に横たわり、腕枕をして後ろから抱き込んでやると、典子は左手の指輪にキスをして囁き続けた。
「……これは、貴方が見せてくれたの?」
「…愛してる」
「……最後の…思い出に…」
「愛してる、ノン」
「……Il mio…caro…Leone.」
「Mia cara」
幸せになる事を怯える、信じ切れない俺の婚約者は、今迄も幸せを掴み掛けると時折こうやって現実逃避をしてしまう。
武蔵先生に言わせると、傷付く事を怯える心が、感情の降り幅が大きくなるとブレーキを掛けるのだそうだ。
細い項にキスをして、耳元で何度も『愛してる』囁き続け…ワイシャツのボタンを外して行く。
小さな肩に、背中に、そして乳房に…きめ細かい薄絹の様な白い肌に跡を残して行くと、涙声の中に甘い吐息が混じる。
この7年掛けてじっくりと開発した躰は、弱い所を甘く攻めてやると、簡単に官能に応える様になった。
羞恥心を煽る様に、敏感な部分をわざと音を立てて攻めてやる…堪らずに吐く可愛い鳴き声と小刻みに震える躰を堪能し、ゆっくりと典子の中に身を沈ませた。
「…リィーオン…リィー…」
嬌声と共に紡がれる呼び名に、堪らなくなって呼び掛ける。
「…呼べよ…名前…」
「…」
「俺の名前」
「…わっ…和賀…さ…ん…」
「違うだろ?ちゃんと呼べって…」
抱え上げると、蕩ける様な表情を浮かべた典子は、潤んだ瞳で俺を見上げ…首筋に腕を絡め俺を引き寄せると、耳元で甘い吐息と共に囁いた。
「……要…さん…」
「…典子…典子ッ!!」
小さな躰が疲れ果てベッドに沈む迄、俺は典子を貪り続けた。
気だるい躰を包み込む暖かな温もり、素肌を触れ合う心地好さ…。
唯、息苦しさに顔を背け様とすると顎を捉えた手に阻まれ、同時にヌルリとした感覚が口腔を暴れ始めた。
「…むぅ…ん…」
覚醒を始めた躰に違和感を覚えると同時に、脳が甘く痺れる様な感覚に囚われる。
起き抜けに頭が真っ白になる様なキスで起こされ、朦朧とする私を満面の笑顔の和賀さんが見下ろした。
「…起きたか?」
「……おはよう…ございます」
そう答えながらも、瞼が自然に閉じてしまう。
「ホラ」
優しく頬をつつかれ、又うっすらと目を開けると、目の前に携帯のストラップの兎が揺れていた。
「…な…に…?」
「電話」
「…」
「……やっぱり、駄目か…」
和賀さんはそう笑うと、もう一度私の唇にキスをして携帯を耳に当てた。
「申し訳ありません、ちょっと疲れさせてしまって…はい、はい。お騒がせ致しました。2人で話し合って、来年の秋に決めました。お許しを頂けますか?…はい…ありがとうございます。必ず幸せに致します…えぇ…まぁ、そうなんですが……今迄以上に、必ず。はい…はい、少しお待ち下さい」
和賀さんは、話していた携帯を私の耳に押し当てた。
「…もしもし、もしもし…典子か?」
「…お父…さん?」
「おめでとう、典子」
「ぇ?」
「心配したが…和賀君と、幸せになりなさい。今から、帰国するのが楽しみだ」
父はそう言って、電話の向こうで笑った。




