第60話
「何をそんな蕩けそうな顔で見てるんだか!?」
「え?」
「今にねぇ…見過ぎて、パネルに穴が空いちゃうわよ!」
茜に流し目を送られ、私は思わず苦笑した。
高松さんから贈られた写真パネルは、全日本インカレの時の…和賀さんが怪我をする直前のプレーを撮した物だった。
『和賀さんの…飛ぶ写真を撮影して頂きたいんです!』
病院で話した私の願いを、高松さんは律儀に守ってくれたのだ。
聞けば、専門学校のコンテストでも最優秀賞を取ったのだそうだ。
松本さんの上げたトスを、躰をしならせて打ち込む瞬間を捉えた…私の一番好きな瞬間を切り取った物だった。
「…背中にね…翼があるみたいでしょ?」
「あー、ハイハイ…でも、もう少し引きで撮ってくれてたら、浩一もバッチリ入ってたのに…」
「欲しい?松本さんの写真?」
「そりゃね…もう、二度と見れない訳だし…」
「わかったわ。今度、高松先輩に聞いてみるわね」
そう答えて持ち上げた私の左手を茜が目で追うのを見て、何となく複雑な思いに囚われる。
確か茜の両親は、松本さんとの交際を快く思っていないと聞いた。
松本さんはその為に大学を受験し直したが、それでも卒業迄丸4年掛かる訳で…その前に茜は大学を卒業してしまうのだ。
「それにしても、和賀さんの典子に対するイメージって、とことん可愛い系なのね……それってピンクゴールドよね?石は?その濃さだとダイヤじゃないでしょ?ピンクサファイア?」
「ピンクトパーズって言ってたわ。誕生石だからって」
「…」
「何?」
「それって…和賀さんが、典子を食べてるって…そういう意味?」
「…何言ってるの、茜…」
そう言いながらも、顔から火が出る程赤面するのを自覚した。
確かに…彼は直ぐにそんな言葉を口にするけど…そう言えば、この指輪を贈られた時にも、そんな事を…。
「……所でさ、典子…」
そんな私を呆れ顔で見ていた茜が、急に真正面な顔で尋ねる。
「…どうするの、今度の合宿?」
「……一応、参加する積りよ」
「大丈夫なの?あの清里の合宿所なのよ!?」
毎年3月末に行われる男子バレー部の春合宿は、夏同様に清里の合宿施設で行われるのだ。
和賀さんも、最近ずっとその事を気にしている。
遼兄ちゃんも心配して、先日電話が掛かって来た。
「…私が怖がって欠席したら、部の人達が余計に気にするし……今度は、茜も出席するし…大丈夫よ、きっと」
「まぁ、和賀さんがベッタリとフォローすると思うけど…」
「それは、駄目!」
「何でよ?」
「…駄目よ…」
「でも、もう皆知ってるわよ?」
「え?」
「だから、婚約の事よ。もう皆知ってるわ。和賀さんが、自分で発表してたもの」
「えぇっ!?」
そんな…私に何の相談もなく……困る…。
「良かったのか、勝手に発表なんかして?」
「いいんだって!!…これで、典子にちょっかい出す奴が居なくなると思えば、安いもんだ!」
俺と付き合ってる事は周知の筈だのに、最近又典子に交際を求めて来る奴等が出始めた…それに…。
「最近、チビ助は女っぷりが上がって、綺麗になって来たからだろう?」
「典子は元々可愛い!」
「だから、綺麗って言っただろう?チビ助はまだ成長過程にあるからな…教育次第でまだまだ化けるぞ?」
ニヤニヤと笑う兄貴に、ハタと思い出して釘を刺す。
「そうだ、核兄ぃ…これ以上、典子に変な事を教えるなよ!?」
「変な事って?」
「わかってる癖に言わせんなっ!!」
「言ったのか?俺が教えたって…」
「あぁ…」
苦虫を噛み潰した様な顔をした俺を見て、兄貴は腹を抱えて笑い出し、キョトンとする松本に説明を始めた。
「ウサギちゃん…そんな事…」
「お前にも聞いたんだってな、浩一?」
「え?それも聞いたのか?」
「そっちは、病院で聞いたんだよ…」
「参ったな…俺は、医学書なんて読む必要はないって言っただけだ。気持ちの問題だからって…」
「何にせよ、お前が悪いんだ、要」
「何でだよ!?」
「あんな天然記念物みたいな女…放置してたら、今度は親父や姉貴、商店街の連中に迄『どうすればいいですか』と言って、教えを乞う様になるぞ?」
「人を信用出来なかったウサギちゃんが、姫や要以外にも心を開いて来たからだろうけど…質問の内容が内容だけにね…」
そう言って、松本も苦笑する。
「病院でも言われた…普通の19歳とは違うから、一から教えてやれってな…」
「要、お前…怖かったんだろう?」
「え?」
「今迄、目や耳を塞いで生活して来たチビ助が、一人前の女になった時…周囲を見渡して、自分以外の男に関心を持つ前に…自分だけの物にしたかったんだろう!?」
「…」
「…でも、何となく気持ちはわかりますね。それに、一から教えるって…アレでしょう?源氏物語の…」
「『紫の上計画』か?だがな、松本君…紫の上は、最後は光源氏を振るんだぞ?」
「…嫌な事言うなよ、核兄ぃ!」
剥れる俺に、兄貴は事も無げに言って退ける。
「何言ってる、要。お前が、チビ助を余所見させないだけの男として、成長すればいいだけの話だろう?」
「…」
「お前、将来の事…どう考えているんだ?今年3年だろう?」
「……模索中」
「プロへの話は?」
「…怪我で、流れたと思ってたんだがな…様子見って感じだ」
「体育大学なんて、潰しが利かない。一般企業への就職を考えるなら、早目に行動した方がいいぞ。教職は取っているのか?」
「一応な…バレーに関係する仕事って言ったら、前は教師になる位しか思い付かなかったしな…」
「そう言えば、チビ助も養護教諭の資格を取ると言っていたな?公立だと、夫婦は同じ学校で教鞭は取れないぞ?」
「…まぁな」
「それよりも…チビ助に、養護教諭が勤まるかが問題だな」
「何でだよ?」
「だってそうだろう?小学校では、怪我した子供を担ぐ事も無理だろうし、中学校では性教育を教えるんだぞ?高校じゃ、チビ助の方が襲われそうだしな…恋愛相談なんていうのも、無理だろう?」
「…勤まらねぇなんて、典子に言うなよ!?」
「だが実際問題、校内の事だけではなく…彼女に毎朝、ラッシュに揉まれて電車通勤なんて出来るのか?」
「…」
「公立だと、ここから通勤出来ない場合もあるんだぞ?」
「…どうしろってんだよ」
「良く話し合えって事だ」
「…」
「…養護教諭になる事が、本当に自分の遣りたい事なのか、自信がないとチビ助は言っていた」
「え?」
「自分には普通のOLも、理学療法士の様に不特定多数の人間と接触する仕事も出来ない。一般の教師の様に、人前に立つのも無理だと言っていたぞ?」
「…」
「それに、一体何がやって見たいのか、何が好きなのかもわからないと言っていた」
「…アイツ…」
「心して考えろ、要。チビ助は、お前の事以外は何も無い…不安定なままの状態だ。何がお前と彼女にとって最善なのか、お前がキチンと考えて導いてやれ」
「…あぁ…わかった」
兄貴の言葉に、俺は思いを新たにして頷いた。
桜前線が南から北上し、東京の桜もチラホラ咲き出した頃…私は月末から始まる合宿の準備に追われていた。
和賀さんの部屋と自分の部屋を、慌ただしく往き来していた時…ふと視線を感じて、店の駐車場の方に視線を向けて驚いた。
「……滝川…さん」
「久し振りだね、ノンちゃん」
「……お久し振りです」
駐車場の奥、渡り廊下の直ぐ横にあるフェンス迄近寄って来た滝川さんは、私に親し気な笑みを浮かべた。
「和賀は?練習中だろ?」
「……えぇ」
「少し君と話がしたくてね…部屋に入れてくれないかな?」
和賀さんの居ない時に…滝川さんを招き入れたなんて事を彼が知ったら…烈火の如く怒り出すに決まっている。
「…あの、部屋は…ちょっと…」
「何もしないんだけどな?」
「……大学で、和賀さんと一緒に…窺います」
「和賀に会ったら、僕は確実に半殺しにされる。それともノンちゃんは、和賀を…栄子と同じ様に犯罪者にしたいのかな?」
「……それでは…店の方では、如何でしょう?」
「それは、流石にちょっと遠慮したいな。他の場所で、何処か無い?」
ニヤリと笑う滝川さんに、背筋が寒くなる…。
本当は話等聞きたくないと、突っぱねなければいけないのだろうけれど…聞かなければ、後悔するかも知れない…そんな気持ちが、鎌首を擡げた。
「……わかりました。商店街を少し駅に戻った右側に、『KING』という喫茶店があります。そこで、待っていて頂けませんか?」
「…」
「直ぐに参ります」
「わかったよ…待ってる」
そう言って背を向ける滝川さんに安堵した私は、直ぐに和賀さんにメールを入れ、待ち合わせた喫茶店に向かった。
『KING』は、マスターに教えて貰った落ち着いた佇まいの喫茶店で、店内にはいつも静かにジャズが流れている。
殆どがスタンダード・ジャズか、モダン・ジャズ…店名の『KING』は、Nat King Coleの愛称だとマスターが教えてくれた。
「…お待たせ致しました」
滝川さんの前に座ると、彼が何も言わず差し出したメニューを私は片手で制した。
「いらっしゃい、典子ちゃん…いつものでいいかい?」
『KING』のマスターに頷くと、彼は何も言わずにメニューを下げた。
「へぇ…常連なんだ」
「何度か、マスターに…和賀さんのお父さんに、連れて来て頂きました」
「そうなんだ…」
そこから流れる沈黙…唯、店の中に流れる『Unforgettable』を2人で静かに聞いた。
やがて運ばれて来た珈琲とウィンナ珈琲が、沈黙を破る。
「ジャズ、好きなの?」
「…この店に来る様になって…好きになりました」
「意味深な歌だな…」
「え?」
「…忘れられない人が居る事が、こんなに素晴らしい事なら…私も貴女の忘れられない人になりたい……か…」
「…」
「躰は?栄子に刺された傷は…大丈夫だった?」
「はい」
「……ノンちゃん」
「…はい」
「……済まなかった…」
「…いぇ」
「今更、何言っても遅いけどね…」
「そんな事…ありません。…嬉しいです。ちゃんとこうやって…直接謝罪に来て下さって…」
「…まぁね、最後位は…立つ鳥跡を濁さずって言うしね」
「え?」
「マスコミに騒がれる事を懸念して、滝川の家に軟禁されてたんだけど…栄子の判決も出た事だし…」
「えっ?」
「…知らなかった?出たんだ、判決…精神鑑定が効いてね。執行猶予が付いた」
「……そうでしたか」
「これを機に、僕も滝川の家を出る事にしたよ」
「…大学には?」
「さっき、退学届を出して来た」
「…バレー部の皆さんには?」
「流石にね…顔を合わせ辛いっていうかね…」
「…」
「渡米する事にしたよ…あっちで、クラブチームのオーディション、受けて見ようと思うんだ」
「…そうですか」
「ノンちゃん」
急にまじまじと見詰められ、私の心臓は跳ね上がった。
「…最後に、もう一度だけ口説かせて」
「…」
「僕と一緒に……付いて来てくれないかな?」
「……滝川さん」
「だから…もう滝川じゃないんだ。岸部だよ…岸部智輝」
「…トモ君」
私は、そっと左手を差し出して言った。
「私……正式に、和賀さんと…婚約したんです」
「…」
「ごめんなさい」
突然、クックッと笑い出したトモ君は、背もたれにドスンと身を預けた。
「…いゃ…断られるのは覚悟してたけど…流石にね、ソレは想像してなかった!プロポーズの話、出任せじゃなかったんだ?」
「……ったりめぇだ、この野郎!?」
ドアベルの音と共に息を上げた和賀さんが飛び込んで来て、私の隣にドスンと座り、私のグラスの水を一気に煽った。
「真打ち登場か…早かったな?」
「メール見て、走って来たんだよっ!」
ジャージ姿の和賀さんは、私の肩を抱いてトモ君を睨み付ける。
「俺の女だっつったろ!?手ぇ出すなっ!!」
「…ノンちゃん、いいのかい?こんな奴で?」
トモ君を見詰め、私は黙って頷いた。
「母はね…桜の季節になると、いつも思い出して言ってたよ。『元気にしてるかしら?』『幸せにしてるかしら?』ってね…。僕には、君の事を言ってるのが直ぐにわかった…」
「…」
「幸せにね、ノンちゃん…」
「ありがとう…トモ君も…」
「じゃあ、和賀…これは、旅立ちの餞別って事で…」
鞄を担いだトモ君は、テーブルの伝票を和賀さんに渡して、ニッと笑った。




