第58話
私がシャワーに入ったのは、先日核さんにアドバイスを貰ったからだ。
1つ目は、時間を与えて冷静にさせる為。
2つ目は、興奮して服を破られない為…家に居る時も興奮するとよく破られるのだ…外でやられたら、和賀さんの手が後ろに回り兼ねない。
そして3つ目が、躰を与えて落ち着かせる為だった。
「ウチの弟は、瞬間湯沸し器みたいな奴だからな…頭に血が上った時には、何を言っても無駄だ」
「…確かに…そんな所はありますね…」
「そうだろう?そんな時は、一気に冷却してやらないと、こちらの話しも耳に届かないし暴走を始めてしまう」
「どうすればいいでしょう?」
「そうだな…まぁ、ウチの人間や松本君なら、一発拳を入れれば済むんだが…チビ助には無理だろう?」
「…届きません」
「いゃ…そうじゃなくて……お前の場合は、泣き落とし位しか出来そうもないな」
「…はぁ」
「それでも駄目なら、一発やらしてやるんだな」
「え?」
「だから…興奮した男を鎮めるには、お前自身を抱かせてやれ。それが一番効くんだ。それでなければ、一発抜いてやればいい」
「抜く?」
「…まさか…触った事もないなんて、言わないだろうな!?」
「……何を…ですか?」
「…お前が、今想像した物だ」
「……一応…少しだけ…」
「じゃあ、コッチは?」
核さんは、自分の舌を出して指を差す。
「とんでもないッ!!」
「…嘘だろ…オィ…!?」
急にゲラゲラと笑い出した核さんに、私は抗議の眼差しを送った。
「…お前の場合、カマトトって訳でもなさそうだし…天然記念物という訳か!!」
「…」
「だがな、チビ助…大事な事だぞ?」
「…ぇ?」
「そういうコミュニケーションも、大切だって事だ…お前には、ハードルが高そうだがな…」
「……私…頑張ります!!」
「…」
「どうすればいいですか!?」
「…俺に、教えを乞うのか?」
「…え?駄目ですか?」
核さんは肩を震わせながら、近くにあった広告の裏に図を描いて、詳しく説明してくれた。
確かに…その後教材だと見せられたDVDも、訓練の為と与えられた食材も…ハードルは高くて…。
だが実際は…そんな生易しい物ではなかったのだ。
「…練習の成果は?」
そう言って目の前に突き付けられた物の、圧倒的な質量と恐ろしさに…私は思わず腰を抜かして、しゃくり上げた。
「…無理しなくていい…こういう事は、時間を掛けて追々と…俺が教えてやるから」
スルリと頬を撫でられ、見上げた和賀さんの顔は凄く優しくて……私は、今出来る精一杯の事を施した。
「……やっべぇ…ノン……凄ぇ…興奮するッ!!」
「……興奮したら…困るのに…」
「無理言うなって!?」
「…もしかして…逆効果ですか?」
そう言って見上げた途端、抱き上げられ…ベッドに押し倒された。
精根尽き果てた典子の躰にゆっくりと舌を這わせ、薄い皮膚を食んで甘噛みし、吸い上げる…彼女の躰の中に残る熾火が消えてしまわない様に、じっくりと愛撫する…。
相変わらず快楽的な事に怯える典子を、煽り…焦らし、最後に我慢し切れなくなる迄、何度も何度も可愛がる。
すると、彼女の躰は変化を遂げる……達きっぱなしの状態になるのだ!!
心と躰…両方共に彼女に嵌まるとは…心だけでも十分に満足していた俺には、これは嬉しい誤算だった。
唯……一晩中貪る俺に、典子の体力が付いて来ない…結果的に、抱く回数が減り…毎回濃厚な絡みとなってしまう。
「…グルーミング…されてるみたい…」
「……ん?…嫌か?」
くるりと寝返りを打つと、俺の頬に手を添えて典子は目を細めた。
「大きなライオンと…一緒に居るみたい」
「…ノン…」
「何?」
「あのストラップ選んだのって…やっぱり、俺が『傲慢』だからか?」
「ぇ?……あれは、和賀さんが…」
「名前呼べって…」
「…嫌」
「何で?」
「だって…」
ベッドでクタクタになると、堅さが取れ言葉遣いは素の典子に近い物になる様で…だが、俺への呼び掛けだけ相変わらず名字のままなのが歯痒いのだ。
「…アメリカ…行くのか?」
「……月曜日にね…学長と会うの」
「…」
「…和賀さん…一緒に来てくれる?」
「……わかった」
典子の細い指が、俺の髪に分け入り…梳く様に撫でられる。
「ストラップの…ライオンね…」
「…ん」
「あれは…『il leone alato』なの」
「え?」
「イタリアの…ヴェネツィアのね……サンマルコ広場とかに沢山居るの…」
「…」
「9世紀にね…ヴェネツィアは、東ローマ帝国に属しながら、フランク王国との交易権も持つ事になって…貿易都市として発展する事になるんだ…けど…」
「歴史の講義か?」
「…」
「…ノン?」
「又…核さんに怒られる…」
「何で?」
「…説明…下手過ぎって…怒られたもの」
「俺は、ちゃんと聞いてやるから…言ってみ?」
「…」
「…ノン?」
「……その頃ね、ヨーロッパ各国で、国の存在をアピールする目的で、『守護聖人』を求める風潮があったの。ヴェネツィアも他の国同様に探してたらしくて…新訳聖書の『マルコの福音書』の『聖マルコ』の遺骸が、エジプトのアレクサンドリアにあるって噂を聞いた2人の商人が、奪い取って持って帰って来たらしいの。それで、ヴェネツィアの『守護聖人』は、『聖マルコ』になりましたとさ」
「…おしまい?」
「おしまい」
「ライオンは?」
「あぁ…それは、『聖マルコ』な象徴が、『有翼の獅子』なの。だからヴェネツィアには、至る所に『有翼の獅子』の像があるんだって…」
「…」
「ピッタリでしょ?和賀さんのイメージと…」
「だから、ライオンと翼?」
「そう…ライオンの天使……強くて、大きくて、逞しくて…優しくて…誰よりも高く飛ぶの…」
「…ノン…」
「…Il mio Leone.」
「何だ?」
俺の髪を撫でてフフフと笑っていた典子は、俺の首に腕を回して引寄せると、耳元に甘く囁いた。
「…Il mio caro Leone.」
意味はわからない…だが、典子の発音する『リーォン』という甘い響きが、いつまでも頭の中を木霊した。
ノックの音に、中から声が掛かる。
「…どうぞ」
「失礼致します」
典子と共に頭を下げ、学長室に入った。
「待っていたよ、宇佐美君!さぁ、座りたまえ」
学長は、満面の笑みで俺と典子をソファーに座る様に勧めた。
「君は?」
「体育科2年、和賀要です」
「あぁ…君がバレー部の…。躰はもういいのかね?」
「お陰様で、もう練習にも復帰しています」
「そうか、それは良かった。それで…今日は、何故ここに?」
「…私が…一緒に来て頂きたいと、お願いしたんです」
「…先週のバレー部の納会では、ちょっとした騒ぎになってしまった様だね?」
「え?…えぇ…」
「大川教授から、交換留学生に決まったのは、宇佐美君で間違いないのかと、問い合わせが来たよ。OBの中から、まだ決まっていない筈だと、異論が出たらしくてね」
「…そうですか」
「それで?今日は、答えを聞かせて貰えるんだね?」
「…はい……大変光栄には思いますが、辞退させて頂きます」
「何故!?」
「私がこちらの大学に入ったのは、養護教諭の免許と、理学療法士の国家試験を受ける資格が欲しかったからです。留学してしまうと、その目標が達成出来ません」
「そんな物は…留学に於いて得られる物に比べたら…」
「そんな物と…仰るのですか?」
「しかしね、宇佐美君…」
「それに私には、アメリカに行って学びたい物が何もないのです。それよりは、あちらで明確に学ぶ物を見定めていらっしゃる方を、推薦された方がいいと思います」
「…和賀君、君からも何か言ってやりたまえ!」
「何をですか?」
「こんな機会は、2度とない…あちらの大学でも、彼女の様に優秀な学生を待ち望んでいるんだ!」
「それは、そちらの事情でしょう?典子が行きたくないと言っているのを無理強いするのは、どうかと思います」
「君はわかってないな…彼女はね、ウチの大学始まって以来の才媛で…」
「知ってますよ。東大の医学部の受験考える程、頭がいいそうですね?脳味噌が筋肉で出来ている俺達とは、出来が違うって言うんでしょう?ですが、学長…典子の事をわかっていないのは、貴方の方です」
「何だって?」
「典子が、何故出席日数が足りなくなる迄、学校を休んだのかご存知ないんですか!?入院していたのは、怪我による物だけではなかったんですよ!?」
俺が学長に話すのを、隣に座った典子がじっと見ている。
…暴走をしない様に…そう心に誓いを立てて、俺は息を吐いた。
目の前のテーブルに白い封筒が置かれ、典子が学長に押しやった。
「…私の…診断書と……担当医からの手紙です」
「…ノン、お前…そんな物、用意してたのか…」
「…」
俯く典子を見ながら、学長は封筒に収められていた手紙を見て、溜め息を吐いた。
「…事情は、わかった…だが、カリフォルニアにも、いい病院はあると思うが…そちらに通院しながらという訳には、いかない物かね?」
頭の中で、ブツンと何かが切れた…俺はソファーから立ち上がり、上から学長を睨み付けて吼えた。
「まだ、そんな事を言ってんのか、アンタッ!?ふざけてんじゃねぇぞ!!」
「和賀さんッ!!」
「何だね、君は!?」
立ち上がった俺の腕を、隣から典子がぶら下がる様に引っ張る。
俺は瞠目する学長に、真正面から吼えた。
「夏休みの事件以降、典子がどんな思いをして来たか…何度も何度も死にそうになって、精神崩壊しかけて、分裂迄起こしてたんだぞ!?やっと…やっと落ち着いた生活させてやる事が出来る様になったんだ!!大学の見栄の為に、賢い典子を人身御供みたいに送り込もうとするんじゃねぇッ!!アンタ、典子を殺す積りかっ!?」
「なっ…何なんだね、君は!?一体何の権限があって、この件に口出しをするんだ!?」
「俺は…俺は、典子の……」
「…婚約者です」
隣から、小さいがハッキリとした言葉が紡がれた。
「こちらの和賀さんは、私の婚約者で……イタリアに行った父からも、私の事を一任されています。ですから、同席をお願いしました」
「…」
目の前の学長が、俺と典子を見比べる。
俺は…学長に気持ちを悟られ無い様に、静かに元の席に座った。
「…どうしても、納得して頂けないのでしたら…こちらを…提出しなければなりません」
そう言って、典子はもう一枚の封筒を学長に滑らせた。
「こっ…これは…」
「ノンッ!?」
封筒に置いた典子の手が離れると、俺と学長は揃って声を上げたのだ。
何故なら…封筒の表には、達者な女文字で『退学届』と書かれていたから…。
「いゃ…いや、いや、宇佐美君ッ!!君、何もそこまで…」
「…でも…学長はその為に、後期試験の件でお骨折りして下さって…私は…何のお返しも出来なくて…」
俯いた典子の膝に、ポタリポタリと涙が落ちる…俺は彼女の肩を抱いてやりながら、再び学長を睨み付けた。
「わかった…残念だが…この件に関しては、白紙に戻そう」
「学長、その退学届は?」
「勿論、必要ない…収めたまえ」
そう言って、学長は典子の退学届を差し戻す。
「俺の退学届は、必要ですか?」
「何故?」
「学長に対して、暴言を吐きましたからね」
「…婚約者を守っての事だからね。大目に見よう」
「ありがとうございます」
俺はグスグスと鼻を啜る典子を立ち上がらせ、学長室を後にした。
「…ありがとうございました」
「…あぁ」
「良かったです…付いて来て頂いて…」
「…」
「核さんに知恵を絞って頂いて、武蔵先生に診断書と手紙を書いて頂いたんです。退学届も用意した方がいいと言われて…」
「核兄ぃの計画だったのか?」
「はい。納得しなかったら、泣き落とししろって…」
「俺を同席させたのも?」
「えぇ…和賀さんが、学長に言い辛い事も言ってくれるだろうからって」
成る程…兄貴の考えそうな事だ。
俺が学長を殴って、退学になったらどうする積りだったんだ、全く…。
「じゃあ、アレも?」
「え?」
「さっき、お前が言った…俺が婚約者ってのも、兄貴の計画だったのか?」
「…」
「ノン?」
「……アレ…は…」
「言ったよな?」
「…」
「自分で言ったんだよな!?」
「…えぇ」
「言った責任…取ろうな?」
典子は黙って頷いた。




