第7話
ラウンジの出口を出て辺りを見回しても、宇佐美の姿はどこにも見えなかった。
「アイツ…走んなって言ってあったのに…」
キョロキョロと辺りを探す俺に、少し離れた場所から声を掛ける奴がいた。
「先輩、和賀先輩!!」
「一平、いい所に…」
そう言い掛けて、椎葉と一緒に近付く滝川の姿が目に入り眉を寄せた。
「やぁ、和賀…どうしたんだ、こんな所で?」
「…お前には、関係ねぇ」
本心では俺に敵対心剥き出しの滝川は、普段俺に向かって小馬鹿にした様な顔しか見せない…それが余計に腹が立つ。
「一平…宇佐美、見なかったか?」
「ウサギちゃんなら、さっき…」
「可愛いよな、バニーちゃん…今日は、一段と可愛いかった」
フフフと笑う滝川に、椎葉が茶々を入れる。
「アレ?滝川先輩は、玉置狙いじゃないんですかぁ?」
「茜姫も悪くは無い…でも、バニーちゃんの方がそそられるね」
「そうですかね?確かに、今日は可愛いかったけど」
「あのタイプはね、一平…恋をすると化けるんだ。バニーちゃん素材はいいから、化けるととんでもなくイイ女になる可能性大だね」
「そんなもんですかね?」
ニヤニヤと笑う滝川に、心の中で唾を吐く。
「一平っ!!」
「ハイッ!?」
「宇佐美に会ったんだな?」
「はぁ…さっき、すれ違いましたけど…」
「どこで!?」
「本館への並木道で…」
それを聞いて駆け出そうとした俺の背中に、滝川が声を掛けた。
「和賀…バニーちゃん、襲われたんだって?」
「!?」
驚いて振り向く俺に、滝川はニヤケ顔を向ける。
「滝川先輩、本当ですか?」
「そうだよな、和賀…お前ん家のアパートで強姦魔に襲われたって…」
「どこから聞いた!?」
「噂だよ、噂…お前ん家に、駐在のお巡り来てたんだろ?」
「本当なんですか!?和賀先輩!!」
「デマだっ!!宇佐美は、何にもされてねぇっ!!」
「なぁんだ、そうなんだ…僕はてっきり、バニーちゃん犯られちゃったのかと…」
俺は滝川の胸ぐらを掴むと、ニヤける顔を殴り倒した。
「和賀先輩っ!?」
「ふざけんなよ、滝川…宇佐美が、どんな思いしたと思ってるっ!?」
「…やっぱり、犯られちゃった?」
「違うっつってんだろうがッ!!」
「どちらにしても、お前が『恋人役』、務まってない…って事だよな?」
「…」
「譲らないか、和賀…お前じゃ、荷が重いんだろ?」
「煩せぇ!!」
「バニーちゃんだって、可哀想じゃないか…お前みたいにがさつで粗暴な男より、僕の方がマシだと思うけど?」
「本当のお前の事を知ったら、どんな女でも引いちまうだろうがな!?」
「ご挨拶だね、全く…いつも女に逃げられているのは、和賀の方だろ?」
クククと喉で笑う滝川の胸ぐらを離すと、俺は2人を睨み付けて言った。
「デマなんかに踊らされてんじゃねぇぞ!!宇佐美は俺達ん所のマネージャーだろうが!?」
「…」
「噂なんてバラ撒いてみろ…俺がブッ飛ばすからなっ!!」
顔色を変えた椎葉を睨み付け、俺は言った。
「一平…ラウンジに浩一が居る。今の話…伝えとけ」
「…え?」
「宇佐美の噂の事…浩一に言っといてくれ。アイツなら、冷静に対策考えるから…」
「わかりましたっ!!」
ラウンジに走り込む一平を見送った滝川が、俺に笑い掛ける。
「譲る気は…無さそうだな?」
「…」
「だが、アタックは掛けさせてもらう。和賀は飽くまでも、バニーちゃんの『恋人役』なんだろ?」
「…好きにすればいい」
「おや?強気な発言じゃないか」
「…宇佐美が、お前を選ぶとは…到底思えねぇからな」
フフフと笑いながら口を拭うと、滝川は挑戦的な眼差しを送って来る。
「賭けをしないか、和賀?」
「何だと?」
「バニーちゃん落とせた方が…次代のポジション選べるって賭け…」
「ふざけんな…舐めんじゃねぇ…」
「やっぱり、自信無いのか?彼女も…ポジションも…」
「…違う」
「どう違うって言うんだ?」
俺は再び両腕でニヤける滝川の胸ぐらを掴むと、射抜く様に睨み据えた。
「…宇佐美を…舐めるなっつってんだ!!」
一瞬ポカンとした表情を見せた滝川が、次の瞬間ゲラゲラと笑い出した。
「おぃ…マジかよ、和賀……お前、あんな女に本気で入れ込んで…」
ゲラゲラと笑い続ける滝川をもう一度殴ろうとすると、俺の拳を握って涙を流しながら滝川が言う。
「止めておけ…これ以上は…東日本インカレ目前だろ?」
「…」
突き放す様に手を離し、俺は踵を返して本館に向かった。
『誘ったのは宇佐美の方だかんなっ!?』
…私…そんな事したんだろうか…?
『その気もねぇのに、抱き付いて来たりする方が悪いだろ!!』
…確かに抱き付いて泣いたのは私だ……だけど、『泣いちまえ』と言って抱き締めてくれたのは、和賀さんなのに…。
それに…いきなり、キスなんてするから……。
昨夜は沢山泣いて疲れてしまって…何だか和賀さんも、とても優しくて…。
今朝も『ゆっくり休んでおけ』と言われて和賀さんの部屋に居たら、隣のお婆さんや真子さんが、少しでも気分転換になるからといって可愛いワンピースをプレゼントしてくれた。
丁度茜から電話を貰って、今から学校に行くというので、貰ったワンピースに袖を通して…髪を下ろして外に出た。
…浮かれていたんだと自分でも思う…。
『…柔らかいのな?』
長い指を、髪に絡ませる様に梳き撫でられるのが気持ち良くて…されるがままになっていた。
『髪…何で三つ編みなんだ?高校じゃねぇんだし…校則もねぇだろ?』
『…下ろせばいいのに』
『その方が、似合うだろ?』
この人は…思った事を何も考えないで言っているだけ…。
ただ、それだけなんだけど…ドキリとして顔を上げて、和賀さんの顔を見詰めたら…顔が熱くなって、胸の鼓動がドキドキと大きくなって……そしたら、名前を呼ばれて…和賀さんの顔が近付いて来て…。
動悸と足の痛みに、本館前の大きな樹に手を付いて喘いだ。
「何で…又そこに…行き着くの?」
あの時に…泣いたから怒ってるんだろうか?
でも、和賀さん…何で…キスなんて…。
そっと唇を押し付けて、私の反応を伺う様な…私の唇に…私の心に、ノックすると言うよりは、手を添えて心に優しく呼び掛ける様な…。
思考を巡らせていた時、突然硬質な声で呼び掛けられた。
「……典子か?」
そう問い掛けて私を確認したその人は、明らかに眉を寄せると、不機嫌そうに私に近付いて来た。
「…」
「お前…こんな所で何を…それに何だ、その…」
手を伸ばして来るのを避ける様に、その場から逃げ出そうとしたが、相手は手馴れた様に私の腕を掴むと高々と捻り上げた。
「イヤッ!!」
私が叫んだ途端、それは起きた。
吊り上げられた様な私の躰を、横から飛び込んで来た物凄く大きな獣が、かっ拐ったのだ。
「…大丈夫か!?」
額の上で呼び掛けられた、息の上がった切羽詰まった声…私の躰を抱き込む、逞しい長い腕…。
私を抱いたまま半身で相手を睨み付け、和賀さんは目の前の相手を威嚇しながら吼えた。
「誰だ、テメェ!?コイツに、何してやがる!?」
瞠目して一部始終を見ていた相手は、一息付くと襟を正して横柄に尋ね返した。
「…君の方こそ、誰なんだね!?その娘と、どういう関係だ!」
「何だと!?俺は、コイツの…」
本当は聞いて見たかった…でも、言わせてはいけない気がして、私は和賀さんの胸元を引っ張った。
「いいんです…大丈夫…」
「だが、コイツ…お前の腕を!?」
「……父です」
「…え?」
「父なんです」
今度は和賀さんが瞠目し、私と父を見比べて…私の躰を労る様に地面に下ろすと、背筋を伸ばして90度に腰を折った。
「失礼致しました。体育科2年、和賀要です」
「…宇佐美隆義だ。…和賀というと…」
「私の住んでいるアパートの、大家さんの御子息です」
「だが、社会人と聞いていたが…」
「井手さんの後輩の方は、和賀さんのお兄様です。この方は、次男になられます」
「そうか。で?どの様な関係だ?」
「学校の先輩で、マネージャーを務めるバレー部の先輩でもあり…公私共に、お世話になっています」
「…」
「店子である私のボディーガードを引き受け、井手さんに言われて、マッサージの補助迄して頂いているんです。きちんと御礼を言って下さい」
父に視線を絡めぬ様に、背を向けたまま私は言った。
冷たい瞳で和賀さんを一瞥しているのだろうが、それでも父は、大人として最低限のマナーで感謝の言葉を口にした。
「…娘が大変世話になっている様で…感謝する」
「……いぇ」
和賀さんは…戸惑った様子で、言葉少なに答え、私達とこの状況を見守っている。
「ちゃんと、生活は出来ているのか?」
「…ご心配には、及びません」
「何故、私のカリキュラムを取らなかった?」
「…いつも家で仰っていた事を、わざわざ大学の講義として聞く必要も無いと思いますが?それに、海外遠征の為に度々休講になる授業等、意味はありませんから」
「…」
「学生達にも失礼だし、学校にも迷惑な話です」
「…マネージャーの件にしてもそうだ…何故、私に相談しなかった?」
「何故です?相談する様な事ではないでしょう?私が大学でどんな活動をしようと自由な筈です!」
「典子!?」
「それとも、貴方の言いなりにならなければ、学費を打ち切りますか?そうなったとしても、私は奨学金と育英会に申請を出すだけですが…」
「…」
「…失礼します」
私が正門に向かって歩き出すと、父の苛々とした様な声が掛かる。
「まだ、話は終わっていない!!」
「…何でしょう?」
「明日から2ヶ月間、ヨーロッパに出掛ける」
「…」
「お前も一緒に…」
「私が行って、何をするって言うんです?」
「…」
「気紛れに引っ張り回すのは、止めて下さい。まだ夏休み前で、授業だってあるんです…それに…」
「…」
「行った所で、又ホテルに軟禁状態なんでしょう?」
「…」
「他にも、何かありますか?無ければ…」
「…お前は…大学に、何をしに来ているのだ?」
突然何を言い出すんだろう、この人は…と思った。
だから、思わず振り向いて…苛立つ父の顔を見上げてしまったのだ。
「はい?」
「…学業を修めに来ているんだろう?」
「勿論です」
「ならば、そんなだらしのない格好で来るんじゃない!!教授方にも失礼だ!」
「…」
「そんな浮わついた気持ちで大学に行きたいのなら、即刻辞めるべきだ!!」
「…辞めて、何をしろと仰るのです?」
「…お前は、何も…」
「失礼します!!」
踵を返して、今度こそ校門に向かって歩き出す。
「典子!!」
父の声が、背中に追い縋る…それを振り払う様に、私の歩調も段々と早くなっていった。
又だ…いつもそう…父と会話すると、喧嘩別れしかしなくなったのは、いつからだろう…。
「…み…宇佐美っ!」
「ふひゃぁっ!?」
突然後ろから抱き上げられて、私は変な叫び声を上げてしまった。
「ったく、お前は…」
「ふぇ?」
「走るなって、言っただろうがッ!!この、おたんこなすっ!」
怒られているのに、何と無く覗き込まれた瞳が優しくて…抱き上げられた状況が昨夜の状態を思い出し、私の涙腺は緩んだ。
「ふえぇ…」
ギョッとした顔をした和賀さんは、慌てて私の顔を押さえ付け口を塞いだ。
「馬鹿ッ!!お前、こんな所で…ちょっと、我慢してろっ!」
和賀さんは私を抱いたまま、一足飛びに学校の裏手にある神社の石段を駆け上がった。
鬱蒼とした木立の中に建つ拝殿の階段に、和賀さんは私を抱いたまま座り、再び顔を覗き込んだ。
「…ったく…」
「…」
「俺は、泣かれるのは苦手だって…いつも言ってるよな!?」
言葉のキツさとは裏腹に、その手は私の躰を労る様に抱き込んで、優しく撫で甘やかす。
「…悪かった」
「…ぇ?」
「ラウンジでの事……あれは、その…玉置の言葉に、煽られただけだ」
「…」
「お前限定で…貸してやる」
「何をです?」
「お前の泣き場所…お前限定で、俺の胸貸してやる」
「…」
「お前…他の奴の前では、泣かないんだってな?」
…サラリと真顔で…何て事を言うんだろう、この人は!?
「俺は…やっぱり、似合ってると思う」
「…は?」
「…その服も…髪も…似合ってる。だらしなくなんてねぇと思うが…」
私の涙腺は、再び崩壊した。