第64話
大学生が、新しい年度に入って一番最初にする事は、自分のカリキュラムを決める事だ。
教養科目に必須科目、資格の為に必要な科目等、各講義の時間帯と単位数等をシラバスで確認し、自分の時間割を決めて行く。
茜と共に2年に進級した私は、理学療法の講義のガイダンスに出席する為に、新しい教室に向かっていた。
「典子は、新しいカリキュラム、全部決めたの?」
「えぇ…大体はね。去年は、目一杯取ったから…今年は、少し余裕を持とうかと思ってるんだけど…」
「そうね…もう、教養科目も殆ど取ったんでしょ?」
「えぇ…茜は?」
「私は…理学療法士の資格も、教職の資格も必要ないもの。卒業に必要な単位だけで十分よ!」
「でも、松本さんの為に理学療法の講義取るんでしょう?国家試験も受ければいいのに…」
「それは…たまたま時間が空いてるから、取ってるだけよ!それに、ホラ…典子と一緒に居たいし!」
「…本当に、素直じゃないわ…」
「貴女に言われたくないわ!って…あそこでしょ、教室って…何よ、あの人だかり?」
「…さぁ?」
「受講するのって、どうせいつものメンバーでしょ?…何だって…」
茜目当ての男子学生が、プレゼントや手紙を渡す切っ掛けを作ろうと、彼女の受講する講義の前後には、毎回こうやって講義室の前に学生が集まって来る。
だが、今日は女子学生の数がやけに多い…。
屯する男子学生を往なし教室に足を踏入れた途端、茜の不機嫌な声が響いた。
「何で、あの男がここに居るのよッ!?」
その声に、教室の中央辺りの席に座っていた長身の男性が、こちらに向かって手を振った。
「コッチだ、ノン!!」
「ねぇ、何で!?」
席に着いても尚、茜が尋ねる。
「学部だって違うじゃない!?」
「知らねぇのか?資格取得の為に、越境して受講出来るんだぞ?」
私を挟んで、茜とワイワイ掛け合い漫才の様な会話をする和賀さんを見上げると、直ぐに視線に気が付いて柔らかな笑顔が向けられる。
…笑顔が平気になったのは、いつからだろう?
前は、和賀さんの笑顔も信じる事が出来なくて、泣いて嫌がっていたのに…いつの間にか、彼の笑顔は私の大好きな物になり…他の人の笑顔も、怖いと思う事が少なくなった。
「…理学療法士の資格…取られるんですか?」
「あぁ…俺にこそ、必要だろ?」
「……私の為?」
不安になってそう尋ねると、大きな手で頭をポンポンと叩きながら、優しい声が落とされる。
「心配すんな…それだけが理由じゃねぇから」
「じゃあ、何があるっていうの?」
茜の問い掛けに、和賀さんはニタリと笑って言った。
「ちょっと、色々考えててな…」
「何よ!?」
「お前には、教えて遣らねぇ」
「何ですってぇ!?」
「…玉置…お前、煩せぇ」
片耳に指を突っ込んで剥れて見せる和賀さんと、息を上げて捲し立てる茜に挟まれていると、教室の内外から興味津々で覗いている視線なんて、どうでもいい様な気がして来るから不思議だ。
和賀さんは、本気で理学療法士の資格取得を目指している様で、他の関連講義も選択していて、いつも一緒に受講する様になった。
穏やかな昼下り…裏庭に入り込んだ子猫を見付けた私は、部屋からカメラを持ち出した。
渡り廊下の掃き出し窓を開けてカメラを構えると、子猫に焦点を絞り、根気強くその動きを追ってシャッターを切る。
「…何撮ったんだ、ノン?」
私の姿を見付けた和賀さんが、渡り廊下にやって来て座り込み、カメラを覗き込んだ。
「…子猫が、蝶を追い掛けていて…」
「あぁ…最近、裏庭に住み着いてんだ…あの子猫」
「時々、餌上げてますよね?」
「…」
「この間、台所から煮干…」
「…姉貴に内緒な?」
「どうしてです?」
「ウチ、食い物商売だからな…昔から、動物は飼えねぇんだ」
「…そうなんですか」
確か和賀さんは動物好きなんだと、以前松本さんに聞いた事がある。
昔から、こうやって隠れて餌をやっていたのだろうか…と思ったら、何となく微笑ましい気分になった。
いきなりヒョイと抱き上げられて、和賀さんの胡座の中に座らされる。
「今は、子兎飼ってるけどな?」
そう言って和賀さんは、私の三つ編みにした髪をパタパタと頭の上で振った。
この人は、この体勢で私を構うのが好きだ…最初は驚いたし、子供扱いされているのかと思っていたが、どうやら抱え込むのが好きらしい…。
『独占欲の塊みたいな男』だと、核さんも松本さんも揶揄するが…最近自分がそうされる事に慣れて来ている様な気がする。
この人間座椅子の様な体勢も、ポカポカと温かくて…安心出来て…。
「ノン?」
「…はぃ?」
「写真撮るの、楽しいか?」
「…多分」
「…」
「ファインダーを覗くのも、シャッターを押すのも…撮った写真を確認するのも…心が動かされるから……多分、楽しくて好きなんだと思います」
「そっか…写真、又使いたいって話が来たんだろ?」
「高松先輩から、連絡がありましたか?」
「メールが来てた。スゲェな、お前…」
「そんな事、ありません…」
「…仕事にする気は、ねぇのか?」
「は?」
「写真…好きで、才能あんなら…仕事にするのもアリなんじゃねぇか?」
見上げた和賀さんの笑顔を見て、からかっているのではないと理解した…でも、何故そんな事?
「…そんな事、考えた事もありません…と言うか、仕事にはしないと思います」
「何で?」
「現実的ではありませんから」
「まぁ…あぁいう商売はな…そうかも知れねぇけど…。でも、需要があんなら話は別だろ?」
「……高松先輩に…何か言われました?」
「…鋭い奴」
「…」
「その気があるか、打診してくれって言われた」
「…お断りして下さい…そんな積りで、写真をお預けしているのではありません」
「わかった、わかった…断っとくから」
「…それに、仕事にしてしまったら…きっと、楽しくないんだと思います」
「何で?」
「…気儘に…好きな物や、興味のある物を撮るから…楽しいと思えるのかなと……好きな物も、楽しいという事も、よくわからない私が言うのも変な話ですけど…」
「…ノンは、仕事と趣味は…分けたいタイプなのか…」
そう言って、和賀さんは私の肩に顎を乗せて、背中から抱き込んだ。
「…そっか…」
「和賀さん?」
「ん~?」
「どうしました?」
「ん~…まぁ…色々考えててな…」
「…」
「お前…養護教諭って、どうしてもなりてぇか?」
「え?」
「ならなきゃいけねぇって思ってんなら…そんな事、思う必要ねぇからな?」
「…」
「養護教諭の勉強する事も、理学療法士の勉強する事も、止める積りねぇけど…」
「じゃあ、何をしろって仰るんです!?」
思わず言葉尻がキツくなり、しまったと思って俯いた…だけど、この人も父と同じで、私に何もしなくていいという考えなのかと悲しくなったのだ。
「…本当にやりてぇ事…探してみりゃいいじゃねぇか」
「……ぇ?」
「だからな、やってみてぇ仕事、探してみろよ?」
「…」
「核兄ぃに言ったんだろ?養護教諭も理学療法士も、本当にやってみてぇ事なのか、わからねぇって」
「…ぁ…あれは…」
「お前、自分は何も出来ねぇって思い込んでる所あるからな…」
「…」
「正直、俺から言わせると…何ほざいてるって思うがな?」
「え?」
「だって、そうだろ?俺みたいな、脳味噌筋肉で出来てる様な輩からしたら、お前…何で、その出来のいい脳味噌使わねぇんだって思うぞ?」
「…そんな物…何の役にも立たないもの…」
「馬鹿か、お前!?」
「…だって…健康な躰があってこそ、仕事だって…」
「ノン…言っとくがな…お前より躰が利かねぇ、車椅子や寝た切りや…精神的に脆い人間でも、立派に仕事してる奴はごまんと居るんだぞ!?お前、自分で歩けて両手使えて、その脳味噌があるんだ…何だって出来るじゃねぇか!?何、贅沢言ってやがる!!」
「…」
「何でもかんでも出来ねぇって、自分で線引きなんかするんじゃねぇ!!馬鹿娘ッ!!」
「……私…」
「…」
「…わ…たし…」
「…」
「…ぅっ…っ…」
泣いてはいけない…そう、それは甘えであり驕りだ…そう思いながらも、溢れる涙を止める事が出来なかった。
和賀さんは溜め息を吐いて、私の躰を反転させて抱き締めてくれる。
「…泣いちまえ、馬鹿娘…ここは、お前の泣き場所だろ?」
「ぅっ…うあぁぁぁん…」
自分の思い上がりが恥ずかしくて…『どうせ何も出来ない』『お前は何もせず、大人しくしていればいい』としか言われた事のなかった私に、『何だって出来る』と言ってくれる人は初めてで、嬉しくて…嬉しくて…。
「卒業迄、後3年あんだ…ゆっくり、自分のやりてぇ事探せばいいから…」
「……はぃ」
「でもな、1つだけ条件付けていいか?」
「…ぇ?」
「…っつうか…命令だな…」
「…何ですか?」
「……この家からな…通える範囲で、仕事しろ」
「ぇ?」
「在宅仕事で、たまに打ち合わせしたりするのに、都心に行ったりするのは構わねぇがな…毎日通勤すんなら、ウチからお前の力で無理無く通える場所で…」
じっと見上げて話を聞く私の顔を見て、少し頬を赤らめ焦った様な顔をした和賀さんが、不機嫌に吼える。
「何だよッ!?」
「……いぇ…別に…」
「何か文句あんのかッ!?」
流石に、折角感動して泣いたのに…とは言えず、私は思わず吹き出した。
「何だよッ!?」
むきになって怒る和賀さんが可笑しくて、濡れた瞳の乾かぬままに私は又クスリと笑った。
「…お前が笑うのは、嬉しいがな…これは、あんまり嬉しくねぇ」
そう言って剥れる和賀さんに、私は笑顔のまま抱き付いた。
「…私は、嬉しいです」
「…」
「私の為に…そうですよね?」
「…煩せぇ」
「嬉しいです」
「……矛盾してるって自覚…あるんだがな…」
「和賀さん…私に、甘過ぎます」
「いぃんだよ!そっちも、自覚ぁんだから…」
「…」
「お前、中々甘えてくれねぇしな」
「…そんな事、ないですよ?」
「…」
「結果的に、いつも甘えてます…私…」
「…」
「凄く、自覚してます!」
力を込めて頷くと、今度は私が笑われた。
「…頑張って、探してみます…」
「あぁ…」
「和賀さんは?何がしたいのか、決まってるんですか?」
「…」
「何ですか?やっぱり、プロを目指すんですか?」
「……本気で言ってんのか?」
和賀さんの顔から笑顔が消えて、少し怒った様な表情を見せる。
「…ぇ…だって、以前夢だって…仰って…」
「…」
「…プロも、全日本も……行けたらなって…」
「…そうだったな」
「…」
「…もしかして…躰が…まだ…」
「いぃや、もう殆ど完治してる」
「…昨日も…協会の方々が、視察にいらしてましたよね?」
何だろう…怒らせる様な事は言ってない筈だが…。
「…夢を変える事って、そんなに悪い事か?」
「…そんな事は…」
「皆、口を開けば『君には』とか『お前なら』って言う…その次に出て来る言葉は、決まって『何故』『どうして』って言葉だ…正直、うんざりしてる」
「…」
「お前、どうしてもプロ選手の嫁さんになりてぇか?」
「そんな事、思っていません!」
「…」
「以前、核さんが仰ってました…『自分の夢をそのまま職業に出来る奴なんて、そうそう居るもんじゃない。海岸でダイヤモンドを探す様な物だ』って…だから皆さん、和賀さんの才能に期待されるんだと思います」
「…」
「核さん、こうも仰ってたんです…『与えられた仕事を熟し、対価を得る為に身を粉にして働く事に、何か偏見でもあるのか?そこで新たに、遣り甲斐や生き甲斐を見付ければいい』って…全く…その通りだと思いました。私に、職業に対する偏見はありません!」
「…」
「…さっき……私に言って頂いた…同じ言葉を言いますね?」
「…」
「…和賀さんの…本当にやりたい事をして欲しい……そう思います」
「…」
「…何の柵にも…囚われる事無く……本当にやりたい事を…して欲しいと…思います」
私の顔をチラリと見下ろして、大きな溜め息を吐いた和賀さんは、胡座の中の私を抱き締めた。
「お前がそんな顔するんじゃねぇかって思ったから…ギリギリ迄伏せとく積りだったのに…」
「…」
「心配すんな、ノン…俺が決める事に、お前は黙って付いて来い……いいな?」
そう言って、和賀さんは私の額にキスをする。
『貴女なんて、和賀さんの負担にしかならないくせに!!』
『和賀さんの人生、貴女なんかに縛り付けるの、止めてよ!!』
頭の奥で、そんな言葉が木霊する…。
私は、左手に嵌められた指輪をそっと撫で、ライオンの鼻にキスをした。
胸に錐を捩じ込められる様な痛みが、少しずつ癒えて行く。
「お前、最近…しょっちゅうソレしてんな?」
「…」
「…俺が、ここに居るのに…」
「…」
「…指輪のライオンに…嫉妬しちまいそうだ」
クイッと顎を上げられて、与えられた唇と舌は熱く…強引で……私は、直ぐにその熱に呑まれて行った。




