第67話
5月の下旬迄毎週土日を費やしていた、春季リーグもようやく終了し、梅雨入り前の貴重な休日。
俺は近所にある喫茶店『KING』のドアを開けた。
「いらっしゃい…って、要じゃない!久し振りね!!」
「沙羅さん!?いつ帰って来たんだ?」
「少し前にね…次の店に行く、準備期間」
「又辞めたのか?」
「あら、失礼ね!?私が悪い訳じゃないわ!!ピアニストを、ホステス扱いするのが、間違ってるのよ!」
そういって剥れる横顔は、昔と同じで美しい。
この家の娘である沙羅さんは、俺達近所のガキにとっては憧れのお姉ちゃんで…昔、兄貴と付き合っていた元カノだ。
音大のピアノ科を出て、今は都心のクラブでピアノを弾いているが、度々客や店とトラブルを起こして辞めてしまうらしい…気の強い美女だ。
「核兄ぃ、帰って来てるって知ってた?」
「らしいわね?まだ、独り身なんだって?」
「…あぁ」
「よしよし…不幸の呪いは、効いてるみたいね!?」
「何だそりゃ?」
「別れた男の不幸は、女にとって何よりの活力源なのよ!?知らなかった?」
「知らねぇ…怖ぇな、女って…」
出されたブレンド珈琲に口を付けながらボソリと吐くと、沙羅さんがニンマリと笑って顔を突き出した。
「そう言えば、要…アンタの方が結婚するんだって!?」
「…結婚は、まだまだ…婚約しただけ」
「ませガキが…」
「煩ぇよ」
「オッパイ星人かと思ってたら…違う娘なんだってね?」
「え?」
「ホラ…店でバイトしてる…メロンちゃん!」
「あぁ…アイツは、出川って言って…ウチのマネージャー」
「真子さんや祐三兄ちゃんとも仲がいいし…てっきりあの娘がお相手だと思ったら、ウチのお父さんが違うって言うのよ」
「典子は、時々親父とここに来るからな…直に来るから、紹介する」
「へぇ〜、親父さんとも仲がいいんだ…」
ニヤニヤ笑う沙羅さんは、典子の事を根掘り葉掘り聞いて来た。
「あの曲が好きなんだ…ホラ…『My Favorite Things』」
「えぇ〜っ、私あの曲嫌い!」
「何で?」
「確かに、メロディーラインは日本人好みだけど…歌詞が嫌いなのよ」
「典子は、歌詞が好きだって言ってた」
「…彼女って、何か…虐められてたり、悩みあったりするの?」
「えっ?」
「あの歌詞知ってる、要?」
「何か…好きな物、次々言ってくんだろ?」
「そう…それで最後に『嫌な目に遭っても、好きな物達を思い出せば、そんなに嫌な気分では無くなるわ』って言うのよ?」
「…」
「それって、思い切り我慢する為の歌でしょうよ?」
「…泣くんだ」
「え?」
「この歌…口ずさんでる時…いっつも泣いてんだ、典子の奴…」
「…」
「携帯の着メロも、この曲だし…」
「まぁ…好みは、人それぞれだし…ねぇ」
曖昧な笑いを浮かべ、沙羅さんはチラリと表を気にした。
「…なぁ沙羅さん…何か……熱い曲ってねぇかな?」
「熱い曲?」
「出来ればアップテンポで、元気の出る様な曲で…熱く…」
「愛を語る曲?」
「そぅ!ソレ!!」
「ジャズ限定?」
「典子、ここに聞きに来るの好きみてぇだし…着メロになってる様なメジャーなヤツ!!」
「ん〜…ここで聞く曲で…」
店のCDをガサガサと出してピックアップすると、2人で次々と曲を掛けながら選曲する。
「ねぇ…要…」
「ん〜?」
「アンタの彼女さぁ…」
「ん〜…」
「見掛けって、どんな感じ?」
「ん〜…ちっこい兎?」
「それじゃ、わかんないわよっ!」
「…本当に、そんな感じなんだって…」
「…眼鏡掛けた、お下げの…中学生みたいな娘なんじゃ…」
「そぅそぅ…正に、そんな感じ…」
カウンターで曲を聞き入る俺を置いて、沙羅さんは表のドアを開けた。
「要ッ!?逃げちゃったわよっ!アンタの彼女っ!!」
「えっ?」
慌てて表に飛び出し、ピョンピョンと逃げ出そうとしていた典子の腕を掴まえた。
「ノンッ!?」
「…」
「何してる、お前!?」
「……済みません」
…又だ…。
カクカクと震え、怯えて逃げようとする典子を、『KING』に連れて入る。
「店の外で、ずっと立ってたのよ…ごめんなさいね、気付いてたんだけど…まさか、要の彼女だとは思わなくて…」
「ここで待ってるっつったろ!?何で入って来なかった!?」
「……済みません」
俯いたまま腕を抱き込もうとする典子の手を掴む。
「ノンッ!?」
「…」
「沙羅さんは、ここの娘で…昔から世話になってる幼馴染みだ」
「…」
「お前だって、そんな相手位…」
そう言ってハッとした…典子にそんな相手が居るなら…コイツは、こんな事にはなってない…。
「……悪ぃ…」
俺の言葉にフルフルと頭を振り、半身で逃げようとする典子を強引に椅子に座らせ様としたが、典子は嫌がって後退った。
「何で逃げ様としてんだ、お前?」
「……お邪魔なんじゃ…」
「邪魔って…まさか、俺と沙羅さんの事疑って…」
「あらぁ、光栄!?」
茶々を入れる沙羅さんを睨むと、典子は小さく否定した。
「…いぇ…何か…大事な、相談事かと…」
「だからって、何でお前が逃げ出す必要がある!?」
「要…そんなに怒鳴ってたら、彼女何にも話せないわよ!」
「…」
「ねぇ…もしかして…噂、気にしてる?」
「何だ、噂って?」
「アンタの婚約者の噂よ。知らないの、要?」
「だから、何だってんだよ!」
沙羅さんは呆れた様に溜め息を吐いて、震えて俯く典子を覗き込む。
「商店街の年寄り達に、何か言われた?」
「どういう事だ!?」
「だからさぁ…バイトしてるメロンちゃんが、要の婚約者だって思ってる人、多いんだって!」
「出川がか?」
「それに伴って…要が良く面倒見てる、アンタん所のアパートに住む足の悪い女の子が…要の相手じゃなくて良かったって話がね…」
「何だとッ!?」
「だから…皆、悪気はないのよ…って言うか、アンタを心配しての言葉なんだけどね?ホラ、商店街の連中って、明け透けだからさぁ」
「気にしてんじゃねぇぞ、ノンッ!?」
「……気にします」
「え?」
「……和賀さんの為を思って…仰って下さるんですから…」
「だからって…」
「…マスターが……少しずつ…慣れて行けばいいって……仰って…」
「流石に親父さん!いい事言うわ!!」
沙羅さんはそう言って手を叩いたが、典子は俯いたまま震えた声を吐いた。
「……でも…なかなか、慣れなくて…」
「…」
「…視線や…噂話も…皆さんの思いも…申し訳なくて…」
「ノン、無理するな…お前、又壊れちまう…」
「嫌ですっ!」
「ノン!?」
「…嫌です……私には…もう…ここ以外に、行く場所がない…」
そっと抱き込んでやると、胸の中で震える典子が訴える。
「…もう…和賀さんの傍しか…考えられません…」
その瞬間…頭が爆発するんじゃないかと思った…。
部屋で聞いていたなら、確実に押し倒していただろう!
隣で聞いていた沙羅さんは、目を見開いたままソロソロと移動して、店のドアの看板を『close』にすると鍵を閉めた。
「少しの間、貸し切りにして上げるわね…ホラ、要…水飲んで落ち着きなさい!」
「…あぁ」
「事情はね、ウチのお父さんから少し聞いてるのよ…取り敢えず、座って?確か…特製のウィンナ珈琲が好きなのよね?」
コクンと頷く典子を、カウンターの椅子に抱き上げて座らせて遣る。
「特製って?」
「聞いて無い?要ん所の親父さんが、ウチのお父さんに頼んだらしいわよ?生クリーム2倍乗せのウィンナ珈琲!」
そう言うと沙羅さんは、大きめのカップにたっぷりの生クリームを乗せたウィンナ珈琲を典子の前に置いた。
「改めて…沙羅です、宜しくね?」
「…宇佐美…典子です」
オズオズと頭を下げた典子が顔を上げた途端、沙羅さんが言った。
「あらぁ…大きくて綺麗な目だこと…」
途端に2人で顔を見合わせ、同時に声にして笑った。
「『Can't Take My Eyes Off You』!!」
手を合わせ笑う俺達を不思議そうに見ていた典子に、俺は手を差し出して言った。
「携帯出せ、ノン!」
鞄から出した典子の携帯を奪い取ると、自分の携帯のネットにアクセスして着メロを探す。
「…強引ねぇ…こんな事、許しちゃっていいの、典子ちゃん?」
「え?」
「要の奴、典子ちゃんの着メロ変更しようとしてるのよ?」
「…」
「自分の好みの曲で、典子ちゃんの事を呼び出したいんだって……今、聞かせて上げるわね?」
そう言って沙羅さんが店内に流した曲を聞いて、典子は一気に赤面した。
「…ほっ…本当に…この曲に…するんですかっ!?」
「可愛いわねぇ、要!」
「そうだろ?…オルゴールの方が好きだよな、ノン?俺専用の着メロに設定するから…」
「あっ、あの…」
焦り捲る典子に、サイトから着メロのプレゼントメールを送り、典子の携帯のアドレス帳を開き、俺の着メロに登録する。
そして今度は、俺の携帯を典子に渡した。
「俺のも、設定してくれ」
「は?」
「お前の好きな曲…お前専用の着メロにするから…」
「…」
「俺に着メロにして欲しい曲、あるか?」
じっと俺を見上げると、不安そうに典子は尋ねた。
「…何か…ありましたか?」
「…あの曲で、お前を呼び出したくねぇ!」
「…え?」
「お前が…自分で歌って泣いちまう様な曲…嫌だって言ってるんだ!!」
「…我儘よねぇ…子供みたいな男だわね?」
「沙羅さん!?」
「典子ちゃん、こんなガキみたいな男でいいの?」
苦笑する沙羅さんの問いに、典子は黙って頷いた。
「なら、要のストレートな『Can't Take My Eyes Off You』に対する返歌を、贈って上げたら?」
頷いた典子は、俺の携帯で開いたサイトから、曲を選んで俺に見せた。
「……これで…いいですか?」
「あぁ、ノンの好きな曲で構わねぇ」
「何選んだの?」
覗き込む沙羅さんに、俺は画面を見せた。
「『Fly me to the moon』!?」
そう言った途端、沙羅さんはゲラゲラと笑い手を叩いた。
「最高だわ、アンタ達!!『君の瞳に恋してる』の返歌が、『私を月に連れてって』って…超絶ロマンチックなカップルだわね!?」
「…」
俺は、早速その曲を典子専用の着メロに設定した。
隣の席で赤面して俯き、珈琲の生クリームを掻き混ぜる典子の頭に手を置いて遣ると、チラリと俺を見上げて、又俯いてしまう。
「良かったわね、要?」
「あぁ……沙羅さん、さっきの話だけどな…」
「何?…あぁ、噂の話?」
「典子の…味方になってやってくれねぇか?」
「…そりゃ、構わないけど…私は、ずっとここに居る訳じゃないわよ?」
「わかってる……ウチの親父、沙羅さんの親父さんにどこまで話してる?」
沙羅さんは、チラリと典子に視線を走らせ、何て事無い様に言った。
「多分、全部知ってると思うわ。要ん所の親父さんが気を許して話すのって、ウチのお父さんだけだもの」
「そうだよな…だから頼みてぇんだ。事情が事情だけに、言い触らしたくねぇし…」
「まぁね……でもね、要…勿論、私も協力するけど、これはアンタ達2人で解決した方がいいと思うわよ?」
「まぁ…そうだけど…具体的に、どうすりゃいい?典子に酷い事言った奴等に、怒鳴り込みに行く訳にも…」
「それは、流石に止めといた方がいいわね」
ケラケラと笑う沙羅さんは、典子の正面に肘を付いて顔を覗き込む。
「典子ちゃんって、今迄にもご近所付き合いって…この街に来る前も、余りしてないでしょ?」
「……はぃ」
「この街は、昔から商店街で成り立ってる街だから…普通の住宅街よりも、人間関係が濃いのよ。他人の家との境界線が薄いっていうのかな…隣近所の家庭事情なんか、筒抜けなの……昔程じゃないにしても…ね」
「…」
「それが煩わしいと思う人間は、この街を出てしまうわ…」
「…沙羅さんも、そうなのか?」
「一時期ね…アンタの馬鹿兄貴のせいで、居辛くなったのよ!!」
「あぁ…悪ぃ…」
「要が悪い訳じゃないでしょ!?まぁ…私の事は置いといて……要はね、典子ちゃん…この街が好きなの」
「……わかります」
「多分、結婚しても…ここで暮らす気で居ると思うの。何でかわかる?」
「…」
「人の関係が濃いって事は、何かあった時には、皆が手を差し伸べてくれるって事だから。…要はそうやって、皆に助けられて育ったのよ」
「…」
「先ずは、この街を好きになる事ね!」
「はい」
「そして、この街での鉄則…皆に元気に挨拶する事!何と言っても基本だわね」
「…はい」
「後は…今から言う所に、2人で一緒に挨拶に行きなさい」
「挨拶って…何の?」
「婚約者のお披露目って事よ。『この度、婚約しました』ってね!」
「え~っ?」
「大丈夫、このリストの通りに回ったら…3日もあれば噂が駆け巡るわ」
「ぁ…成る程」
沙羅さんの作ってくれたリストを受け取ると、商店街のご意見番や噂話の大好きな店が並んでいた。
俺は不安気な瞳で見上げる典子に笑い掛け、眉間を指で撫でてやった。




