第61話
「又、喧嘩したの?」
バスに積み込む用具等をチェックしていた私に、茜がそっと声を掛ける。
「…さぁ?」
「さぁって…和賀さん、不機嫌オーラ…バリバリだわよ?」
「…よく…わからないの」
滝川さんと…トモ君と会っていたのを、引き摺って居るのだろうか?
あの後、怒った様子には見えなかったが…。
機嫌が悪くなり始めたのは、合宿の栞を配布した頃からだ。
「何で、同室じゃねぇんだ!?」
「当たり前じゃないですか!選手とマネージャーが…男女同室なんて、あり得ないでしょう?」
「だが……俺達は…」
「何故、私達だけ特別扱いされるんです?それこそ、あり得ないでしょう?」
「…何で、お前だけ1人部屋なんだ?」
「女子マネージャーが3人なんです。仕方ないでしょう?」
「…」
「和賀さん…私の部屋には、いらっしゃらないで下さいね?」
「なっ!?」
「用がある時には、こちらから伺いますので」
和賀さんは不満そうだったが、マネージャーとしては、当然の対応だと思う。
それでなくても、私には余裕がないのだ…あの、忌まわしい場所に再び足を踏入れる事に…。
そして、婚約を公にした事で好奇の目に曝される事に…。
婚約した事を後悔している訳ではない…唯、事情を知らない人々が、おめでとうと言いながらも、あからさまに目を輝かせて尋ねるのだ。
「ウサギちゃん、出来ちゃったの?」
確かに、そういう関係にはある…暴走すると我を忘れがちになる和賀さんとの行為で妊娠する事を恐れ、武蔵先生と相談して、和賀さんに内緒で避妊具を入れた事も後悔していない。
学生の身分で婚約すると言えば、そういう想像を逞しくするのも理解出来る…だが…。
松本さんとトモ君が抜けた後を埋める為にキャプテンを引き受けた和賀さんと、バレー部の事について話をしているだけでからかいの対象にされるのは頂けない。
もっと身を律して臨むべきだと言う私の意見を、和賀さんは一言で跳ね返す。
「やっかみだろ、いちいち気にしてどうすんだ?」
最終チェックが終わり最後にバスに乗り込んだ私に、一番奥の席に座る和賀さんが視線を寄越して、無言で隣に来る様に促した。
その視線を無視して、先頭に座る遼兄ちゃんに声を掛ける。
「お隣…いいですか、監督?」
「……構わないけど…いいのかい?」
チラリと後ろを気にする素振りを見せて、遼兄ちゃんは隣に置いてある荷物を網棚に上げてくれた。
「喧嘩したのかい?」
「違います…でも、何か怒ってて…」
「原因不明?」
「…原因は…多分、わかってます……でも、それで怒る意味がわからなくて…」
「新キャプテンにも、困ったもんだね?」
前の監督が納会で辞任して、遼兄ちゃんが新しく監督に就任し、現在はコーチ不在のままの体制を取っている。
「僕としては、遣り易いんだけどな…」
「そうなんですか?」
「コーチ不在でも回して行けるのは、こちらの意図を和賀がストレートに部員に伝えてくれるからだしね…和賀は松本とのペアの時も、彼の意見を素直に受け入れる事が出来たから、僕の指示も納得させれば素直に従ってくれる」
「それは…遼兄ちゃんの…監督の事を、信頼しているからだと思います」
「そうだと、嬉しいね。激し易い奴だけど、素直でさっぱりしてるし…典ちゃんの事があってから、丸くなったしね。後輩の指導も案外上手いし、統率力あるし…案外指導者の道に合ってるのかも知れない」
「和賀さんが指導者になったら…精神論で突っ走りそう…」
「ハハハ…そうかもね。だからアイツの隣には、常にブレーンが必要なんだよ」
「…松本さんは…もう…」
「早急に女房役を育てないとね」
「…椎葉さんですか?」
「だから今回の合宿に、松本も参加したんだと思うよ?」
「…」
「典ちゃんも、協力して上げなきゃね?」
「…はい」
「所で、自分の事は大丈夫かい?」
「……少し…緊張してます」
「大丈夫だよ。もう、何もない…和賀が付いてる」
「いぇ…これは、1人で乗り越えないといけない事だから…」
私はそう言って、シートを倒し目を瞑った。
「…あの馬鹿娘…」
「あーぁ、やっぱり怒らせたんだ、和賀さん」
松本の隣の玉置が、冷たい視線を寄越した。
「煩せぇ!!」
「あの、あからさまな避け様…余程何か怒らせたでしょ?」
「俺は…典子の為を思って…」
事件のあった清里の合宿施設に行く事が、典子に取ってどんなにストレスなのかがわかっているから…。
部員達の負担にならない様にと無理をして、数日前から典子は、又寝れない状態が続いているのだ。
「喧嘩してたら、夜も部屋に入れて貰えないわよ、和賀さん?」
「え?」
「だって、その為に典子1人部屋にしたんじゃないの?」
…玉置にはそう言って、自分だけ1人部屋にしたと言うが…部屋にも来るなと言っていたし、一体独りでどうやって寝るって言うんだか…。
「ウサギちゃん、生真面目だからね…お前が婚約発表した事で、皆に気をつかってるんじゃないか?」
「そうよ!典子に相談もなしに、又勝手な事して…」
「煩ぇよ!!」
婚約を皆に話したのは、典子にちょっかい出す相手を封じるだけではなく…春休みになって俄然人数の増えた練習を応援に来るファン達に対して、相変わらず怯えて遠慮する典子に自分の居場所を安心して貰う為だったんだが…。
発表した事で身を律し、部活中所か通学路迄も以前より余所余所しい態度を示す様になってしまった。
「アレですかね…和賀先輩と婚約したのって、ウサギちゃんがオメデタって噂が流れたから…」
「何だと!?」
椎葉の言葉に思わず噛み付くと、彼は慌てて手を振り青い顔で否定した。
「いぇ…それは、ウサギちゃんがキッチリ否定してましたから!キャプテンに失礼だって…」
「…でもきっと、気にしてると思うわ。浮かれて話す様な事じゃないわよ!」
「姫、要は浮かれて発表したんじゃないよ。ちゃんと、思惑があっての事なんだ」
「どちらにしても…私、嫌よ…こんなピリピリした雰囲気で合宿するの!何とかしてよね、和賀さん!?」
「…」
「じゃあ、一平…お前に一肌脱いで貰おうか?」
「えぇっ!?俺ですか、松本先輩!?」
「そう、お前に頼むよ…お前には、これから要とペアを組んで貰わないといけないからね?」
「俺…そんな、仲を取り持つなんて芸当出来ませんよぉ!?」
「そんな事をしなくてもいいんだ。唯、彼女の話し相手になってくれるだけでいい」
「…はぁ」
ニヤニヤと笑う松本と困惑する椎葉を見て、俺は深い溜め息を吐いた。
「各自割当てられた部屋に荷物を置き、30分後にグランドに集合。1年は体育館の準備が終了次第、速やかに合流する事!いいな!?」
「はいっ!!」
「では、解散!!」
宿舎のロビーで解散すると、私は荷物をロビーの隅に置き、管理人室から体育館の鍵を受け取って玄関を出た。
宿舎から少し離れた木立の向こう側にある体育館の扉の前で、私は深呼吸を繰り返す。
…大丈夫…大丈夫……もう何も起きる事等、ありはしないのだから…。
「…ウサギちゃん?」
突然声を掛けられ、心臓がドクンと脈打った。
「……椎葉…さん…」
「ごめん…驚かせた?」
「…いぇ」
私は気取られぬ様に、慌てて震える手で解錠し扉を開けた。
「…コートの準備ですよね?」
「…うん…まぁ、そうなんだけど…」
体育館の中は、独特の匂いがする…汗と埃の混じった籠った空気…大学の体育館とは微妙に違う匂いに、全身からジットリと汗が吹き出す…。
「…窓…開けてもいいですよね?」
「え?…うん…構わないと思うよ?」
足元にある換気窓を順々に開けていると、椎葉さんは備品倉庫からモップを出して床を拭き始めた。
窓を全て開け終わった私は、意を決して用具倉庫の前に立った。
鉄錆びの匂いのする重い鉄の扉……この中にある、緑の体育マットの上で……私は…。
「大丈夫っ!?ウサギちゃん!?」
そう呼び掛けられて気が付くと、私は倉庫の扉の前で座り込んでいた。
「…立てる?」
「……はい」
椎葉さんは、私を気遣う様にコート脇のベンチに誘った。
「直ぐに、和賀先輩呼ぶから!」
そう言って携帯を取り出した椎葉さんを、私は慌てて止めた。
「大丈夫です!そんな必要ありません!」
「でも…」
「本当に…大丈夫です…」
「…」
「内緒にして下さい…和賀さん…キャプテンにも、誰にも言わないで…」
溜め息を吐いた椎葉さんが、私の隣に座って足を投げ出した。
「ウサギちゃんさぁ…和賀先輩と喧嘩した?」
「…いぇ」
「前の合宿の時に、松本先輩から交際の事聞いた時もさぁ…和賀先輩がウサギちゃんに対して、手荒な扱いしかしてなかったのにって驚かされたけど…皆に交際発表して、この間は婚約発表迄したのに…ウサギちゃんって、ちっとも変わらないんだね?」
「…」
「って言うかさぁ…余計に、和賀先輩に対して冷たくなってない?」
「…それは…キャプテンとマネージャーとして…きちんとけじめを…」
「だけど、部長とチカちゃんだってアレだろ?別に誰も何とも思わないと思うよ?況してや、婚約してるんだからさぁ」
「…だからこそ、きちんと律しなきゃいけないと思って…」
「相変わらず、真面目なんだなぁ…。でも和賀先輩、ちょっと気の毒かなぁ?」
「…え?」
「気を悪くしないでよ?ウサギちゃんさぁ…ちょっと、和賀先輩に冷た過ぎると思って…」
「…」
「和賀先輩だって、部活中にイチャイチャしたい訳じゃないと思うよ?」
「…だって」
「ウサギちゃん、この間も2年の先輩の友人から、交際申し込まれてたでしょ?その前も、試験直後だったか…モーション掛けられてたよね?」
「あれは…」
「男として、心配なんだと思うよ?自分の彼女で婚約者がさぁ、他の男に言い寄られるのって…だから、先輩公表したんだと思うけど」
「…」
「俺達も悪いんだよねぇ…2人の様子見てて、何度も破局説が流れてさぁ…だから、そんな噂が外に流れたんだよ、きっと」
「…」
「冷たくしてるのさぁ、妊娠説が出たから?」
「…別に、冷たくしてる積もりは…唯、キャプテンにも自覚して頂きたくて…」
「自覚してるよ、先輩は…婚約したって発表して以降も、ウサギちゃんに対する態度は変わってないよ?」
「…」
「変わったのは、ウサギちゃんだよね?体調を心配する和賀先輩の事迄、避ける様になってるでしょ?」
「……良く…見てるんですね?」
「一応、俺はセッターだから…ポジション的に得意って言うかさぁ…」
「松本さんと…似ていらっしゃる」
「本当に!?なら、嬉しいんだけど…まだまだだと思うんだよねぇ」
「大丈夫ですよ」
少年の様に嬉しそうな顔で笑う椎葉さんを見て、少しだけ柔らかい気持ちになる。
「結局、ウサギちゃんはさぁ…皆に、和賀先輩と特別な関係であると思って欲しくないって事?」
「…そうですね」
「じゃあさぁ…俺からさりげなく皆に伝えるからさぁ…和賀先輩と仲直りしてくれないかな?」
「…仲直りって言われても…喧嘩してる訳でもないし…」
「滅茶苦茶不機嫌なんだよねぇ、和賀先輩」
「…そうですけど…」
「あの人の性格からしてさぁ…全部、俺達に降り掛かって来るんだよねぇ」
「え?」
「強化合宿初日だし…地獄のシゴキが始まる予感がするんだよねぇ」
「…」
「急遽キャプテンに抜擢されて…まぁ、そんな事でプレッシャー感じる人じゃないけどさぁ…今迄と違って責任もあるし。何より恐ろしいのが…井手監督とツーカーって事でさぁ…」
「…何か、問題あるんですか?」
「問題じゃないけど…結構鬼畜なんだよ、新監督って人は!優しい顔して、超ハイレベルな事を要求するんだよねぇ。ハッキリ言って、前監督なんて比べ物にならないと思うよぉ?そんな練習が…今日から始動するんだよねぇ…」
「…全日本のレベルを、要求して来るという事ですか?」
「そう…それにプラスして、和賀先輩の不機嫌の虫をぶつけられたらさぁ…俺達は生きて行けないっていうか…」
椎葉さんの大袈裟なゼスチャーに思わず笑うと、彼は私に手を合わせて懇願した。
「頼むよ、ウサギちゃん!!俺達の為だと思って…和賀先輩に優しくして!!」
「…わかりました。私も、ここに戻って来る事で頭が一杯で、余裕がなかっただけなんです」
「それこそ、和賀先輩に助けて貰って…」
「いえ…これは、自分で乗り越えなければ、意味はないんです」
「ウサギちゃん?」
そう…自分の気持ち位自分でコントロール出来なければ…これから先に待ち受ける物なんて、とても乗り越えられないのだ…。




