第71話
夢を見ていた…有翼の獅子である俺の腹の下からモゾモゾと這い出して来た小さな兎が、チラリと俺を見るとピョンピョンと跳ねて逃げ様とする。
俺は身を起こして兎の首の後ろをくわえ、自分の腕に抱え込み、全身を丹念に舐めてやった。
目を閉じて耳を下げ、気持ち良さそうに身を任す兎に再び覆い被さると、兎は可愛い鳴き声を上げる。
何度も何度も繰り返される甘い時間…それは兎が疲れ果て、俺の腕の中で甘えてクッタリと寝入る迄続く…。
突然暗雲が垂れ籠め、雷鳴が轟き…空から降って来た隕石と雷が俺を直撃し…。
「カナメーッ!!起きろーっ!!」
ドスンドスンと俺の腰に直撃する2つの隕石が、雷鳴の如く頭に響く声で叫び捲る。
「…テメェ等…毎朝、毎朝、性懲りもなくッ!?」
キャイキャイと俺の腰に股がり騒ぐ甥っ子達に襲い掛かるのが、すっかり日課になりつつある、今日この頃…。
「今日は、休みだろうが…」
「でもノンちゃん、お出掛けって言ってたぞ?」
「カナメ、置いて行かれるぞ?」
「じゃあ、俺がカナメの代わりに、ノンちゃんと出掛ける!」
「アッ!?ズルいぞ!俺も行く!!」
「アーッ!!煩い!お前達ッ!!」
叫んだ所で、姉貴が顔を出した。
「アンタが一番煩いわよ!!」
「ぁ…おはよ…典子は?」
「朝食の準備中!ほら、アンタ達も朝御飯食べて、お祖母ちゃん待ってるわよ!」
「え〜っ?ばぁちゃんの家より、ノンちゃんと一緒に出掛ける方がいい!」
「駄目よ!要と典子ちゃんは、結婚式に行くんだから…」
「カナメ、ノンちゃんと結婚するのか!?」
「馬鹿…ちげぇよ…友達の結婚式」
「良かったぁ〜…カナメ、言っとくけどなぁ!?ノンちゃんと結婚するのは、俺だからな!!」
「あっ、ズルい!!俺がノンちゃんをお嫁さんにするんだぞ!?」
人のベッドの上で、小さな子供達が子犬の様に喧嘩を始めた。
「いい加減にしなさいよっ!?アンタ達ッ!!」
「そうだぞ…ノンに嫌われても、知らねぇからな」
子犬達はピタリと喧嘩を止めて、借りて来た猫の様に大人しくなる…恐るべし典子効果!?
「ほら、典子ちゃん待ってるわよ!サッサと御飯食べて来なさい!!」
元気な返事と共に、子供達は母屋に走って行った。
「本当に、いいお日和だ事…」
姉貴の開け放った窓から、秋の陽射しが入り込む。
「頭痛てぇ…」
「フェアウェルパーティーだからって、飲み過ぎだわょ」
「どうやって帰って来たんだ、俺?」
「覚えてないの!?大木君が、担いで帰って来たのよ!」
「…そっか…結婚式前の浩一に、無茶させれねぇからな…杯は、殆ど俺が受けてたんだよ」
「それだけ?」
「え?」
「典子ちゃんに対する、罪悪感でしょ?」
「…」
「早々に婚約したのに、大学受験し直した松本君に先を越されちゃって…」
「煩ぇよ…」
「私もね、悪いなと思ってるのよ。典子ちゃん、仕事しながら家の事も子供達の世話も完璧にこなすし…まだ結婚前なのに、立派に一人前の主婦にさせちゃって…」
「典子も、好きでやってる事だ」
「だからね、今度の引越し…いい機会だと思ったのよ」
イタリアからの帰国が決まった典子の父親は、いつの間にか親父と相談して、店を閉めるというウチの隣の土地を買い上げていた。
そして、5階建てのビルを造る計画だと典子に連絡して来たのだ。
1、2階が治療院、3階から上が、自宅とスタッフの住居という計画だったが…この数年落ち着いていた典子が怯え出し、計画が頓挫してしまっている。
「何が嫌なのか、聞いたの?」
「このままでいいって言うんだ…最初は、俺と離れて生活すると思ってたらしいけどな。俺も隣で生活するって言っても納得しねぇ…結局は、皆と離れて生活するのが嫌なんだと思う」
「典子ちゃんのお父さんと同居って訳じゃないし、節介の新婚生活なのに…。全く、よくよく貧乏性ねぇ?」
姉貴が盛大な溜め息を吐きながら笑う。
「皆で暮らしたいって言うなら…やっぱり、プランBかしらね?」
「何だよ、ソレ?」
「ウチも一緒に建て直すの」
「えっ?」
「2ブロックぶち抜きで、1つの大きなビルにしちゃうのよ。1階の半分がウチの店、もう半分と2階が治療院、3階以上が自宅で…共有スペースは、広い1フロアぶち抜きで使うの。どう?結構いい案でしょ?」
「いゃ…だけど…親父や、典子の親父さんの意見は…」
「勿論、了承済みよ?ウチの店も古くて手狭になって来たし…店の雰囲気はそのままにして、もっと広くて使い易くしたいって、前々から言ってたのよ!」
「…」
「何よ、不満?」
「いゃ…俺は、典子さえ納得すりゃ…どんな形でも構わねぇが……核兄ぃにも、ちゃんと相談した方が良くねぇか?」
「あら、大丈夫よ!」
「いゃ…だけど…」
結婚して『KING』の2階に暮らす兄貴と良い関係が続いている今、以前の様に兄貴に臍を曲げられては困る…被害に遭うのは、確実に典子だからだ。
「心配性ねぇ…大丈夫なのよ!」
「何で?」
「だって、この案出したのが、核本人なんだから…って言うか、もしもそうなったら、引越して来る気満々だったわよ?」
「えぇッ!?」
カラカラと笑う姉貴は、バシバシと俺の背中を叩いて言った。
「来年の夏には、典子ちゃんのお父さんも帰国が決まってるんだから…早く典子ちゃん説得して、アンタも結婚決めちゃいなさい!」
「…あぁ」
結婚を引き延ばそうとしている訳じゃ無い…俺も一応社会人になって、少しだが給料も貰っている。
拘っているのは、典子の父親との約束だ…『典子の父親の納得する、典子を幸せに出来る男』に、俺はなる事が出来ただろうか?
「綺麗だわ…茜…」
チャペルの控室を訪れた私を見て、茜が眉を吊り上げた。
「本日は、おめでとうございます」
「おめでとうじゃないわよ!貴女、そんな格好で参列する積り!?」
黒いパンツスーツにコサージュを付けて控室に現れた私に、茜は驚いた眼差しを投げ掛けた。
「…ごめんなさいね…色々事情があって…何だったら、私…お式だけで失礼するわ」
「冗談じゃないわよ、典子!?私が一番に祝って欲しいのは、貴女なのよ!!他の人間なんて、オマケに過ぎないんだからねッ!?」
「専務ぅ、それってぇ…酷過ぎませんかぁ?」
ウェディングドレスのベールを整えながら、堀田さんと結婚し、今は茜の会社が出資している高級レンタル・ブティックのデザイナーをしているチカさんが笑った。
「笑い事じゃないわよ!?ちゃんとドレス買ったって言ってたでしょ?何があったのよ!」
「…近所のお嬢さんのね…ピアノの発表会の衣装に貸したのよ。昨日、返して頂いたんだけど…お料理をひっくり返したみたいでね…」
「馬鹿じゃないの!?相変わらず、お人好しなんだから!!」
「…ごめんなさい」
「全く!!…チカ、悪いんだけど、式が終わったら典子をブティックに連れて行って、着替えさせてくれる?」
「いいですよぉ〜。どんなドレスにしますぅ?」
チカさんの取り出したノートパソコンを見ながら私の衣装を選ぶ茜を見て、婚約式の事を思い出していた。
ついこの間だった気もするけれど…和賀さんと一緒に暮らし初めて、もう7年の月日が流れたのかと…感慨に耽る…。
「…典子?」
「…」
茜とチカさんが頷き合うと、チカさんはスッと控室から出て行った。
「何、黄昏てるんだか…」
「見蕩れてたのよ」
「で…貴女達は、いつ結婚するの?」
「…」
「来年には、イタリアからお父さんも帰って来られるんでしょ?」
「えぇ」
「家を新築する計画…嫌がったって?」
「…」
「何かあったの、典子?」
白い手袋が、私の頬を撫で…女神の様に美しい花嫁が心配そうな表情を浮かべた。
「和賀さんと、上手く行ってないの?」
「違うわ」
「又、近所の人に苛められたとか?」
「良くして頂いてるわ」
「じゃあ、何悩んでるの?」
「…」
「お父さんとは、同じビルに住むけど別居だって言ってくれたんでしょ?何か…」
「…そうじゃないの」
「…」
「…私ね…今のままでいいの…」
「アパートから、引越したくないって事?」
「…」
「…まさか…結婚の事!?」
「…」
「やっぱり、あの馬鹿が何かしたのね!!浮気でもしたの!?」
「違うわ…和賀さんは、何も悪くないの」
「…じゃあ…典子が、和賀さんの事を…好きじゃなくなったの?」
「…そんな事…」
「ないわよね?わかってるわよ、それ位…じゃあ、何で身を退こうとしてるの?婚約して、6年も経った今になって…2人共社会人になって、いつでも結婚出来る今になって…」
「…」
「まぁ…典子が本気で別れたいって言うなら、私は貴女の味方になって上げるわよ?結婚してから別れるよりは、マシでしょうからね」
「…そうね」
「ねぇ、典子…本気なの?和賀さんとの暮らしは、そんなに辛い?」
「そんな事ないわ…幸せ過ぎて…このまま時間が…止まってしまえばいいと…」
涙が溢れそうになり、私は慌てて一歩退いた。
「ごめんなさい、こんな事…今日話す話題じゃないわ…」
そう言って、私は手に持った杖を握り締めた。
「しかし、まさか和賀が大学に残るとは思わなかったな」
「井手さんの助手だって?」
「バレー部のコーチってのは理解出来るが、お前が将来講義をすると思うと…臍で茶が沸かせそうだ!」
ゲラゲラと皆に笑われ、俺は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「好きに言って下さいよ…俺自身が、一番驚いてるんです」
「ウサギちゃんとは、相変わらずなのか?」
「えぇ、お陰様で…」
「いつ結婚するんだ、お前達?」
「大学の助手なんて、薄給なんですよ!」
「にしても、待たせ過ぎだろ?」
「松本にも、先を越されて…ラビちゃん、可哀想だろ?」
「…わかってますよ」
「彼女、今何してるんだ?」
「大木と一緒に、近所の治療院で働いてます」
「近所って…あそこの内科のか?」
「えぇ。昔は、外科と治療院も一緒にやってたんですよ。外科の医者だった長男が大学病院に戻って、治療院やってた大先生もリウマチになって、内科だけ稼働してたんですが…典子が理学療法士の資格取れた事で、近所の年寄り達に懇願されたそうで…。そしたら、大先生が鍛えてやるって言ってくれたんです」
「へぇ…あそこの治療院が再開されたら、学生達も喜んでるだろ?」
「お陰で、忙しくしてますよ」
「お前も資格取ったんだろ?」
「えぇ」
「コイツのは、ピョン吉専用の資格だろ?」
ゲラゲラと皆が笑う中、松本が姿を現すと皆が一斉に囃し立てた。
「要…ちょっといいか?」
「何だ?」
「いいから…ちょっと来い!」
白いタキシード姿の松本が、俺の腕を引いて部屋の外に連れ出した。
「どうしたんだ、浩一?」
「ウサギちゃん、どうしたんだ?」
「あぁ…あの格好か?アレは、貸してたドレスを汚されちまって…今、出川…じゃねぇ、堀田さんのカミさんとブティックに着替えに行ってる」
「違う!!何かあったのかって聞いてるんだ!!」
「何かって…何がだ?別に何もねぇぞ?」
「…」
「この間話したろ?典子の親父さんが、ウチの隣に家建てて住むって…世帯別にして、一緒に住む計画だったのを、典子が嫌がったんだ。だから計画が頓挫しちまってる」
「要、その計画の話…」
「きっと、ウチの家族と離れるのが嫌なんだ…チビ共も居るからな。引越したくねぇんだ」
「…違うみたいだぞ」
「何が?」
ハァと溜め息を吐いて、松本は俺を見上げた。
「ウサギちゃん、又不安になってるんだ」
「え?だから…引越しの事だろ?」
「違う…又、お前から離れ様としてる」
「…何で!?」
「わからん…」
「何もねぇぞ!?」
「だろうな…幸せだって言ってたらしい」
「だったら…」
「ちゃんと、話を聞いてやれって言ったろ!?心当りないのか!?」
「…」
心当たりが全くない訳じゃない…典子の様子が、何となくおかしくなり始めたのは、典子の父親の帰国が来年の夏に決まったという知らせが来て、隣の土地を購入したと知らされてからだ。
その頃から、やたらに『結婚』という言葉を皆が使う様になった。
普通の女なら、喜ぶんだろうが…何を考えてる、典子?
「取敢えず、姫の控室に来てくれ」
「何で!?」
「何でって!?決まってるだろう!?披露宴中止にする勢いなんだぞ!!」
俺は黙って松本に同行し、玉置の叱責を受けた。




