第53話
兄貴の運転で鷹栖総合病院に向かった俺達は、広いロビーを通り抜け別館に向かった。
物珍しそうに付いて来た兄貴は、精神科の待ち合いベンチで隣に座った俺を突っつく。
「凄い病院だな…お前も入院してたんだろ?」
「あぁ…医者も設備も一流だし、リハビリ施設なんかも充実してる…下手なアスレチックジムより凄かった」
「へぇ…誰かの紹介か?」
「知らねぇのか?姉貴のレディース時代の後輩で、ヘッドの…」
「ゲッ!?『サーペントのお京』の紹介なのか!?」
「あの人、今は新宿署の刑事だぜ?」
「……世も末だな…」
「その幸村さんと、ここの病院の次男坊が、昔の喧嘩仲間だったんだと。典子の担当医は、ここの長男で…弟や幸村さんの怪我の手当てなんかをしてたって話だ」
「…へぇ」
受付から『宇佐美さん』と声が掛けられ、典子は黙って俺と兄貴に会釈すると、カウンセリングルームに入って行った。
「俺が怪我した時は、救急の受け入れ拒否されてるのを聞いた典子が、担当の武蔵先生に直接電話して泣き付いたんだ。この病院の息子だからな…融通してくれたんだと思う」
「へぇ…そりゃ、お優しい」
「どうかな…何か、飄々とした人だけど…怒ると結構おっかねぇし。基本あの人の頭の中には、患者の為って事しかねぇからな…典子の為に受け入れたんだと思う」
「ふぅん…所で、お前逹、上手く行ってるのか?」
「え?」
「チビ助って…いつもあんな感じか?それとも、俺が居るから緊張してるのか?」
「…核兄ぃが、初っ端に暴走したからだろ!?」
「あれから半月以上経ってる…それに俺は、お前達の事を了承したろ?」
「…」
「親公認で同棲してる割には、チビ助がお前に甘えてる所なんか見た事ないしな…」
「…あれでも、以前と比べると凄げぇ進歩してんだ」
「…」
「前は、始終俯いてて…泣くしかしなかったからな…」
「ふぅん」
その後もしばらく2人で雑談していると、カウンセリングルームのドアが開き、典子が『ありがとうございました』とお辞儀をして廊下に出て来た。
「…和賀さん、武蔵先生が…」
「わかった。核兄ぃ、典子の事頼む」
「あぁ」
「わかってると思うが…余計な事言って泣かせんなよ!?」
「わかったから…行って来い。その間、俺はチビ助とデートでもしとくから」
「なっ!?」
「ほら…行けよ」
兄貴に急かされ、俺は渋々カウンセリングルームのドアをノックした。
「いらっしゃい。さっきは、メールありがとう」
「いぇ…何だったんですか、一体!?」
「あぁ…倒れた原因はね、低血糖だよ。それは、彼女も承知してた」
「何で又…」
「そりゃあ、食事摂ってなかったからだよ」
「典子は、ちゃんと食事の準備をして、浩一の…俺の友人で、典子が受験勉強見てやってる奴なんですが、ソイツの食事の面倒も見てるんです!なのに、何で典子だけが食事してないんですか!?」
「…脳がね…嘘を付いてるんだ」
「え?」
「彼女は食事の準備をして、友人に食べさせて…自分も食事をしたと思い込んでる。元々何かに夢中になると、食事を忘れて低血糖起こしてたらしい。去年の受験の時も、そうだったと言っていた。だけど今年は、自分はちゃんと食事してるのに、何故低血糖を起こすのかわからないって言ってね…」
「…」
「君に尋ねられた時、彼女自身にも説明が付かなかったんだ。低血糖だと言えば、何故食事をしないかと君に心配される。だけど本人は、食事したと思い込んでるからね」
「…治るんですか?」
「勿論…だけど、彼女は拒否した」
「何だって!?」
「治す方法は、唯1つ…夢中になっている事を止める事。今の彼女に取っては、受験勉強の家庭教師と自分の進級の為の勉強を止める事だからね」
勉強優先して体調崩してたら、本末転倒じゃねぇのか!?
松本にも事情を話して…進級も…。
「止める様に言っても無駄だよ…彼女の性格、わかってるだろう?」
「…」
「一度引き受けた事を投げ出す娘じゃないし、進級問題に至っては…もっと複雑だ」
「え?」
「父親は事情を理解しているけれど、やはり学費等の面で負担を掛ける。それに、彼女が留年して傷付くのは、彼女自身以上に父親を始めとした周りの人間だろ?一番恐れてるのはそれじゃないかな?事件に関係した全ての人に、自分の事で負担を掛けない為に…何が何でも進級をしなきゃいけないって思ってる」
「…」
「まぁ、対処法は伝えて置いた。表を作ってチェックする、一緒に居る人に聞く…和賀君が管理して上げるのが一番だよ。何にしても、低血糖を侮らない事だ…命に関わるからね」
「…わかりました」
「そう言えば、お兄さんが帰って来たんだって?」
「最初…トラブルがあって…今は俺、典子と一緒に食事してないんです」
「そうなんだ…彼女、その受験する友人の事を気に掛けている様だったから…」
「あぁ…栄養管理してくれって、ソイツの彼女から依頼されてましたからね」
「…もしかして、その友人とお兄さん、何かトラブルあったかい?」
「えぇ…まぁ…」
「成る程ね…孤立させない様に、気を遣ってるよ」
「…」
それは…あるかも知れない。
松本はプライドの高い人間だ…あの時も、兄貴の言葉に逸早く反応していた。
「それで…君の方は、大丈夫なのかな?」
「順調ですよ」
「躰は、その様だね」
「…何か…言ってましたか?」
「気にしてる…傷付けたんじゃないかってね」
「はっ?」
「違うのかい?怖がらせてしまった…傷付けてしまった……そう言って泣いてた。君がフラストレーション溜めるのも、暴走するのも、自分の態度や言葉に至らない点があるからだって…君と話すのを少し怖がってる」
「馬鹿な!?」
「和賀君…あの娘は賢い娘だけど、心が十分に育ってないんだ。普通の19歳の女の子とは…少し違うんだよ」
「…」
「幸せになる事を怯えてるって、前に話したよね?他人を幸せにしたいと常に思って来たけど、自分は蚊帳の外だったんだ。だから、自分の心も躰も…それに、パートナーの反応にも…戸惑ってるんだよ」
「…」
「凄い事を尋ねて来たんだけど…ね」
「何ですか?」
「精神学上における…男性の生殖活動の考察」
「…」
「頭でっかちだよね?」
「…全くです」
「いいじゃないか…一から教え込むなんて、男としては理想的だ」
「面白がってんでしょ、先生?」
「そんな事ないよ。彼女の心や躰がどうしてそうなるのかも…きっと彼女自身よりも、君の方が詳しいと思う。況してや、男性の事は…彼女にとっては未知の領域なんだ」
「…」
「君に言われた事を、医学書で調べたら…君の友人に爆笑されて止められたって言ってたよ?」
「はぁっ?」
「副睾丸に溜まった精子は、体内に吸収される筈なのに…って。何を言ったか想像付くけど…友人も驚いただろうね?」
「…あの、馬鹿娘!?」
「まぁまぁ…彼女、大真面目だから…怒っちゃ駄目だよ?」
「わかってます!」
ムッとする俺に、武蔵先生が少し真剣な眼差しを寄せた。
「不安なのは…もう、治まったのかい?」
「…」
「以前より、少しはましになった?」
「…隣の部屋に居るって、わかってますから…気配も感じるし」
「検査、受けて見る気はないかい?」
「はぁ?」
「検査だよ…PTSDの」
「……俺が…PTSDだって言うんですか!?」
「…思い当たらない?」
「…」
「誰にでも起こり得る事なんだ…程度の差はあるけどね」
「…典子が…何か言ってたんですか?」
「……以前のね…彼女の父親と同じ様な言葉が…君の口から聞かれる様になったって、心配してた」
「そんな事っ!?」
「唯ね…こうも言ってたよ。父親から言われて、あんなに嫌だった言葉が…君の口から言われると、とても嬉しいと思ってしまうのは……自分が、壊れてしまっているからだろうかってね」
「…」
「ズレてるよね?」
「…あの馬鹿…」
「ともあれ、そんな事を君に口走らせるのは自分のせいだって、自分を責めてる」
「…」
「一応、受けて見る気ないかい?」
「…ありませんね」
「そうか…まぁね、君を落ち着かせる方法は、君自身が一番良くわかってるみたいだしね?」
「それが出来なくて、苛ついてるだけです。…俺が…ガキなだけですよ」
「ま、わかってるならいいよ…不安になったら、いつでも相談に乗るから」
「…ありがとうございます」
「その後、警察から何か言って来た?」
「いぇ…先生の方には何か?」
「うん…彼女にね、裁判の…検察側の証人になって欲しいんだそうだ」
「えぇっ!?」
「君は断ったんだろ?」
「えぇ…」
「彼女の父親もイタリアだし、彼女と一緒に誘拐された青年も、証言を拒否してるそうでね」
「それが、典子が家庭教師してる俺の友人ですよ」
「そうなんだ…バレー部の井手さんは、証人に立つらしいけど…検察は、事件の背後関係も明らかにしたいらしくてね…井手さんの証言だけでは、心許ないんだそうだ。それと、現場に居合わせた、彼女の友人が証言すると言っていたよ」
玉置は…やはり証人になったのか。
典子には、知らせない方が良さそうだ。
「…滝川は?」
「被疑者と示談が成立したらしい」
「…」
「一応、彼女に証人は無理だと、絶対に接触しない様にと釘は刺したよ。ちょっと知り合いの弁護士の名前ちらつかせたから…多分、大丈夫だと思うけど。もし何か言って来る様なら、直ぐに連絡して欲しい。腕利きの弁護士を向かわせるから」
「…ありがとうございます」
「絶対に、彼女の中で…再燃させたくないんだよ」
「そうですね…でも、典子は…気にしてる様でした。俺には何も言いませんが…」
「そうか…まぁ、そうだろうね」
そう、武蔵先生は優しく笑った。
弟がカウンセリングルームに入ると、途端に彼女は所在なさ気にモジモジと俯いた。
「…茶でも飲みに行くか、チビ助?」
「…でも」
「ここで待ってても、しょうがないだろ?喫茶室とかないのか?」
そう言うと、彼女はピョコピョコと俺の前を歩き出した。
連れて来られた珈琲ショップの注文カウンターに並ぶと、背の低い彼女の項しか見えない。
要は俺より背が高い…まさか、彼女の項に惚れたとか言うんじゃないだろうな?
「何がいい?」
「いぇ、私は…」
「いいから付き合え。それとも、珈琲飲めないのか?」
「…いぇ」
まぁ…珈琲よりは、アイスクリームって感じだよな…そう思って、珈琲とアイスを注文し、店の奥のカウンター席に腰を掛けた。
彼女は注文された商品を受け取ると、トレーに乗せて運んで来る。
「お待たせしました」
そう言って、少しトレーに溢れた珈琲を紙ナプキンで丁寧に拭く。
…運んで来て遣るべきだったか?
そう思った矢先、隣のスツールに腰掛け様としてよじ登っていた彼女が、バランスを崩してスツール毎倒れそうになった。
慌てて彼女を抱き止めると、スツールが大きな音を立てて倒れる。
「…っ…すっ…済みませんっ!!」
「…」
彼女が元に戻したスツールを押さえてやると、今度は上手くよじ登り、怯えた様に俺に頭を下げる。
そこから訪れる、長い沈黙…。
「…チビ助、俺が嫌いか?」
「…いぇ」
「…」
「帰って来て頂けて…良かったです」
「嘘を付け」
「いぇ…本当に…」
溶け掛けたアイスを突つきながら、彼女は俯いたまま言った。
「松本さんが受験を決めて…和賀さんは、一生懸命に応援していらっしゃいます。でも…」
「でも?」
「高校時代から、ずっと一緒に過ごして来られたんです。松本さんが合格して、別の大学に行かれたら…和賀さんはきっと、凄く寂しくなると思います」
「チビ助が居るだろ?」
「私じゃ…その穴は、埋められません。でも、核さんが…和賀さんが尊敬するお兄さんが帰っていらしたので…安心してます」
サラリとくすぐったくなる様な事を言われ、俺は赤面して外方を向いた。
「ノン!」
弟が手を上げて珈琲ショップに入って来ると、俯いていた彼女が顔を上げ…途端に安心した様な表情を見せた。
「珈琲は?」
「いゃ、俺はいい」
そう言うと、要は彼女を子供の様に抱き上げてスツールから降ろす。
すると彼女は、恥ずかしそうに要を仰ぎ見て口元を緩めた。
成る程…自分だけに親愛を寄せる女…これは弟が夢中になる訳だ!




