第47話
気が付くと、暗い部屋に寝ていた。
寝心地のいい広いベッド、腕に抱いた典子の……。
そこ迄考えて飛び起きた…腕の中に、典子が居ない…。
「…ノン」
闇の中に呼び掛けても、返事は返って来ない。
俺は…一体何をした?
病院で無理矢理抱こうとして、あんなに怒らせてしまった典子を…泣いて拒む彼女の服を剥ぎ取って…。
華奢な躰に無数の傷と鬱血痕…若い女性である典子が俺に見せたくないと思うのは、当然の事じゃねぇか!?
なのに…俺は…何とち狂って…。
「ノン!ノンッ!?」
不安になって、何度も典子の名を呼んだ。
決して俺に好きだと言わない典子が……俺の事を…『嫌い』と言った。
まさか…俺の手を離れて…。
慌てて寝室を飛び出し、典子の名を呼びながらリビング、風呂場、トイレを確認する。
リビングから見える渡り廊下の向こうの俺の部屋も、明かりが落とされ暗いままだ。
まさか…いゃ…典子が、俺を置いて…俺に愛想が尽きて、出て行くなんて…!?
あり得ない……だが…。
「ノォーーンッ!!典子ぉーッ!?」
渡り廊下を走り、母屋に走り込んで咆哮を上げると、台所の方でカシャンと微かな音がした。
勢い込んで居間に通じる襖を開けると、台所で驚いた顔をした典子が、左手の指を口にくわえ…包丁を持って振り向いた。
「はぁ…はぁ…」
自分の鼓動と息遣いが、こんなに煩いと思った事は無い。
俺は…台所に立つ典子の前に突進すると、包丁を持った右手を捻り上げた。
「…ッ!?」
「何してるッ!?」
「…」
「何してんだ、ノンッ!?」
カシャンとシンク中に包丁が落ち…典子の不安そうな瞳が、俺を見上げた。
彼女の左手が口元から離され、唇に付いた血を見た途端…俺は噛み付く様に典子の唇を奪った。
少し鉄臭い血の匂いは…直ぐに典子の甘い唾液と混じり合う。
「ノンッ…ノンッ…」
ズルズルと抱き合ったまま床に座り込み、俺は典子を強く抱き締めた。
「…どうしました、和賀さん?」
「どこに行ったか、心配しただろうがっ!!」
「……済みません」
「どこにも行くなッ!!」
「…」
「俺の腕から居なくなるなッ!!」
「…行きませんよ、どこにも」
典子左手が、そっと俺の頬に触れると、プンと鉄臭い血の匂いが漂った。
「…切れてるじゃねえか!?」
まだ血の溢れる典子の人差し指を、俺は口に含んだ。
「何してた…包丁なんか持ち出して!?」
「…サンドイッチ…」
「…」
「…サンドイッチ、作ってました」
「…」
「そしたら、和賀さんの凄い声がして…ビックリして…切ってしまって…」
典子は、尚も不安気に俺を見上げる。
「どうしました?本当に…」
俺は典子の視線から逃げる様に、彼女の頭を抱き込んだ。
「…心配させるな」
「……はい」
「…不安に…させないでくれ…」
「…はい」
「……さっきは…悪かった」
典子の両腕がスルスルと俺の首に絡まり、彼女自身の意思で俺に抱き付く。
「サンドイッチ、食べますか?」
「あぁ…」
俺達は、言葉少なに食事を摂った。
そして風呂に入り、当然の様に床を共にした。
ベッドに入った典子に手を伸ばすと、彼女は抵抗する事なく俺の腕に収まる。
典子の温もりに触れて尚、あの沸き上がる様な恐怖に苛まれ、典子の躰を絡める様に抱き込むと、腕の中から小さな声がした。
「…私のせい…ですか?」
「え?」
「私が…嫌って泣いたから……だから…」
「違う」
「…」
「違うから」
「…どうすればいいですか?」
「…」
「私に出来る事……又、何もないですか?」
「又って、何だ?」
「…笑って、甘える…幼い私の方が…和賀さんを癒せるんじゃ…」
「馬鹿か、お前…」
「…」
「言っただろうが……そのままのお前じゃねぇと、愛せねぇって…」
「…」
「お前は…俺の腕の中に居てくれたらいい」
「…」
「…それ以上…望まねぇ……生きて…俺の腕から逃げずに…」
ブルリと震えるのを悟られ、典子は俺の背中にオズオズと手を伸ばして抱き付いた。
「ここに居ます…和賀さんが…許してくれる内は…ずっと…」
「お前は…まだ、そんな事言って…。やっぱ、婚約しよう…ノン!」
「…そうしたら、和賀さんは不安じゃなくなりますか?」
「…え?」
ちょっと待て…違う…俺じゃない……俺は、典子の不安を解消する為に…。
「…和賀さん?」
「……ちょっと待て…混乱してる…」
「…」
「俺が…不安なのは…お前が俺から離れる事だ、ノン。暴走して、自己嫌悪起こして…自覚しちまった」
「…」
「お前が、意識なくそうが、退行起こそうが…絶対に起こしてやるし、戻してやる!逃げ出そうとしても、取っ捕まえて腕の中に縛り付けてやる!!」
「…」
「だがな……心臓が止まっちまったら…死んじまったら……お前が、俺の手の届かねぇ所に行っちまったら……そう思うと、怖くて仕方なくなった…」
震える自分の手を見詰めながら話すと、典子は俺の手をそっと掴んで、自分の頬に押し当てた。
「…私は…幸せ者です」
「お前の不安って、何なんだ…ノン?」
「…」
「前に聞いた時は、全てって言った」
「…そうですね」
「具体的に…何なんだ?」
「…昼間に…禎子さんの言った事は…事実です。彼女は知らなかったけれど、私には精神的な障害もある…。世間一般に、その様なパートナーを選ぶデメリットは…相手にも、その周囲の人達にも…計り知れないリスクを負わせる事になります」
「…待て…俺は…」
「だから私は、誰にも迷惑を掛けずに1人で生きて行く力を付ける為に、大学進学を決めました。そこで…貴方に出会った。最初に店でご挨拶した時は…和賀さん、目も合わせて下さらなかったんですよ?覚えていらっしゃらないでしょう?」
「…そうなのか?…全然、覚えてねぇ…」
「バレーをしていたのは、お兄さんだと窺っていました。でも、弟である和賀さんもバレーをしていると聞いて…研究室の帰りに、時々練習を覗いてたんです」
「…」
「最初は、跳び上がる貴方の姿に見惚れていました。まるで…背中に翼が生えている様で…」
「じゃあ、あの時も…お前やっぱり覗いて…」
「いぇ、あの時は…研究室で襲われそうになって…眼鏡を落とされたんです。それを探していたら、貴方に掴み上げられて…和賀さん、凄く怒ってましたし…私も度々覗いてましたから、何も言えなくて…」
「…」
「マネージャーになる事になって…自分の…和賀さんへの気持ちを自覚した時には、貴方にキスをされてました。それでも、これ以上近付いてはいけないと…余計に迷惑を掛けたくなくて…貴方から逃げ出そうとして…。そう考えた直後に、和賀さんからの告白を受けて…」
「ちょっ、ちょっと待て!お前…俺の事…好きだったんだよな!?」
「…えぇ」
「……ちゃんと自覚したのって…いつだ?」
「…」
「俺の事を、好きだって思ったのって…」
「恋愛的な意味で…ですか?」
「あぁ…」
「……神社で…負ぶって頂いた時に…」
俺は堪らず起き上がり、頭を抱えた。
…何だって!?
…神社で負ぶった時って言ったら……俺の方が、先に惚れてたって事じゃねぇか!?
それを勘違いして、典子が俺に惚れてると思い込んで…暴走して…。
電気が消えていて幸いだ…こんな顔、絶対に見られたくねぇ!!
「…和賀さん?」
「……何でもねぇ…」
「…」
「嫌、違う……何でも良くねぇ!!じゃあ、何でお前…俺が言った事に否定しなかった!?」
「え?」
「俺はずっと言ってたよな?『お前、俺の事好きなんだよな?』って…」
「…ですね」
「じゃあ、何で…」
「安心出来たんです。…和賀さんの接し方は、私が幼い頃の…一番好きだった頃の父の接し方と良く似てました。優しい言葉も、甘やかす事もなかったけれど…真っ直ぐに愛情を掛けてくれていた父の姿と…重ねていたのかもしれません」
「…何だかんだ言って、ファザコンだもんな…お前…」
「……済みません」
「謝るな……親父さんに…嫉妬してるだけだ…」
「…」
「まだ、不安なのか?」
「…」
「何がだ?」
「……和賀さんからの愛情に…どう応えていいのか……私は、貴方に何をして上げる事が出来るのか……貴方を…縛り付けて、依存してしまっているのではないか……数え上げれば、切りがありません…」
「…馬鹿娘が…」
「それでも、1つだけ…信じる事が出来る様になりました。それが、いつまでも続くだなんて痴がましい事は考えませんが……今、現在…和賀さんが示してくれる愛情だけは…私だけを見てくれていると…信じる事が出来る様になりました」
月明かりの差し込む薄暗い部屋の中で、寄り添う互いの姿だけがぼんやりと見える状態で…俺達はベッドの上に座って、互いを見詰め合っていた。
「…マジで…婚約しねぇか?」
「…」
「…お前を縛りたいんだ。お前が俺に惚れてるが為に、変な風に考えて…どっか行っちまうんじゃねぇか……暴走する俺に、愛想尽かすんじゃねぇか…不安なんだ…結局、俺がっ!!」
「…婚約したら…不安じゃなくなりますか?」
「…あぁ」
「…」
「駄目か?」
「……もう少し…待って貰えませんか?」
「…」
「…私は…もう少し…強くならなければいけないと思うんです」
「…」
「父の言った様に…自分を…好きになって……自信を付けないと…和賀さんを、又傷付けてしまうと思うんです。だから…もう少し、時間を下さい」
「…わかった」
そう言って、俺は溜め息を吐いた。
「お前は、ホント…真面目だな…」
そう言って頭に手を置くと、典子は俯いて又謝った。
「そろそろ、その丁寧な口調も…崩していいんじゃねぇか?」
「…」
「俺への呼び方も…いつまでも名字ってのも…他人行儀だろ?」
「…」
そう言って、答えに窮する典子をジリジリと壁に追い詰めると、蕩かす様に甘い口付けを与えてやる。
典子はキスに弱い…躰を重ねても快楽を受け入れ様としない典子を唯一蕩けさせるのが、甘い口付けだった。
時間を掛けて、典子の舌がトロンとなる迄舌を絡めると、耳元で甘く囁いてやる。
「…せめて…『好き』って言えよ…」
「…」
「…なぁ……言えって…」
典子の一番拘っていた言葉だ…言えない事位、承知している。
トロトロに蕩けそうな典子を横たえて、耳朶をくわえて甘噛みし耳殻を舐めて煽ってやると、切なそうな息遣いで耐える典子の口から、途切れる息と共に微かに漏れる声…。
「……き……」
「…えっ?」
「…」
「言えよ…ノン…何て言った?」
「……しゅ…きっ…」
蕩けて痺れる舌が、ヒクヒクと典子の口の中で蠢き…煽る俺の愛撫に、典子は『はぁぁ…』と熱い吐息を漏らした。
正直、その後の事は…余り覚えていない…。
唯…典子は俺の腕の中で、何度も『好き』と連呼し…そして、何度も腕の中で身を仰け反らせて痙攣した。
俺も今迄に味わった事の無い様な快感を味わい、典子と共に何度も果てた。
怯えそうになる典子に何度も甘い口付けを与え、甘い言葉で煽ってやる…すると典子は、素直に快楽の波に身を委ねる事が出来る様になった。
それにしても、自分の漏らす喘ぎ声に迄恥じ入る典子は初々しく…征服欲を刺激する。
最後は、べそをかいた典子を抱えて風呂場に運び、撫で甘やかしながらシャワーを浴びた。
「…お前、最高…」
「……私…死んじゃいそうです…」
「死ぬなって言ったろ?」
「……怖いです…」
「何が?」
「…どこかに…飛んで行きそうで…頭の中、真っ白で……もう、何が何だか…」
そう言って、典子は俺の胸で咽び泣く。
だから、煽るなって…又、抱きたくなっちまう。
「それって、善かったって事だろ?」
「怖かったです!」
「俺が与えてやってるんだぞ?善いに決まってんじゃねぇか!?」
そう言い放つと、典子は少し目を剥いて…頬を染めて視線を外した。
「……躰が…持ちません」
「時々しか、させてくれねぇからな、お前…」
「…」
「毎日だったら…1回1回は、そんなにハードにならねぇと思うがな…」
「毎日ですか!?」
「何だよ?」
「……だって…」
「お前…俺の事、幾つだと思ってる!?」
「…」
「養護教諭目指してんなら、男の生理現象も、当然わかってんだろ?」
「え?」
「…わかってねぇのか?」
「…」
「…参ったな…そういえば、箱入り娘だったな、お前…」
「…勉強して置きます」
俺の胸から、少し困った様な大きな瞳で見上げる典子の濡れた唇に吸い寄せられ…俺は、再び彼女を組敷いた。




