第70話
部員のファイルに記載されていた細田の下宿先である長流家に、俺は堀田さんや大木と共に向かっていた。
走る俺のポケットから『Fly me to the moon』の曲が流れたのは、もうじき商店街を抜ける頃だった。
「ノンッ!?無事なのか!?」
「……キャプテン…」
「誰だ、お前!?」
「…僕です…」
「細田か!?今、どこだ!典子は!?」
「…早く…来て下さい……先輩が…」
「典子がどうした!?」
「…玉置先輩達が…さっき到着して……キャプテンも…早く…」
「どこに行けばいい!?家でいいのか!?」
「…裏の…倉庫…」
「細田?細田!!クソッ!!部長、長流家の裏の倉庫だそうです!」
「わかった!先に行け、和賀!!」
その言葉を聞いて、俺はダッシュで長流の家に向かった。
「和賀さんっ!?」
倉庫の入口近くに、玉置が青い顔で佇んで居る。
「浩一はッ!?」
「中に…警報ブザーが鳴ってたのよ!!浩一が、絶対入って来るなって…警察と、救急車呼べって…血痕もあったし…どうしよう…」
「呼んだんだな?」
「えぇ…何か、変な音や叫び声が聞こえるの…浩一や典子に、何かあったんじゃ…」
「玉置、絶対に入って来るな!もうすぐ部長と大木が来る。お前はここで、警察待ってろ!」
「わかったわ」
俺は薄暗い倉庫の中にそっと足を踏み入れ…その異様な状態に息を呑んだ。
置かれた棚や段ボールに突き刺さる、そして床に散乱する無数の釘…所々に飛び散る血痕…そして、この匂いは…。
時折、引き攣った様な笑い声と、バシュバシュという異様な音が、倉庫内に反響する。
「浩一!どこだ!!」
「要っ!!気を付けろ!?」
「大丈夫か!?」
「俺は、平気だ!!相手は、男女1人ずつ…ネイルガンとカッターを持ってる!!」
又、引き攣った笑い声が響く。
「駄目よ久志!和賀君には、当てないで!!あの女だけでいいわっ!!」
「止めろっ!!」
俺は辺りに注意しながら、倉庫の奥へと踏み入った…。
「…長流、長流だよな?」
「和賀君!?やっぱり、覚えててくれたのね!?」
奥からヒラヒラのワンピースを着て派手な化粧をした女が飛び出して来ると、俺に満面の笑みを向けた。
だが…俺の記憶を辿っても、その顔に見覚えはない。
それよりも、その手に握られた血塗れのカッターナイフと、女のワンピースに飛び散る血痕に…背中に嫌な汗が流れた。
「長流…もう、止めてくれ…誰も傷付けるな…」
「大丈夫よ、和賀君!ウチの弟が、邪魔な奴を処分してくれるわ!!」
「…邪魔な奴?」
「あんな女……貴方を不幸にするだけの女なんて…」
「止めろっ!!」
俺の恫喝に怯んだ様に身を竦めると、目の前の女は訳がわからないといった表情を見せた。
「何故?あんな娘の、どこがいいの?」
「…」
「今迄は、綺麗でスタイルも良くて、華やかで…和賀君に似合う…私じゃ、とても敵わない女の子ばかりだった!だから…だから、許して上げてたのに!?婚約したのが…選りに選って、あんな女なんて…」
けたたましいサイレンが木霊し、警光灯の光が倉庫内を赤く染める。
「…浩一!!…典子を連れ出せ!」
「無理だ…連れ出せる状態じゃない…」
棚の向こう側から聞こえる松本の声に、俺は全身殺気立った。
「…典子に…何をした…」
空気が震える程の怒りに、女は蒼白になって震え出す。
「…ヒッヒッヒッ…選択肢を与えてやったんだ…」
バシュッという音と共に、俺の足元に何かが飛んで来て…床に散乱する釘と混じる。
「チッ…充電が切れ掛かってんな…」
「…そんな物で…典子を…」
「アレは、俺の獲物だ!」
「テメェッ!?ふざけんなッ!!」
「止めろ!!和賀!!」
殴り掛かろうとした俺を、堀田さんが背後から羽交い締めする。
「止めろ…もう、警察が来てる…」
「……済みません…キャプテン…」
大木に肩を担がれ、血塗れになった細田が俺に謝罪する。
「彼等は…僕の従兄弟です…」
「煩せぇ、ガリ勉野郎!!俺の狩りの邪魔しやがって!!」
「典子に何しやがったッ!?」
「言ったろ?選択肢を与えてやった…出て来て、俺に狩られるか…自分で身の始末を付けるか…」
バラバラと走り込んで来た警察の足音に、俺は棚向こうの松本の所迄走り抜けた。
「浩一!?無事か!?」
「俺は無事だ…一発しか食らってない」
左腕に深々と刺さった釘の周りには、血が滲み出ていた。
「…典子は?」
「落ち着け、要…」
「典子はッ!?」
「大丈夫…まだ、意識もある」
「どこだッ!?」
「その前に落ち着け!!じゃないと、彼女を助けられないっ!!」
松本の形相と、辺りに漂う灯油の臭い…。
「彼女を見ても、驚くな…かなり…深手を負ってるんだが…それよりも、恐怖に錯乱してる」
「…この臭い」
「頭から、灯油を被らされ…ライターを…握ってる」
「!?」
「落ち着かせろ…要…ウサギちゃん、壊れ掛けてる」
「…浩一」
「取敢えず、携帯や…静電気が起きそうな物、全て外せ」
俺は上着を脱ぎ、携帯や時計を松本に渡した。
「警察に言って…倉庫内の人間、全て撤退させて…音も極力出さない様に言ってくれ」
「わかった」
「それと、鷹栖総合病院の精神科の…」
「ウサギちゃんの主治医だな?わかった、連絡する」
「…時間…掛かるかも知んねぇけど…俺が出て来る迄、誰も入って来ない様に言ってくれ…」
「…ウサギちゃんは、あの棚の裏の隙間に入り込んでる…」
沈痛な面持ちで松本が俺を見詰め…俺は、その肩を叩いて頷いた。
倉庫内のザワザワとした人気が退いて行くのを確認し、棚に置かれた荷物の隙間から奥を覗いてみる。
薄暗い壁際に人の様な塊が見えるが、はっきりと様子がわからない。
「…ノン、無事か?」
「…」
「返事しろ…大丈夫なのか?」
「…」
カサリと動く気配はするが、典子は何も返事を返さない。
「いいか…早まるなよ…絶対にライター使うんじゃねぇぞ!?」
「…」
「今からこの棚動かして、そっちに行くから…安心して待ってろ」
これだけの灯油が揮発していたら、少しの火花でも着火してしまう…俺は慎重に、棚に置かれた荷物を1つ1つ取り除いて行った。
置かれていた段ボールは、無数の釘が突き刺さり…宛ら針鼠の様で…。
木製の棚を担ぎ上げ、隣の通路に移動しても、壁際にうずくまる塊は声も上げず、微動だにしない。
「……ノン…お前…」
棚が退かされた事で射し込んだ入口からの僅な光に、典子の憐れな姿が浮かび上がる。
…腕に…足に…突き刺さった幾つもの釘と、カッターナイフで切り付けられた傷から流れ出る血で、典子のうずくまるその場には血溜まりが出来ていた。
四肢にしか傷が無いのは、必死に身を守ったからなのか、それとも犯人がわざといたぶったからなのか…その為に、死ぬより恐ろしい痛みと恐怖を…典子は体験してしまったのだ…。
「…ノン…」
焦点が定まらず、ガクガクと震えて浅い息を繰り返す典子が、俺に向かってライターを掴んだ手を突き出す…そして、着火ボタンに指を掛けたまま、呻き声を上げ左右に振り回した。
「…お前…見えてないのか?俺だ!わかるか!?」
見えてないにしても、声で俺だと気付く筈だ…まさか…。
「ノンッ!?」
いつもなら怯える俺の恫喝にも何の反応を見せない典子を見て、俺は確信した…聞こえてないのだ。
「…ノン…ノン…済まねぇ…」
俺が一頻り涙に暮れていると、力を込めて突き出していた典子の腕がパタリと落ちた。
そして鼻を啜りながら、左手に嵌めた指輪を撫でてキスをすると…典子は指輪に囁いた。
「…リィー…オン……ィーオン…」
消え入りそうな声で助けを求める典子を、俺は腕を伸ばして抱き締めた。
途端に緊張しライターを握り締める典子の項を引寄せ、夢中で唇を重ねる。
ここで着火されたら、一貫の終わり…だが、それでもいいと思ったのだ…典子と一緒に果てられるなら本望だと…。
いつもの典子の甘い香りは無く、鼻を突く灯油の臭いしかしないキス…目眩がしそうになるのは、この臭いの為なのか、気持ちの昂りの為なのか…。
カシャンという音と共にライターが落ち、典子の全身から強張りが解け…小さな震える手が俺の胸元を握る。
「…ノン…もう大丈夫だ…行くぞ」
俺は典子を抱き上げると、倉庫を出た。
「良かったね、退院おめでとう」
「ありがとうございます」
カウンセリングルームに入った俺を、武蔵先生が柔らかな笑みで迎えた。
「入院当初、いつも大人しい宇佐美さんが、あんなになって暴れた時には、心配したけどね」
「典子は…あの指輪を大切にしてましたから…」
入院して直ぐの救命救急で、看護師が典子の指から婚約指輪を抜こうとした。
腕に突き刺さる釘や傷のせいで指が浮腫み、血行が悪くなり壊疽をしてしまう恐れがあったからだ。
しかし、典子は驚く様な力で暴れ大声で叫び、頑なに拒否をして看護師に噛み付いた。
仕方無く麻酔を掛けた後に指輪を抜き、俺が預かっていたのだが…麻酔から醒めて左手を確認した典子は、再び狂った様に暴れ出したのだ。
呼び出された俺は、ひたすら典子を抱き締め、自分のペンダントのチェーンに典子の指輪を通すと、彼女の首に掛けて遣った。
すると典子は、しゃくり上げながらもようやく落ち着きを取り戻したのだ。
「何であんなに拘ってたのか…さっき警察の人が来て、ようやくわかったよ」
「何か言ってましたか?」
「犯人の女の子の狙いがね…あの、婚約指輪だったんだそうだ」
「…それで…」
腕に付けられた傷も、左腕の方が圧倒的に多かったのは、そのせいか…。
「弟の方は、去年アパートに忍び込み、宇佐美さんを襲った犯人と同一人物だった様だね」
「じゃあ、ラウンジの階段から突き落としたのは、やっぱり!?」
「弟の方だそうだよ…鍵を回収したのは姉の方で…姉から依頼されたと自供してるそうだ」
「…」
「君と付き合っているのが、我慢ならない…って理由だったらしい。弟はそれで彼女に興味を持って…付け狙っていたみたいだね」
「…やっぱり」
「姉の方は、まだ興奮しているそうで…中学の同級生だって?」
「…覚えてねぇんですよ」
「何かね…昔から名字の事で、からかわれていた様でね。だけど君だけは、自分の名字を聞いても笑わなかったんだ…って、言ってるそうだよ?」
「…それは」
「だから、好きになって…中学の時からずっと、君の事を追っ掛けていたんだって…ね」
俺が長流の名字を聞いても笑わなかったのは、単に興味がなかったからだ…彼女と同級生だった事も、体育館に押し掛けていたファンの中に長流が居た事も、俺は全く覚えていなかった。
松本の話によると、高校時代にもずっと応援に来ていたらしい。
「…こんな筈じゃなかったんですよ」
「…」
「俺が、典子を独り占めしたくて…典子にも、居場所を作ってやりたくて…婚約を公表したんです」
「…後悔しちゃ駄目だよ」
「…」
「直ぐに、彼女に伝わってしまうからね?」
「…そうですね。所で、目と耳の影響は?」
「大丈夫だよ。目は、被らされた灯油の影響だったし、耳も今はきちんと聞こえている様だしね」
「…声は?」
「声は出てる…声帯も気管も異常が無い。言葉が出ないのは、精神的な物だね。だけど…きっと心配ない」
ニコニコと笑う武蔵先生を、俺は剥れて睨んだ。
「又そんな…気楽に…」
「だって…彼女、今迄に無く穏やかな表情になったろ?」
「まぁ…そうですけど…」
「良く笑う様になったし…リハビリも、積極的にやってるしね」
「はぁ」
「和賀君のお姉さんに、言われたそうだよ?」
「姉貴に?何言われたんです?」
「秋に産まれるお子さんの子育てを手伝って欲しいから、体力付けて欲しいって」
「…」
「いい励みになったみたいだね?」
「…そうですか」
「まだ痛みも麻痺も、恐怖心も…完全に取り払われた訳じゃない。大学を休みたくないという、彼女の強い意志を尊重しての退院だから…無理させないでね?」
「わかってます」
「本当に?」
ニヤニヤと笑う武蔵先生に、俺は再び剥れて睨み付ける。
「わかってますって!」
「まぁ…程々にね」
「…自重します」
「車椅子、本当に良かったのかい?」
「使いたくないみたいなんで…少しは歩けますし、当面は俺が車椅子代わりで問題ありませんよ」
そう言って俺が笑うと、武蔵先生もニヤリと笑い返した。




