第57話
頭の中が…ザワザワとざわめく……脳天に一気に血が駆け上り…真っ白になった。
典子が留学するだと!?
アメリカに…カリフォルニアの大学に行くだと!?
然も、2年も!?
あり得ねぇ…俺と離れて生きて行く事なんか、出来ねぇ女なんだぞ!!
やっと、この手に取り戻したんだ…どこにもやらねぇ!!
やれる訳ねぇだろ!?
だが…発表してるのは、大学の教授で……典子が交換留学生に決まったと言った…。
典子は…何故俺に何も話さねぇんだ?
話さねぇって事は……留学を決めたって事か!?
俺を残して?
俺を置いて!?
俺を…捨てて…!?
気が付くと、瞠目する典子の襟を掴み揺すっていた。
すると典子は、玉置に兄貴を呼んで来る様に言ったのだ!
何故、兄貴なんだ?
何故、俺じゃない!?
典子は、俺の女なのに…。
何故、何故、何故、何故…!?
赤黒い顔をして、涙を溢す典子が…俺の頬を抱く様にして、唇を重ねて来た……その唇を追おうとした途端、典子の躰からグニャリと力が失われた。
次の瞬間、目の前に星が飛ぶ程の力で顔面を殴られ、俺の躰は吹っ飛んだ。
「何やってるッ!?お前ッ!!」
鬼の形相の兄貴に後ろ首を持たれ、会場前の廊下の端迄ズルズルと引き摺られると、再び顔面を何発か殴られた。
「目ぇ醒めたかッ!!」
「……核兄ぃ」
「お前…チビ助の事…本気で殺す積りだったのか!?」
「…ぇ?」
兄貴の視線を追うと、廊下に寝かされた典子に跨がる様にして松本が心臓マッサージをし、玉置が人工呼吸を繰り返していた。
「……ノン…ノンッ!!」
駆け寄った途端、玉置の強烈なビンタが炸裂する。
「許さないわよッ!!和賀さんッ!!」
「…」
「貴方迄、典子を傷付けるっていうのッ!?」
そう言って、玉置は俺の胸を無茶苦茶に叩いた。
「絶対にッ!!許さないッ!!」
「落ち着いて、姫…皆に気付かれる」
「許さないわッ!!」
「落ち着いて…それが、ウサギちゃんの為だ…」
そう言って松本は玉置を抱き締め、俺に顔を向けた。
「大丈夫だ、要…ウサギちゃんは無事だから…」
俺は…一気に血の気が引いて…床に寝かされた典子の隣にへたり込んだ。
「…何かあったのか?」
会場から出て来た堀田さんが、典子の様子を覗き込む。
「大丈夫ですよ…ちょっと貧血起こしたみたいで…」
「上に部屋を取って休ませる…要、チビ助抱いて付いて来い!」
松本と兄貴のフォローに、俺は唯ロボットの様に典子を抱き上げた。
案内された部屋のベッドで、典子は穏やかな息を吐く……たが、その首に…ハッキリと付いた指の跡…。
「…俺が…やったのか?」
「覚えてないのか、お前…」
「上着の襟…掴んで……そしたら、典子が玉置に…核兄ぃ呼べって」
「…」
「その後…典子にキスされた…」
「その前に、お前が彼女の首を掴んだんだ!」
「…ノン…」
ベッドに腰を下ろし、典子の頬を撫でると…その手を兄貴に掴まれた。
「待て、要…」
「…」
「今は…チビ助に触るな」
「…何で」
兄貴は溜め息を吐いて、俺を睨んだ。
「彼女の首を締めたんだろう!?トラウマを起こしていたら、どうする積りだ?」
「…」
「彼女の…起きた時の反応を見た方がいい」
俺はノロノロと立ち上がり、松本の隣のソファーに沈んだ。
「…浩一…典子、心臓止まってたのか?」
「少しの間だけだ…直ぐに復活した。多分、影響のない位…」
「…俺が…殺す所…だったんだよな?」
「…要…」
…俺が…典子を殺す…。
確かに、典子が俺から逃げるなら…殺してしまうかもしれないと思った。
だがそれは、比喩だった筈だ…それとも、本気で…思ってたって言うのか!?
俺は…本当にいつか、典子を殺してしまうかもしれない…。
殺人罪なんか怖くはない…恐ろしいのは……典子が俺の手の届かない所に言ってしまう事だ!!
「ゥ…ゥウアアアアッ!!」
「要ッ!!しっかりしろッ!!」
「アアアアアーーッ!!」
頭を抱えて、吼えるだけ吼えて…脳が酸欠状態になって痺れ、ボンヤリする…。
ドロドロとした混沌の中で、突然一筋の光明が見えた。
「…和賀さん…要さんはっ!?」
それは、雲の切れ間から射す光にも似た…細く美しい…天国への階段…。
そして、天使は舞い降りた……俺を足元から見上げると、下から優しく抱き締める、細い腕…。
…汚しちゃいけない…もう、失いたくはない…だから、頭を抱えたまま拒絶の言葉を吐いた。
「…離れろ…ノン…」
「…何て…仰いました?」
「……俺から…離れろ…」
「……本気で…仰ってますか?」
目を合わさなくても、典子がどんな表情だかわかっている…。
俺が…典子を…拒絶する…。
それは、2人の関係の終わりを意味していた…。
典子が兄貴や松本と話している…そして、優しく気遣う様に肩が叩かれ、部屋から人が出て行く気配がした。
もうこれで終わりだ…何もかも……全て…自分で摘み取ってしまった。
…部屋の中の空気が、フワリと揺れた。
「ベッドで…休まれた方が良くないですか?」
…………何…だ…?
「……シャワーを…浴びて来ますね」
………何て……言った…?
「…もしも……私と話す事も……同じ部屋の空気を吸う事も…嫌だと仰るなら……その時は、シャワーを浴びている間に……出て行って下さっても…結構です…」
…………典子の声だ…。
………何だ…って……シャワー…って…?
パタンとドアの閉まる音がして…本当にシャワーを浴びている音がする。
この状況って………いゃ…典子に限って、絶対にそれはあり得ない!!
やがてバスルームから出て来た典子は、大きなバスローブをワンピースの様に着込み、ウエストに大きな蝶結びをして現れ…俺の顔を見て驚きの声を上げた。
「どうしました、和賀さん!?」
「…」
再び洗面所に駆け込み、絞ったハンドタオルを持って戻ると、典子は心配そうに俺の顔にタオルを当てた。
「…誰に遣られたんです?」
「……ノン…」
「何ですか?」
「俺が…怖くねぇのか?」
「何故?」
「…俺は…お前を…殺して…」
「シーッ…」
典子はそう言って、俺の頭を抱き寄せて、自分の小さな胸に掻き抱いた。
柔らかなバスローブ…フワリと香る甘いボディソープの香り…そして、規則正しく脈打つ心臓の音…。
「……温けぇ…」
「…生きてますょ、私は…」
「…掴んだら…離すのが……失うのが怖い…辛いって言ってた、お前の気持ち……やっとわかった…」
「…」
「俺は…お前を傷付ける……不安に怯えるお前を…いつか、殺しちまうかもしれねぇ…」
「…構いませんよ」
「…」
「それに…待っていて下さったという事は……まだ、少しは…私の事を思って下さっていると……自惚れてもいいという事でしょう?」
「…」
「……駄目…なんですか?」
「いいに決まってるじゃねぇか!?何故疑う!?」
「なら…何故、離れろなんて…」
「だから…俺は、お前を…」
「私が、和賀さんを不安にさせたから?寂しくさせたから?」
「…」
「私が…信じられない?」
「…いゃ…」
「私の気持ちは…変わらないと言ったわ!」
「…あぁ」
「傍に居るって言ったわ……和賀さんが…許してくれる内は…ずっと居るって……それも、もう許してくれないの?」
「…いゃ…」
「じゃあ…何で疑うの?」
「…」
「…私は、狡い女なのに」
「ぇ?」
「自分は臆病で、和賀さんの事を信じられなくて散々疑ってた癖に…自分の事は信じて貰えていると胡座をかいて……それが崩れそうになると、形振り構わずに…手を伸ばして掴もうとする…そんな小狡い女だわ」
「…」
「…私の中に、幻想を見ているなら…このまま、突き放して」
「…」
「じゃないと…後悔…する…」
顔を埋めている典子の胸の鼓動が、早鐘の様に勢いを増す…。
「……ノン…」
「…私、強くなるから…和賀さんの事、不安にさせない様に…強い女になるから!」
「…」
「1人でちゃんと立てる女になる!ちゃんと自立した女になって…和賀さんに依存しない女になって…」
「…違う、ノン」
「…え?」
「それじゃ…駄目だ」
「…」
「駄目なんだ、ノン…」
俺の頭を抱いていた典子の腕が解かれ、その躰は力無く床にしゃがみ込む。
「……駄目…なの?…もう…どうしようも…ない?」
真っ白な血の気の失せた典子の顔を、頬を包んで引き上げた。
「そうだ…ノン……お前が変わっちまったら、意味ねぇんだ!」
俺は…何をしていたんだろう…。
今、目の前に居る典子を愛している。
そのままの…ありのままの典子を…愛している。
典子の決めた事を信じよう…例えそれが、どんな結果でも……典子さえ生きていてくれるのであれば…。
典子の心の中に、俺が居さえすれば…それでいいじゃねぇか!?
「……私?」
「そうだ…ノン…」
「…」
「そのままでいい…そのままのノンじゃねぇと、愛せねぇって言ったろ?」
「…でも…私が弱いから、私が不安定で揺れてるから、和賀さん不安になるのよ?」
「そうだな…だけど、それも含めて…お前なんだ」
「…」
「泣き虫で怖がりで、意地っ張りで頑固で、優しくて甘えたで、賢い癖に天然で…可愛くて…可愛くて…」
典子の躰を抱き上げて膝に乗せると、顔中にキスを降らせながら、小さな躰を抱き締めた。
そして、彼女の唇を食む様にして口付けると、小さな舌を転がす様に絡めてやる…時間を掛け…丹念に…。
甘い吐息を吐く典子の首に…痣の出来てしまった項や喉元に舌を這わせ、反応を見る…大丈夫だ…怖がる様子はない。
鎖骨に口付けながら、バスローブの裾に手を忍ばせ……。
「…ノン…お前、何でパンツ履いてねぇんだ?」
「ッ!?」
蕩けてしまいそうな典子の顔が、真っ赤になり……彼女は慌てて俺の膝から転がり降り…床に手を付いたまま膝行って逃げる。
「そう言えば、シャワー浴びたんだよなぁ?」
「…そっ…それは…」
「…躰で、俺を籠絡する気だったのか、お前…?」
「そんな事は……唯…」
「唯?」
「…落ち着いて…お話しする為に…」
「する為に?」
「……落ち着いて…貰う為に…」
ジリジリと壁際迄追い詰めて、赤面して羞恥の為に涙ぐむ典子を言葉で煽る。
「いつから、そんなエロい事考える様になったんだ、お前?」
「…そん…な」
「俺は…大歓迎だがな…正直、お前がそんな事を考える様になるとは…」
「…かっ…核さんに……言われて…」
「核兄ぃ!?…何で、核兄ぃが出て来んだ?」
そう言えば、さっきも兄貴を頼る様な事を…。
眉を寄せて詰め寄る俺に、典子は慌てて弁解を始める。
「…相談に…乗って頂いたんです!!どうすればいいか…悩んでて…アドバイスを…」
「……で?躰使って、籠絡しろって?」
「興奮する男の人には…一番有効だからって…」
「…他には?何教えられた?」
「え?……えぇと…」
ゴニョゴニョと口籠もる典子に、俺は瞠目した…。
兄貴の奴…完全に典子をからかってオモチャにしてやがる!?
「それで?…兄貴で、試した何て事ねぇだろうな!?」
「何言ってるんです!?勿論ですよ!ちょっと…他の物で…」
そう言って、又赤面してゴニョゴニョと口籠もる。
「何でもいいけど、絶対俺限定だからなッ!?」
「当然です!和賀さんの対処法を習ったんですから!!」
「へぇ…俺の対処法を…習った訳だ」
「……和賀さん?」
「…成る程ね」
壁に背を付けて立ち上がった典子は、バスローブの前を必死に掻き抱き、顔を強張らせたまま曖昧な笑みを浮かべ、壁伝いにジリジリとバスルームに逃げ込もうとする。
「…わっ…和賀さんも……落ち着いた様ですし……私も、着替えて来ますね…」
「…逃げられると思ってんのか?」
「…」
「取り敢えず、お仕置きだな…ノン!?」
「な…なっ…何で?」
「俺じゃなく…核兄ぃを頼った罰…」
「えぇッ!?」
「そんな、俺も教えられなかったエロい事…どんな風に習ったのか…実践して貰わねぇとなぁ?」
「…」
「俺の為に、習ったんだろ?」
俯く彼女の顎を捉え、困った様な顔をした典子の口に親指を入れた。
「…ふぅえぇ」
「駄目だ…今日は泣いても、許してやんねぇ。据え膳食わぬは、男の恥って言うしな…」
「うぇぇ…」
「取り敢えずは…美味しく頂いてやるから、覚悟しろよ?」
そう言って俺は、典子に挑発的な笑みを送った。




