第66話
ウチの義妹になる予定の娘は、少し心を病んでいるらしい。
元から表情に乏しく、人見知りの激しい無口な女だったが、最近は俺にも慣れて来て少しは話す様になった。
どうやら無口だったのは人見知りに寄る物だったらしく、話してみると、その豊富な知識に毎回驚いている。
唯、今迄余り人と話して来なかった弊害なのか、時折説明がグダグダになる…話したい事が溢れ、収拾が付かなくなるのだ。
それに…今時の若者なら誰でも知っている様な事が、スコンと抜け落ちている…まぁ、天然の箱入り娘といった所なのだが、これが又面白い。
店を営むウチの家の雑用を不自由な躰で頑張る姿や、弟と共に大学に行く様子を見ていると、心を病んでいるという事をつい忘れそうになる。
実際具合が悪くなった所を見たのは、俺とのファーストコンタクトの時、一度切りだった。
弟の為に食事管理をしている事を、弟やバレー部の人間と共に尋ねただけだ…決して叱責した訳ではない。
寧ろ誉めていた筈なんだが…突然平伏すと怯えて震え出し、呼吸困難を起こして痙攣し始めた。
弟は慌てる事なく彼女を寝かせ、優しく声を掛けて落ち着かせると、呼吸を整える様に呼び掛ける。
「…いつも、こうなのか?」
傍観するバレー部の部長に声を掛けると、隣に居たマネージャーの高柳が柔らかな表情で答える。
「心配ありませんよ…というか、和賀じゃないと、対応出来ないんです」
「先輩、初めてですか?」
「いゃ…一度だけ…」
「俺も、まだ慣れません…松本が一番慣れてたんですが…」
いつの間にか俺の背後に来て、形のいい眉を吊り上げた美人が、声を潜めながらも食い掛かる。
「何したんです、核さんッ!?」
「別に…普通に話していただけだが?」
「和賀の家で、ウサギちゃんが食事管理をしている話を聞いてたんだよ」
宥める様に、高柳が茜嬢に声を掛けた。
「皆で詰め寄ったんじゃないんですか!?全く…兄弟揃って、とんでもないわ!」
プリプリと怒る茜嬢を見ていると、昔付き合っていた女を思い出して、つい構いたくなる。
「チビ助に付いてやらなくていいのか?」
「いいんですっ!!ああなると、典子は和賀さんにしか頼らないから…」
「へぇ…」
「核兄ぃ、どこか静かな部屋ねぇか?」
彼女を抱き上げた弟と、2人の荷物を持った茜嬢が、俺の後に続いた。
「…典子、大丈夫?」
「あぁ…最近、夜寝てる時にも、時々発作起こす事があってな…」
「…春だから、調子悪いのかしらね…」
「…チビ助は、春が苦手なのか?」
「っていうか…典子は、自分の回りの環境が変わるのが苦手なんです。バレー部にも新入部員が結構入って来たし、この間も1年の男の子達に追い掛けられてたし…」
「…又なのか?」
「言ってなかったの?ファンの娘達からの風当たりもキツいし…和賀さん、最近忙しそうだけど、ちゃんと、対応してよね!?」
弟は彼女のジャージの袖を捲り、傷だらけになった腕を確認すると、そっと労る様に撫でて溜め息を吐いた。
「…ったく…馬鹿娘が…」
「病院には、連れて行かなくていいのか?」
「大丈夫だ…」
弟の腕の中で朦朧として震える彼女を見て、まるで冷たい雨に打たれて震える子猫の様だと思った。
腕の中から、しゃくり上げる息遣いと共に、途切れ途切れの微かな歌声が聞こえる…。
『My Favorite Things』…典子が好きだと言ったこの歌を口にする時、彼女は殆ど泣いている。
「…ノン?」
「…」
「何で泣いてる?」
「…」
「お前…何も悪い事なんてしてねぇ…っつうか、誉められていい話だろうが?」
「…」
「…ノン?」
「……勝手に」
「ありがてぇ話なんだって…食事制限なんて、俺苦手だし…気付かねぇ内に出来てるなんて、理想的じゃねぇか!」
「…でも」
「実際、躰の調子いいし…核兄ぃとも話してたんだが、躰が重く感じるのって、姉貴の食事が続いた時だって…」
「……和賀さんが…お肉食べたいって言うの……嘘付いて…騙してたんです…私…」
「俺の為だろ?」
「…」
「旨いし…気付かねぇんだから、いいじゃねぇか?」
「…」
「米も、あんなに食って平気なんだな…」
「いぇ…」
「細工してあんのか?」
「…」
「誉めてんだから、言えって」
「…和賀さんのご飯は……蒟蒻で嵩増ししてあるんです」
「…」
「…済みません」
「……いゃ…やっぱ凄げぇな、お前!?」
典子の躰をぎゅうぎゅうと抱き締めると、顔中にキスを降らせて遣る。
「俺、凄ぇ当たり籤引いた!!凄げぇ娘、嫁さんに出来るんだな!?」
「…」
「勉強したのか?」
「……以前…父の手伝いで、少し…」
「…」
「そういう相談事もされるらしくて…父は、食材や栄養成分には詳しいんですが、料理は殆ど出来ませんので…材料を与えられ、料理を考え、試作するのを手伝ってました」
「…」
「実験するみたいで…料理を作るのは、きっと好きなんです。でも、幾ら作っても…味がわからない……味見した父が、OKした物を…少し手を加えて、お出ししてました」
「…」
「難しい物は、マスターに作って頂きました」
「親父も知ってんのか?」
「マスターにだけは、許可を頂きました。ケチャップとか…0カロリーの甘味料で作って頂いたり、特別にデミグラスソースやホワイトソースも考えて頂いたり…」
「…全くわかんなかったのって、俺だけか?」
「…多分、気付かないだろうって…マスターが…」
「うわぁ…何か、そう言われると、凄げぇショック…」
「……済みません」
怯えた様に身を固くする典子に、再びキスをして撫でてやる。
「最近…ナーバスになってんのって、前に話した事が原因か?」
「……そんな事…ないです」
「まだな…はっきり決まってる訳じゃねぇから…話せねぇんだが…」
「本当に!…和賀さんの事は、関係無くて…この時期は、いつもの事で…」
「いつもの事って?」
「…」
「お前、大学でも又、俯いた生活してんだろ?マッサージしてると一発でわかんだぞ?」
「…」
「新入生に、追い掛けられたって?」
「…え?」
「玉置が言ってた…何ですぐ言わなかったんだ、お前?」
「…」
「ノンッ!?」
声を荒くすると、腕の中の躰がビクッと跳ねる。
「…大丈夫です……椎葉さんが…近くにいらして…助けて頂きました」
「…」
「……済みません…春は…苦手で…」
「何で?」
「……新しい人も…多くて……人の反応や…声や視線も…煩くて……頭も心もザワザワしてて…緊張して…」
「何か酷い事されたのか?」
フルフルと頭を振り、典子は俺の背中に腕を伸ばし、引き寄せて胸に顔を押し当てる。
「あのマネージャーに、何かされたんじゃねぇだろうな!?」
「え?…あぁ…そんな事ありませんよ?」
全く見当違いだった様で、クスリと胸元で笑われた。
「どうなんだ、あの2人?上手くやって行けそうか?」
新しく入った1年のマネージャー…新歓コンパでの挨拶で、いきなり玉置に告白した力士の様な体型の大木と、あろう事か典子に告白しやがった、チビでガリ勉タイプの細田…。
「お2人共、良くやって下さってます。大木さんは気が良くて…お願いすると、何でも快く引き受けて下さって…茜が来ないと少し寂しそうですが、ダイエットにも興味がある様です。頼りにすると、俄然頑張るタイプですね」
「…細田は?お前に、チョッカイ出して来てねぇだろうな!?」
「細田さんは、『興味がある』って仰ったんですよ?」
「…」
「…入試や昨年度の成績を…どこからか聞いた様で…それで、興味があったのだと仰ったんです。色々な事を話したいらしくて…運動を科学的観点から捉え様としているのだそうです。ずっと話し掛けて来てますけど…少し神経質な方みたいで、私同様余り人付き合いが上手くない様ですね」
「…頭デッカチのガリ勉君か…」
「コンピューターには強い様で…データの管理をして頂く事にしました。プライドは高いですが責任感は強いので、信頼していいと思います」
「良く見てんな…」
「皆と上手くやって行って欲しいですから…辛辣な言葉を吐きますが、仲間と認めて、信頼していると言葉にして上げて下さい。多分…物凄く戦力になります…彼…」
「そうなのか?」
「データの読み取り方が…まだ、少ないデータしか取れてない筈なんですが、凄く緻密なんです。余りバレーも詳しくない様なので、今はルールや戦略について勉強して貰っています。遼兄ちゃんが、『思わぬ収穫だ』と喜んでいました」
「…わかった。俺は仲間に引き摺り込んで、認めてやればいいんだな?」
「はい」
「…そんなに周りが良く見えてんのに…何で、自分の事は不器用なんだ、お前…」
「…」
「又、黙っちまう…」
「…済みません」
眉を寄せる眉間を指で撫でてて遣りながら、
「…Mia cara.」
と囁くと、典子は驚いた顔を見せた後、フッと表情を緩めた。
「…Mia carina.」
続いてそう囁いてやると、典子は目を閉じたまま穏やかな表情になり…やがて静かな寝息を立てた。
比較的ゆっくりとしたカリキュラムを組んだ結果、店でのバイトも再開する事が出来る様になった。
と言っても、厨房の洗い物や、野菜の皮剥き位しか出来ないのだが、秋に出産を控えた真子さんの手助けにはなりそうだ。
接客の方は、短大の卒業制作の資金作りの為にバイトをしたいという出川さんを紹介すると、二つ返事で採用が決定した。
「いらっしゃいませぇ~!!」
「いらっしゃい!」
明るい元気な声が店内に響く。
常連さん達の笑い声と共に、厨房にオーダーが通された。
「真子ちゃん、調子どうよ?」
「お陰様で順調!」
「双子だって?いきなり2人って、流石に真子ちゃんって感じだな!?」
「どういう意味よ!」
アハハと笑う常連さんが、出川さんに話し掛ける。
「アレ…姉ちゃんは…確か、祭の時にメイドやってた娘だよな?」
「そぉですぅ!又ぁ、バイト始めたんでぇ、宜しくお願いしますぅ!」
「あぁ…そっか、要ちゃん婚約したって聞いてたけど…お相手って、姉ちゃんだったんだ!」
「ぇ?」
「本当に良かったねぇ!!おめでとう!!」
「…ぁ…あのぉ…」
「おじちゃん、あのね…」
焦った様な真子さん達の声が、厨房迄聞こえて来た。
そして、続けて聞こえて来る…悪意の無い言葉…。
「いやぁ、心配してたんだよ!ホラ…要ちゃんが、よく面倒見てる…アパートの学生さんだっけ?足の悪い、小さな女の子…アッチの娘さんなんじゃないかって噂もあってさ。躰も弱そうだし、愛想もないしさ……良かったよ姉ちゃんで!マスターも安心してるだろ?」
世間話は続けられ、祐三さんは心配そうに私を窺い見た。
…正しい評価だ…そう思わざるを得ない。
仕方ない…和賀さんに相応しくないと思われるのは、今に始まった事ではないし…。
春休みから急激に増えた沢山のファンの女性達の中でも、和賀さんと私が婚約していると知っている女性達から、何度となく詰め寄られている…。『貴女なんか、和賀さんに相応しくないわ!!』
『貴女の方から、辞退するべきじゃないの!?』
そんな事は…百も承知だ……それでも、私は…和賀さんと一緒に居たいから…。
ここにしか…私の居場所はないから…。
シンクの中で、私は左手のリングをそっと撫でた。
「…出来たぞ」
注文された料理が、カウンターに置かれる。
「えっ?えぇっ!?マスター、何でチャレンジメニュー!?」
「…真子、30分以内に食べ切れなかったら、1万円だ」
「…わかったわ」
クスクスと笑う真子さんが、私をチラリと見てウィンクした。
「じゃぁ~、時間計りますぅ」
「だから、何で…」
「行きますよぉ~?」
「えっ?えぇっ?」
「ハイ、ヨ~イィ…スタ~トォ!!」
10人前はありそうな巨大なオムライスと格闘する常連さんから隠れる様に、私はこっそりと野菜を持って裏口から出た。
外に置いてあるバケツに水を張って、野菜の皮を剥いて行く…。
単純作業だと、何も考えずに済む…煩わしい声も…視線も…ここには何も届か無い。
「…気にする必要はない」
背後から、マスターに声を掛けられた。
「何も考えてない男だ」
「…悪意がない事は、承知してます」
「…」
「大丈夫です」
「…」
「…唯、商店街の方も…皆さん、そう思っていらっしゃるのだと…」
「典子ちゃん」
「……はい」
「ずっとここで暮らすんだ…少しずつ、受け入れて貰える様にすればいい」
そう言って、マスターは私の頭に優しく手を置いた。
強くなりたい…そう思いながらも、躰の震えをどうしても止める事の出来ない自分が…情けなかった。




