第63話
典子が花村に引き摺られて行くのを、指をくわえて見ているしか出来なかった俺は、2人の後を追おうとした所で、井手さんと松本に背中を掴まれた。
「待て、和賀ッ!!」
「離して下さい、監督ッ!?」
「頭、冷やせ!!要ッ!!」
「!?」
「お前、ウサギちゃんが何故、花村さんと2人になったか、わかってるのか!?」
「何だと!?」
「このままだと、お前が花村さんを半殺しにし兼ねないからだろ!?」
「…」
「落ち着け、和賀…今、警察に…」
「いぇ…待って下さい」
「和賀…」
「大丈夫です、落ち着きましたから…警察は、もう少し様子を見てから判断して下さい」
「…」
「浩一、一緒に来てくれ」
「…わかった。監督、俺達が帰る迄…待って貰えますか?何かあったら、直ぐに連絡します」
「…わかった」
俺と松本は、典子達の後を追って暗くなった敷地内を走った。
木立を抜け様とした時、話し声に気が付いて身を潜ませ様子を窺う。
体育館の壁に押し付ける様にして、典子の胸ぐらを掴んで締め上げる花村の姿が月光に浮かび上がり、思わず飛び出しそうになった。
「待て、要!早まるな…ナイフが…」
「…わかってる」
2人の姿に目を凝らし、耳をそばだてる。
「…智輝さんの携帯、繋がらないのよ!!」
「…」
「家に電話しても…取り次いで貰えなくて……その内に、居ないって言われて…」
「…」
「…大学に行ったら、バレー部は清里の施設で…今日から合宿だって聞いたから…ここ迄来たのに…」
花村の泣き出しそうな叫びに、典子は何も反論しない。
無事なのか…まさか、もう刺されているなんて事…。
花村が典子の躰を体育館の壁に叩き付け、典子の躰はガクンと床に崩れ落ち…花村は階段に座り込んだ。
「!?」
「どうする!?」
松本の押し殺した声が隣から掛かった時、典子の微かな声が聞こえ…倒れていた影がゆっくりと起き上がる。
「…会いに……たわ」
壁に手を付いて立ち上がった典子は、何と階段に座り込む花村の所迄行くと、隣に座って夜空を見上げたのだ!
「…典子」
「良かった…無事な様だ……どうする、要?行くか?」
「いゃ…ちょっと待て…」
ボソボソと話す彼女達の声は、途切れ途切れにしか聞こえない。
「嘘よっ!?」
突然、花村の声が響く。
「嘘じゃない」
「嘘ッ!!」
「…何故、私が……の?」
又ボソボソとする会話が続くと思いきや、いきなり花村が典子の腕を掴んで叫んだ。
「だって…智輝さんは、貴女の事っ!?」
「…何を話してるんだ…滝川の事なんだろうけど…」
「恐らく…典子は、花村を説得してんだ…」
「説得?自首をか?」
「いゃ…多分…」
やがて、膝に顔を埋めていた花村が立ち上がり、携帯を取り出すとどこかに電話をしている様子を見て、俺は確信した。
典子は…花村を逃がす積りだ。
それが正しい事なのかはわからないが…今、警察に介入させれば、花村は実刑を免れない…。
背を向け去って行く花村を見て、今度は松本が驚いた顔で俺を見詰めた。
「いいのか、要!?」
「…あぁ」
「だが…」
「この事件は…最初から伏せてある事が多過ぎる…だから、こんなややこしい事になるんだ」
「だが、それは…」
「そうだな…今更言ってもしょうがねぇ。俺も、典子も、皆…了解した事だからな…」
花村の姿が見えなくなるのを待って、俺達は典子に近付いた。
「…ノン」
空を見上げていた典子が、視線を下ろして俺の顔を認め、柔らかな笑みを溢す。
「大丈夫か?」
「…済みません、ご心配お掛けしました」
「花村は?」
「…ご家族に連絡していましたから…帰ったんだと思います」
「良かったのかい、ウサギちゃん!?」
松本の問い掛けに典子は頷いて、ポケットからナイフを取り出すと、松本に渡した。
「…もう、何もないと思います」
「ウサギちゃん…」
「きっと…大丈夫…」
「…」
受け取ったナイフをポケットに入れ、松本は俺を振り返ると溜め息を吐いた。
「…先に行って、監督に報告して来る」
「あぁ…頼む」
走り去る松本の後ろ姿を見ていた典子が、不安そうに俺に尋ねた。
「松本さん…何か、怒ってます?」
「大丈夫だ…アイツが心配してるのは、玉置の事だろうからな」
そう…松本は、裁判で証言台に立った玉置への報復を恐れているんだろう。
花村の罪を許し更正を望む典子と、玉置の安全の為に花村を逮捕させたい松本の間には、感情に大きな開きがある…況してや、松本が進学を決めたのは、法学部なのだ。
「行こう、皆心配してる」
「…はい」
立ち上がる典子の手を取った途端、俺は驚いて典子を抱き上げた。
「お前ッ!?熱噴いてんじゃねぇかッ!!」
「…そんな、大した事ないですよ…薬も飲みましたから…大丈夫です…」
「…無茶な事しやがって…」
そう言えば、雪が降る中ベンチコートを脱いで、具合が悪くて休んでいると玉置が言っていた。
「寒くねぇか?」
「…はい」
「…花村と…何話してたんだ?」
「……私…凄いと思ったんです」
「え?」
「花村さん…トモ君に会いたくて…連絡が取れなくなっても…それでも、会いたくて…」
「それで、乗り込んで来たってのか?」
「大学で…バレー部が清里で合宿してると…聞いたらしくて」
「…話したのか?アメリカに行って、クラブチームのオーディション受けるって…」
「いえ…海外に行ったとだけ、話しました」
「何で?」
「…詳しく話したら、追い掛けて行きそうで…。今は、どこにも行ってはいけないと思って…」
「…知ってたのか、裁判の事?」
「トモ君に聞いたんです。トモ君が、私に謝りに来てくれたと…花村さんの所にも、きっと来てくれるから…待つ事は出来ないかと…言ったんです」
「…そっか…」
宿舎に入って典子の部屋に運び、何もないベッドに座らせて遣る。
「…布団は?」
「…」
「ベッド…寝た形跡もねぇし…」
「……済みません」
「…どこにやったんだ、布団?」
「……クローゼットに…」
気まずそうな顔をした典子を睨み付け、クローゼットを開けると…床に、自分の荷物と毛布を敷いた寝床が拵えてあった。
「こんな場所で寝る積りだったのか、お前!?」
「…」
「怖かったんだろうが!?」
「…」
「だから、俺と一緒の部屋にしろって言ったろ!?」
「…それは…」
「じゃあ、何で玉置と一緒の部屋にしなかった!?」
「…どうせ、寝むれないし……心配掛けたくなくて…」
クローゼットから布団を引き出し、典子に掛けてやると同時に自分も布団の中に入り込み、小さな火照った躰を抱き締めた。
「和賀さん!?」
「…寝れねぇだろうが…」
「でもッ!!」
「寝れねぇんだよっ!!俺がッ!!」
「…」
「…お前が心配で、寝むれやしねぇだろうが…」
抵抗していた典子の力がスッと抜け、俺の胸に頬を寄せた。
「…済みません」
「…」
「…和賀さん」
「ん?」
「私…冷たいですか?」
「え?」
「椎葉さんに言われて…私が、和賀さんに冷た過ぎるって…」
『ナイスフォローだ、一平!』
そう俺は、心の中で叫んだ。
「…俺はお前を安心させてやりたくて、婚約して皆に発表したのに…逆効果だったか?」
「……そんな…事は…」
「じゃあ、窮屈な思いしてるのは、キャプテン引き受けたからか?」
「…それは…」
「断っていいんだぞ?なりたくてなった訳じゃねぇからな」
「駄目です!」
「…」
「…和賀さんがキャプテンになった理由…私にだってわかります…」
クシクシと俺の胸に顔を擦り寄せて、そう典子は言った。
「お前、辛そうだ」
「…」
「でも、同じだけ俺も辛いって…お前、わかってるか、ノン?」
「え?」
「『もっと律しなければならない』って言ってる時も、お前が皆の前で、常に一歩下がって俺に距離を取ってる時も…お前が心を痛めてるのがわかるから…こんな筈じゃなかったって、俺が後悔してるの…わかってねぇだろ?」
「…ふえぇぇ…」
「馬鹿娘…俺が気付いてねぇとでも思ったか?」
「うぇぇ…」
「前のまんまでいいんだ…気負わなくていい。からかう奴には、俺が雷落とすから…いいな?」
俺の胸で頷き、グスグスと泣く典子を撫で甘やかしながら、気になっていた喉の傷を確認して安堵した。
「大丈夫だ…皮一枚切れてるだけだから、直ぐに治る…」
滲んだ血を舐めて遣りながらキスすると、擽ったそうに首を竦めて典子が話す。
「…私…花村さんの事、怖くなかったんです」
「…」
「でも…やっぱり嫌いだと…偽善者だと…言われて…」
「…大丈夫か?」
「…平気です…私も…花村さんに『嫌い』と…言えました」
「…そうか」
「でも、私…やっぱり『偽善者』なのかも知れません…」
「何で?」
「嫌いなのに…皆に幸せになって貰いたい…という気持ちは、変わらなくて…」
「いいんじゃねぇか?」
「…」
「それで、ノンが幸せなら…誰が何て思おうが、俺が支持してやる」
「……ありがとう…ございます」
「その…幸せになる中には、お前もちゃんと入ってんだろうな?」
「…え?」
「ちゃんと、自分も人数に組み込んどけよ?」
「…大丈夫です。私は…和賀さんの傍にさえ居られたら…それだけで、幸せですから…」
胸元から見上げた瞳がスッと細くなると、典子はフワリと綻ぶ様な笑顔を見せた。
「…素直に『嫌い』って言えたなら…俺にも、素直に言ってくれてもいいんじゃねぇか?」
「え?」
俺は胸元のペンダントを持ち上げ、裏面を見ながら言った。
「お前が、自分で調べろっつったから、本屋でイタリア語の辞書引いて調べた。『Leone』は思った通り『ライオン』だったんだな」
「…」
「この『mio caro』って…『愛しい人』って意味なんだろ?」
「…えぇ」
「言えよ」
「…」
「なぁ」
「……恥ずかしい…です…」
「お前なぁ…婚約者に、愛の言葉も、名前さえも言って貰えない俺の立場って…」
「…言ったもの」
「お前、アレは…」
「…」
「名前は?」
「……同じ姓になったら…呼びます…」
「…イタリア語でもいいから」
「…」
「言わないと、ここで抱いちまうぞ?」
「駄目ですっ!」
「…mio caro…」
「…違う」
「え?」
「それは…男性に言う言葉だもの」
「じゃあ、何て言うんだ?」
「…」
「教えろよ」
「……mia cara…」
「ミア カーラ?じゃあ、可愛いは?」
「……carina…」
「カリーナでいいのか?」
腕の中で頷く典子の顎を引き上げ、恥ずかしさに頬を染める典子に囁いた。
「Mia carina!」
ポゥンと真っ赤になった典子にキスをすると、俺は満足して言った。
「いいな、コレ…誰にも気付かれずに言える…」
「……Ti amo.」
「…もう一度」
「……Mio caro…Ti amo…」
「それ…知ってる…『愛してる』だよな?」
「…」
「もう一度」
「…」
「言えって」
「…ふぇぇ…」
「何でそこで泣くんだ、お前…」
フルフルと頭を振りながらグズる典子の唇を、じっくりと味わう様にキスをする。
歯列を辿り、上顎を擽り、逃げ惑う舌を絡めて吸い上げて甘噛みし、わざと音を立てて典子の官能を刺激してやる。
やがて蕩ける様に柔らかくなった舌を解放してやると、潤んだ典子の瞳に問い掛けた。
「…食っていいか?」
「…」
「食いてぇ…ノン…」
首筋に顔を埋め、典子の敏感な首筋と耳を攻めてやる。
「…ふぇぇん…」
「泣くなよ」
「…らめぇ……いやぁん…」
甘い吐息と共に吐かれる言葉に、下腹にズンと熱が溜まる。
「お前、それ…思いっ切り煽ってんだぞ?」
「…違うもの…やぁ…」
「…ノン」
「こんなっ…所でぇ…やだぁ…」
そう言うと、典子は本格的に泣き出した。
「…ノン」
「嫌って…言ってるのに…」
そう言って、オンオンと泣く典子の声を聞き付けて、ノックの音と共に眉を吊り上げた玉置の声が響く。
「和賀さぁんッ!?まったぁ、貴方って人はぁッ!!」
「待て!?待て、玉置!?俺はまだ、何にもしてねぇ!!」
「『まだ』って、どういう事よっ!?」
「『まだ』は、まだって事だろ!?なっ、ノン…まだ、俺は何もしてねぇよなっ?」
「じゃあ、何で典子が泣いてるのよっ!?説明付かないでしょッ!!」
ベッドに乗り上げて、ポカポカと俺を叩き捲る玉置に応戦していると、躰の下から小さな笑い声が聞こえて来た。
「全く…何やってるんだか…2人共、ウサギちゃんが病人だってわかってるのか?」
松本の呆れた様な叱責に、俺と玉置は揃って声を上げる。
「だって、和賀さんがっ!?」
「何言ってる、玉置の方こそ…」
「2人共、同罪だ!!」
松本の恫喝に玉置と共に首を竦めると、典子は再びクスリと笑い、笑顔のまま眠りに落ちて行った。




