第49話
年末30日…既に自分の部屋の大掃除を終えていた私は、和賀家の大掃除を手伝いながら、昼食の用意をしていた。
真子さんは2階の掃除を、和賀さんはマスターや祐三さんと共に、店の大掃除をしている。
和賀さんの部屋で受験勉強をしている松本さんは、今日は時間を切ってテストをすると言っていた。
2階の部屋から大音量で流れるロックに耳を傾けながら昼食の親子丼を作っていた私は、突然背後に近付いた人の気配に思い切り跳ね飛んだ。
「誰だ、お前ッ!?」
いきなり襟首を掴み上げられ息が出来ずにもがく私を、その人は吊り上げたままで罵声を浴びせる。
「空き巣狙いが、人ん家の昼飯迄漁ってるのか!?お前の様な子供が…世も末だなっ!?」
……これは…デジャヴュ…?
…でも……誰…一体……私が何を…。
息が出来ずに意識が朦朧とする私の耳に、部屋の奥から松本さんの声が聞こえた。
「どうかした、ウサギちゃん?」
…早く…早く来て…。
ギシギシと廊下の軋む音に、締め上げている手が大きくしなり、私を床に叩き付けた。
「誰だッ!?」
「え……えっ、核さん?」
私を掴み上げていた男性の足元で、ようやく離された事で嘔吐く様に息をして咽せ込む私に、頭上から再び罵声が飛んだ。
「警察には黙っといてやる!!とっとと失せろっ!!」
涙と吹っ飛ばされた眼鏡の為にボヤけた視界で見上げた先に、長身の男性の擦り上げる銀縁の眼鏡が光る。
「…ちがっ……わ…が…」
「煩いっ!!失せろッ!!」
蹴り飛ばされる私を見て、松本さんが声を荒げた。
「核さんっ、止めて下さいッ!!」
階下の騒ぎに、ようやく2階の真子さんが顔を出し、事態を把握して大声を上げる。
「核ッ!!アンタ、何やったのッ!?松本君、要呼んで来て!」
和賀さんが来てくれる…そう思っただけで涙が溢れ、私は呼吸が上手く出来ずに喘いだ。
「要ッ!!大変だ!!」
店の大掃除に駆り出され壁を拭いていた俺は、血相を変えて裏口から店に飛び込んできた松本に眉を寄せた。
「どうした、浩一?血相変えて…」
「ウサギちゃんが…核さんに…」
「え?」
「いいから、来いッ!!」
手に持った雑巾を奪うと、松本は俺の腕を引いて裏口から引っ張り出した。
松本の後を追って母屋の居間に入った途端、姉貴が俺に叫ぶ。
「要!!典子ちゃん、息がっ!?」
「ノンッ!?」
姉貴に抱かれて喘ぐ典子を床に寝かせ、気道を確保してやりながら呼び掛ける。
「ノン…ノン……慌てなくていい、ゆっくり息しろっ!!」
「…」
「大丈夫だ、俺が来たから……もう、何も心配ねぇから…」
典子は震える手で俺の袖を握る…その手を握ってやると、涙に濡れた顔をクシャクシャにしてべそをかこうとして、又呼吸を乱した。
「よしよし…後で泣かせてやるから…今は、呼吸を整えろ」
典子の様子を心配そうに覗き込んでいた姉貴は、不機嫌に立ち尽くす兄貴に怒りを向けた。
「で!?一体、典子ちゃんに何したの!?っていうか、何でアンタがここに居るの!?」
「ご挨拶だな!?俺は、実家でゆっくり正月を過ごそうと帰って来ただけだ!そしたら見も知らぬ子供が、玄関の鍵が掛かって無い人の家の台所を漁ってたんだ…空き巣だと思って当然だろう!?」
「何言ってんの!?この娘は、アンタの紹介でアパートに入れた娘でしょう!?知らないなんて、言わせないわよ!!」
「はぁ!?俺が紹介したのは女子大生だろ!?」
「そうよ!!この娘が宇佐美典子さん、19歳!!井手さんからの紹介で入居した、ウチの店子よっ!!」
「…」
「で、何したの!?」
「……首…締め上げて、一発蹴り入れた…」
「馬鹿じゃないの!?こんな小さな…しかも女の子に!?…眼鏡迄壊しちゃって…これじゃ、まるで…」
「……最初の時の、要と一緒ですよね?」
「浩一!?」
笑う松本を、俺は睨み付けた。
「俺は、典子に蹴りなんか入れてねぇぞ!?」
「いや…お前、その後アパートに謝罪に行った時も、最悪だったし…」
ハァと溜め息を吐いて、姉貴はこめかみを揉みながら言った。
「核…アンタ、店に行ってお父さんに挨拶がてら、自分のしでかした事キチンと報告しておいで!要…アンタは、典子ちゃん部屋で休ませて……松本君、悪いけど昼食の用意手伝ってくれる?」
「わかりました」
「全く…何でこうも激しやすい粗暴な奴等に育ったのか…やっぱり、育て方間違ったのかしら?」
姉貴の溜め息を聞きながら、俺は典子を抱き上げて部屋に運んだ。
「ごめんな、ノン…痛い所ねぇか?」
ベッドに寝かせてやると、典子はフルフルと頭を振り俺の袖を掴んでキュッと引いた。
珍しい…余程怖かったのだろうか?
「…悪かったな」
そう言って、典子の首や腹を確認した。
「痣になってっけど、本当に大丈夫か、お前…」
喉を横に走る様に出来た痣を撫でながら尋ねると、典子は潤んだ瞳で俺を見上げた。
「怖かったか?」
「……どう…しましょう…」
掠れた声でそう言うと、典子は目尻からポロポロと涙を溢す。
「何が?」
「…和賀さんの…お兄さん…だったんですよね?」
「あぁ…年末帰るなんて、一言も言ってなかったんだがな」
「……私を…ここに紹介して下さった…方ですよね?」
「まぁ…そうなるな」
「それなのに……私……嫌われてしまいました…」
「え?」
「どうしよう…私…」
「ノン?」
「……私……どうしたら…」
そこからは、もう言葉に出来なくなり…典子はしゃくり上げて泣き出した。
「…大丈夫だ…誤解だったんだから」
忘れていた…典子は負の感情に敏感で、それを全て自分の責任だと思い込む。
ベッドに入って典子を抱き込む…思った通りだ…脈が異様に早くて、全身を緊張させて震えていた。
「お前は、何も悪くねぇだろ?寧ろ誤解されて核兄ぃに暴力振るわれたんだから、被害者だ」
「…でもっ…でもっ…」
「でもじゃねぇ!いいから、心配すんな……飯は?昼飯食えるか?」
胸の中で頭を振る典子の背中を、そっと撫でながら俺は言った。
「なら、このまま少し寝ちまえ…。明日は、2人で街迄行こうな…お前の眼鏡作らねぇと…」
「…」
「新宿迄出たら、31日迄開いてる店もあんだろ…後で、ネットで調べとくから…安心して任せとけ」
頷く典子が穏やかな寝息を立てる迄、俺は背中を撫で続けた。
昼食を終えた後、ムッツリとした兄貴はフィッと何も言わずに外出してしまい、帰宅したのは夕食の用意が整う頃だった。
何も言わずに席に着く兄貴に、夕食の準備を手伝っていた典子が、隣に正座して手を付いた。
「ご挨拶が遅くなりました…こちらのアパートをご紹介頂きました、宇佐美典子です…その節は、お世話頂き…ありがとうございました」
「…和賀核だ」
「……先程は…失礼致しました」
「全く…迷惑な話だ」
「核ッ!?アンタ、まだそんな事言って!?」
「だって、そうだろ?あそこで君が一言否定すれば、俺がこんなに家族から非難される事もなかった…違うか?」
「それは、核兄ぃが典子の首締め上げてたからだろ!?どうやって、否定しろってんだ!!」
「…俺は、不審者だと思って追い払おうとしただけだ…非難される覚えはない!」
「…済みません」
「ノン!あんな目にあったお前が、謝る必要なんてねぇぞ!!」
「…でも」
「折角、年末を実家でのんびり過ごそうと帰って来たのに…家族からのこの仕打ち……理不尽だと思わないか?」
「…申し訳…ありません」
典子が床に頭を付ける姿を見て、祐三さんが声を掛けた。
「まぁ、まぁ…折角の料理も冷めるし…そろそろ夕飯にしないかい?」
兄貴は祐三さんを睨み付け、典子はもう一度兄貴に頭を下げると、俺の隣の定位置に座ろうとした。
その時…兄貴は親父に向かってボソリと尋ねた。
「…親父…この家は、いつから下宿屋になったんだ?」
食卓の空気が、一瞬にして凍り付いた。
「…何言ってんの、アンタ…」
姉貴が震える声でそう尋ねるのと同時に、松本が立ち上がって一礼する。
「…失礼します」
「浩一!?」
俺の呼び掛けに片手を上げて制すると、松本は踵を返して部屋を出た。
そして、俺の隣に居た典子も床に頭を伏せて親父逹に一礼すると、立ち上がって部屋を出様とした。
「待てっ、ノンッ!?」
俺は典子の腕を掴み、兄貴を睨み付けた。
「…いい加減にしないか、核」
親父の静かな声が響く。
「さっき、事情は話した筈だ」
「要の嫁になる娘って話か?だが、まだ結婚した訳じゃないだろ?そうだよな、要?」
「…それがどうした!?」
「まだ、親の脛かじってる若造が…何が嫁だ!?笑わせるな!」
「そんな事、核兄ぃに言われなくてもわかってる!!」
典子の腕を握り締めたまま、俺は兄貴に向かって吼えた。
「だがな、一生の内でそう思える女に出会ったのが、学生の内だったってだけの事だろ!?何の支障がある!?況してや、核兄ぃに文句言われる筋合いねぇぞッ!?」
「俺は、聞いてないッ!!」
突然の兄貴の鋭い叫びに、その場の全員がドキリとした。
「俺は…何も聞いてない…」
兄貴の言葉を聞き、姉貴と祐三さんは顔を見合せ俯いた。
「核…その辺りで、八つ当たりは止めなさい」
「…」
「要達の事は、私も典子ちゃんの父上も了承している。それに、典子ちゃんの事は責任を持って預かると、彼女の父上と約束して面倒を見ている」
「…」
「松本君も要の大切な友人だ…この家で誰と食卓を囲もうが、お前がとやかく言う筋合いではない」
「…実の息子より、他人を優先するっていうのか?」
「そういう話ではない…お前だってわかっている筈だ」
「俺は…自分の家の中で迄、他人に気をつかいたくない!!」
「…」
「他人に、土足で家の中を荒らされたくないだけだ!!」
兄貴の絞り出す様な声を聞いた途端、典子は俺の腕を振り解き、小さいがハッキリとした声で叫んだ。
「…申し訳ありません!」
そして、踵を返してピョンピョンと部屋を走り出た。
「待てっ!ノンッ!?」
追い掛ける俺に、渡り廊下に居た松本がやんわりと声を掛けた。
「いいから…要、お前は食卓に戻れ」
「…浩一」
「ウサギちゃん、俺と食事に行こうか?」
驚く典子に、浩一が笑い掛ける。
「食材も買いに行こう…大丈夫、眼鏡無くても俺がちゃんとエスコートするよ。それに、商店街の中だから安心だしね?」
典子は俺達の顔を見比べてコクンと頷き、部屋の中に入った。
「…浩一」
「安心しろ、ウサギちゃんは預かるから。飯食って、スーパーに行くだけだ」
「…わかった」
「核さんと、ちゃんと話し合え…ウサギちゃんの為にも、それが一番いいんだからな?」
「あぁ…」
苦笑する親友は、俺の背中を叩いて笑った。
「気にする事ないよ」
目の前でハンバーガーにかぶり付きながら、松本さんが言った。
「要と似てる部分も多いんだけどね…元々、少し皮肉屋なんだよ」
「はぁ…」
「お母さんが亡くなった時、要はまだ5歳だったけど…核さんは中学生だったらしい」
「…」
「まだまだ親に甘えたい反抗期をすっ飛ばして、無理矢理大人にならなくちゃいけなかったんだ。まぁ…要にしても、甘やかせては貰えなかったんだけどね」
「…」
「和賀家の子供逹は、皆少しずつ無理をして突っ張って…皆、少しずつ寂しいんだ。最近、そう思う様になった」
「…そうなんですか?」
「あぁ…君達がまだ付き合う前にね…要が、ウサギちゃんを見ていると、お母さんの亡くなった頃を思い出すって言ったんだ」
「え?」
「小学校の飼育小屋のね…小さな兎に、要は母親の亡くなった悲しみを癒されたんだ…きっとね」
「…」
「真子さんは、祐三さんに癒されたんだろうね…だから、少し頼りないあの人と結婚したんだと思うよ」
「…和賀さんのお兄さんは…まだ、癒されてないという事でしょうか?」
「どうだろうね?まぁ、社会人には色々ストレスもあるんだろうからなぁ」
「…」
「でも一番のストレスは、彼の腰にあるんだ。俺と同じでね…爆弾持ちなんだよ」
「そうらしいですね」
「核さんが帰って来る一番の理由は、要に腰のマッサージをして欲しいからなんだ。きっと…かなり辛いんじゃないかな?」
「…」
「それより、君自身の事を考えるべきだ」
「私のですか?」
「姫から聞いた…進級の為に力を尽くすべきだよ。要や皆の為…勿論君の為にね!」
真剣な松本さんの眼差しに、私は頷くしかなかった。




