第54話
小さく華奢な躰が、そのまま俺の腕の中にすっぽりと収まり、穏やかな寝息を立てる…。
柔らかな頬に、髪に…唇に…キスを繰り返し溜め息を吐く。
俺には、この小さな女しか要らない…彼女でなければ、俺の心は癒せない!
センター試験を終えた松本は、結局私立大学に絞って受験する事を決め、2月の受験本番になると殺伐とした雰囲気に包まれた。
典子は課題に追われながらも松本の食事を用意し、弁当を作って差し入れている。
「浩一と一緒に食わねぇのか?」
「私立に絞られて、3教科の勉強になりましたからね…私が教える事なんて殆どないんです。たまには一緒に食事しますけど…集中されたい様で、ご自分の部屋で勉強される事が多くなって…」
「お前は?ちゃんと食ってんのか?」
冷蔵庫に貼られた、何も記載されていない表を見て、俺は典子に問い質す。
「…多分…」
「端から、弁当2つ作りゃいいじゃねぇか」
「…食べたんだと…思うんです……キャッ!?」
いきなり典子の服を捲り上げて腹を触ると、彼女は悲鳴を上げて身を捩る。
「…食ってねぇ…腹もぺちゃんこだし、体温も低い…」
「……済みません」
俺は冷蔵庫の食材を漁りながら、項垂れる典子に言った。
「いいから、レポート進めろ…飯作ってやるから!」
「…」
「…進み具合、どうなんだ?」
「……後期試験の最終日が締め切りですから…後、2本…」
「明後日から試験だぞ!?間に合うのか!?」
「…まさか、手書きとは思わなくて…」
「あぁ…不正防止にな…」
ウチの大学のレポートは、大学専用レポート用紙に手書きで作成する事が決まっている。
然も、一行に書き込む文字数迄決まっており…筆跡も調べられるという噂もある。
インターネットの普及によるコピペ対策なんだろうが…今の典子にとっては何とも過酷な話だ。
「試験勉強は?」
「…出来れば、テキストに目を通したいんですが…全教科は無理だと…」
パソコンで打ち出した自分の文章を、レポート用紙に書き写しながら、典子は肩を落とす。
通常60点の赤点ラインを、全教科80点以上を取らなければならないなんて…然も短期間で、あの量の課題を与えるなんて…教授達の虐めとしか思えない!
しかし、俺には何一つ手伝える事がないのだ…疲れた典子の躰をマッサージし、目薬やドリンク剤を買いに行き、食事を忘れる彼女にこうやって食い物を作ってやるのが精一杯だった。
「ほら、出来た…さっさと食っちまえ!」
冷蔵庫の中の鶏肉と野菜を入れて作った鍋焼き饂飩に卵を落として出してやると、典子は目を見開いて俺を見詰め…『頂きます』と手を合わせた。
「どうだ?」
「…美味しいです」
「味覚、戻ってねぇ癖に…」
「わかりますよ…とても、優しい味がします」
典子の料理は美味い…だが本人に言わせると、レシピ通りの味付けなんだそうだ。
だから作った後に、辛過ぎないか、薄過ぎないかと、俺達の好みを聞き…次回からはこちらの好みの加減で作って来る。
しかし、本人は相変わらず余り味がわからないのだそうだ。
「食ったら、風呂入って少し寝ろ…マッサージしてやるから」
「…でも」
「その方が、効率上がるだろ?大丈夫、ちゃんと起こしてやるから…」
何の事はない…自分が典子に触れて、スキンシップを取り…少しでも腕に抱いて寝たいだけだ。
風呂に入り暖まった躰を揉み解す…腰や背筋、肩に首筋…そして腫れ上がった右手…。
血行が良くなると、典子は全身の力が抜けた様に俺の腕に収まる。
「……ありがとう…ござい…ます…」
朦朧とする典子に口付けて舌を絡めると、彼女は陶酔した表情で俺の腕に堕ちるのだ。
後期試験が終了して3日、私達は大学に向かう道を歩いていた。
「大丈夫だって、ノン…心配すんな!」
「…入試の合格発表より…ドキドキします…」
鷹山学園体育大学では、学年末試験の結果を掲示板に発表される。
上位成績者と、追試決定者、留年決定者、課題の追加提出決定者…等々、様々な名簿が貼り出されるらしい。
何とか出された課題は提出する事が出来た。
まさか手書きだとは思わず、ペース配分を間違え…最後は和賀さんにも、和賀家の方々にも迷惑を掛けてしまった。
各教科の試験も、何とか書き込む事が出来たが…80点という合格ラインに届いたかどうかは、正直自信がない。
休んで受講していない分、勉強しなければならなかったのに…ギリギリ迄レポートに追われ、試験中も頭の中はボンヤリしたままだった。
「典子ッ!?」
校門を入った所で待ち構えていた茜が、私の姿を見て駆け寄り飛び付いた。
「やっぱり、貴女は最高だわっ!!」
「…ぇ?」
「自分の目で、確めなさい!!」
茜がそう言った途端、隣の和賀さんが私を抱え上げ、学生逹が屯う学生ホールの掲示板迄駆け出した。
「ホラッ!あそこ!!」
追試決定者の名簿を確認しようとしていた私に、茜が違う名簿を指差した。
「…凄ぇ…ノン……お前、やっぱ…凄ぇ賢いんだな!?」
貼り出された『上位成績者名簿』の1学年1位の欄に…学籍番号と私の名前が記載されていた。
「…」
「ノン…ノン?大丈夫か、お前?」
「…ぁ…気が…抜けて…」
そういえば、和賀さんに抱き上げられたままだった…。
「…降ります」
「いぃって…このまま、自慢してぇし…」
「…嫌です…恥ずかしぃ…」
渋々私を降ろすと、和賀さんは掲示板のチェックを始めた。
「良かったわね、本当に!」
「ありがとう…茜は?」
「私も、何とかクリア出来たわ。これでも、かなり頑張ったのよ!?浩一が、成績落としたら別れるなんて言うから…」
「まぁ…」
「でも、追試の掲示に浩一の名前があるのは、やっぱり癪だわ…試験受けてないから当然なんだけどね…。そうそう、滝川さんも…やっぱり受けてないみたいよ?当然って言えば、当然だけど…」
「…そぅ」
「…そうだ…典子、私ね…」
茜が何か言い掛けた時、掲示板の前から和賀さんが私を呼んだ。
「ノン!お前、学長から呼び出し掛かってんぞ!」
「え?」
「試験も無事通過したのに、何だっていうの!?」
「さぁ…数人、呼び出されてんな。所で、玉置…浩一から連絡来たか?」
「まだよ…やきもきさせるわね…全く!!」
今日は、松本さんの第1志望の大学の合格発表の日だ。
「どこに…願書を提出されたんですか?」
家庭教師を引き受けて直ぐに、私は彼の志望校を尋ねた。
「…何故、過去形?」
「…松本さんなら…もう、提出されたかと思って…」
「……君は、本当にそういう所は鋭いよね?」
「…済みません」
「いゃ…謝る様な事じゃないけどね」
苦笑を漏らす松本さんは、棚から大学の資料が入った袋を取り出して私の前に置いた。
「去年、腰を痛めた時…手術を勧められたんだ。でも、どうしてもバレーを諦め切れなかった…要との時間を、捨て去る気にはなれなかったんだ」
「…」
「何れはバレーが出来なくなる…それがわかった時、親から進路の変更を示唆された。実際センター試験も受けたんだけどね。散々だったよ…覚悟も出来てない自分を、叩きのめされた。それからは、自力でその時の為に準備だけはしてたんだ…要逹には、内緒にしてね。模試も何回か受けた…その成績を元に、資料も取り寄せた。それでも俺の中には、まだ迷いがあったんだ…」
「決心させたのは…茜の存在ですか?」
「…」
目の前に置かれたのは、結構な難関校ばかりだった。
「…模試の成績表…見せて頂く訳には…」
少し眉を寄せると、松本さんは棚の引き出しから数枚のプリントを私に渡した。
「…成績、上がって来てますね…」
「正直に言ってもいいよ、ウサギちゃん」
「……正直…少し……厳しいですね…」
「わかってる。でも、このレベルを下げる気はないんだ…それじゃ、意味がない!!」
「…第1志望は?」
「……中央の法科…」
棚に置かれている大学受験案内の分厚い本の頁を捲る。
…やっぱりだ…他の学部に比べ、偏差値も競争率も高い…。
「……第2希望の大学の方が…偏差値は高い様ですが…」
「それは、好みの問題」
「…第3希望はA判定ですが…もし、第3希望だけが合格した場合は…どうされますか?」
「…」
「……済みません、不躾な質問で…」
「いゃ…構わないよ。ウサギちゃんは、俺の先生をして貰うんだから…。その場合は、きっと浪人すると思う」
「そうですか…過去問解いてますか?」
「あぁ…」
松本さんは、何冊かの赤本を取り出して見せてくれた。
「…センター試験を受けるという事は、国公立は?」
「結果次第だね」
「地方への入試は?」
「それは、考えてないんだ」
茜の為に、東京を離れる積りはないという事か…それならば…。
「松本さん、現役の時には受験されましたか?」
「いゃ…鷹山には、スポーツ推薦だったから、受験って程の物じゃなかったんだよ」
「…かなり、強引な方法ですが……試してみますか?」
「頼むよ、ウサギちゃん…あの時は要も居たから見栄を張ったが…正直、藁にも縋る思いなんだ!!」
プライドの高い松本さんが、私の腕を痛い程の力で掴んだ。
私は高校時代に習った受験テクニックを、出来るだけ丁寧に伝え…第1志望の大学にターゲットを絞った勉強勧めた。
その結果が…今日、明らかになる。
「…失礼致します」
そう言って入った学長室の正面のプレジデントデスクから、柔らかな笑みが注がれた。
「おぉ、宇佐美君!さぁ、入りたまえ」
学長はわざわざ立ち上がり、私を迎えてくれた。
「この度は、お骨折り頂き、本当にありがとうございました」
「いやいや…私も教授逹に頼んだ甲斐があった。素晴らしい成績だったね!提出された各課題も、素晴らしいと教授達の間で評判だ…私も鼻が高いよ」
そう言って、応接セットのソファーに座る様に促された。
「…掲示板で、学長室に来る様にとの事でしたので…」
「あぁ…その件ね。実はね、宇佐美君…今回の試験も課題も、少し思惑があって…君には厳しい設定をさせて貰った」
「ぇ?」
「これを見てくれたまえ」
そう言って渡されたのは、カリフォルニアにある大学の紹介パンフレットだった。
「今度、この大学と姉妹校になる提携を結んでね…互いの大学から、交換留学生を派遣する事になったんだ」
学長の視線に、私はブルリと震えた。
「各教授や部活から推薦された学生に、君と同じ様な条件で試験を行ったんだがね…」
苦笑する学長が立ち上がり、デスクに置かれたファイルを手に取った。
「君の高校から提出された資料によると…君は、高校時代にTOEFLを受けているね?」
「それは…」
「宇佐美先生の仕事の関係で、留学する可能性があったからかな?結局先生は、イタリアに行かれたが…120点満点中、115点だったそうだね。素晴らしい成績だ!」
「…」
「カリフォルニアに行って、勉強する気はないかな、宇佐美君?」
「…」
「我校としても、優秀な生徒を送り込みたいんだ」
「…しかし…私は……運動も出来ませんし…」
「君の専門の勉強をしてくれていいんだ」
「…」
「正直、1年生の君を留学させるには、難色を示す教授も多くてね。あちらで実技を学びたい生徒も多い訳だから…だが、折角行っても授業や指導がわからなければ、話しにならない」
「…それは…決定事項ですか?」
「いゃ…そういう訳ではないが…私としては、是非君に承諾して欲しい。勿論、学費や渡航費は大学側が負担させて貰う」
「…期間は?」
「最低でも2年…そのまま、あちらの大学を卒業して貰っても構わない。渡米は、向こうの新学期の9月前になる」
「……少し…考える時間を…頂けますか?」
「勿論、構わないよ…色好い返事を期待しているからね、宇佐美君!!」
「……失礼致します」
退室した学長室の前の廊下で、私が出て来るのを待っていた茜と和賀さんが、私に向かって満面の笑みを浮かべた。
「典子ッ、典子ッ!!浩一、合格したってっ!!」
茜はそう言って、私に抱き付いた。
「ありがとう、典子…貴女のお陰だわっ!!」
「…良かったわね、茜…おめでとう」
「だから言ったろ!?浩一は、俺達の高校でもトップクラスだったんだって!!」
和賀さんのはしゃいだ様な明るい笑い声と、嬉し涙に暮れる茜を見て…私は、何も言えなくなってしまった。
「そういゃ、ノン…学長何だって?」
私は黙って頭を振って…精一杯笑った。




