第46話
渡り廊下に響く禎子の声と、擦れ違い様の姫の視線、そして要の部屋に入った途端目にした妹の撓垂れ掛かる姿に、俺は全てを理解した。
「お兄ちゃん!」
俺の姿を見て嬉しそうに声を上げる妹の腕を掴んで立ち上がらせると、スパンと頬を張ってやる。
「何すんのっ!?」
「浩一!?」
いきなりの俺の行動に驚いた2人が声を上げる中、俺は禎子の胸を締め上げた。
「…お前は…何様の積もりだ、禎子ッ!?」
「何よ!?」
「何の権利があって、人を傷付け貶める!?」
俺が何に対して怒っているか理解した要は、何も言わずに事態を見守った。
「何なのよ、一体!?あの、宇佐美って人の事?お兄ちゃんの彼女じゃないんだから、関係ないでしょ!?それに、正直に思った事を口にしただけよ!!」
「要に聞いてないのか!?彼女は、要の恋人だぞ!!」
禎子の気持ちは、わかっている…妹は小学生の頃から、要に憧れているのだ。
「聞いたわよ!!でも、ちっとも和賀さんに釣り合ってない!!お似合いじゃない!!」
「お前がどう思おうと勝手だが、それと人を傷付けていい事とは別問題だ!!お前…彼女に聞こえる様に、わざと声を張り上げていただろう!?」
「知らないわ、そんな事…」
末っ子という事もあり、両親から甘やかされて育った禎子は、自分のする事は全て許されると思っている節があるのだ。
「お前の言葉で傷付いているのは、ウサギちゃんだけじゃない…要だって、姫だって…深く傷付けてるんだぞ!?」
「…それ位で止めとけ、浩一」
「…要」
「典子達が戻って来る…その前に、その手を離せ」
「…」
「…お前のそんな姿を見て傷付くのは、玉置と典子だ……違うか?」
俺は仕方なく禎子から手を離し、要から離れた場所に膨れる妹を座らせた。
「…デコ」
「…」
「典子はな…俺の嫁さんになる女だ」
「えっ!?」
「浩一の彼女の玉置は、典子の親友なんだ。2人と仲良くしてくれると、俺も嬉しい」
「……考えとくわ」
「デコは、いい子だな」
「いつまでも、子供扱いしないでっ!」
「ガキじゃねぇか、デコッパチ!」
そう妹の額を弾いて笑う要に、禎子は紅くなって反論する。
「来年は16になるのよっ!?もう、子供じゃないわ!!」
「やっぱり、ガキじゃねぇか」
要は、禎子の気持ちなんて気付いてもいない…案外、妹は…俺の進路の事はこじ付けで、要に会いに来たのかもしれないと思った。
部屋に響く要の明るい笑い声に、新しい紅茶を淹れて来た姫は、目を見開いて要の部屋に入って来た。
ウサギちゃんは、いつもの様に表情を変えず…それでも、自分がどこに座るべきかを逡巡している様に見えた。
「…ノン」
要に、隣に座る様にという視線と共に呼ばれると、彼女は黙って従い…姫は、彼女と禎子の間に席を取った。
「姫…妹の禎子だ。禎子、こちらが玉置茜さんだ。キチンと挨拶しなさい」
「…松本禎子です」
「宜しく、玉置茜よ」
姫が艶然と挑発的な笑みを讃えると、流石の禎子も息を呑んだ。
役者が違い過ぎるのだ…無理はない。
「で、お前は何をしに来たんだ?」
「私は…お母さん達に頼まれて、お兄ちゃんの彼女を見定めて…お兄ちゃんを連れ帰る為に来たのよ!!」
「嘘を付け!さっき、母さんに電話した…お前、俺を連れ帰ると言い捨てて、勝手に飛び出して来たそうだな!?」
「…だって…」
「俺の進路の話は、父さんにも報告して了承を得ている。お前がとやかく言う話じゃない!」
「お母さんは、お兄ちゃんがオーストラリアに来てくれるの待ってるわ!?大学受け直すなら、何も日本じゃなくても良いじゃない!お父さんだって…本当は、家族で暮らしたいって思ってるわ…」
「禎子、いつまでも一緒になんて居られない…俺は大学を出ても、オーストラリアに行く積もりはないよ」
「このまま、バラバラなんて…私は嫌よ!!」
「バラバラじゃない。離れていても、家族だろ?子供は、いつかは旅立つんだ…姉さんだって、俺だって、いずれはお前だってあの家を旅立つ。それが、少し早くなっただけだよ」
「…」
「俺の進路は、俺が決める。大学も就職も、誰と付き合って結婚するのかも…父さん達にも何も言わせない」
「…」
「お前はオーストラリアに帰れ、禎子。俺はこれから3月迄、試験一色になるんだ。お前に構っている時間はないんだよ。それに、姉さんの家に居座るのも…義兄さんに申し訳ないからね」
俯いてしまった禎子に助け船を出したのは、なんと姫だった。
「だったら、ウチに来る?」
「…ぇ?」
「私も、しばらく浩一に構って貰えないし…禎子ちゃんも、しばらく日本でのんびりしたいんでしょ?」
「いゃ…姫、それは…」
「だって、禎子ちゃんの来日の目的のひとつは、私の偵察な訳でしょ?だったら、丁度いいじゃない」
「…いいの?」
「構わないわよ?部屋も余ってるし、私を見て貰う丁度いい機会だわ」
「あのね、姫…」
「煩いわよ、浩一!これから先は、女同士の話し合いだわ。ずっとっていうのが問題あるなら、お姉さんの家と往復すればいいわ。禎子ちゃんだって、こっちの友人とも会いたいんじゃない?行きたい所だってあるでしょうし…」
「そうなの!友達とも約束してて…」
「禎子!」
「だぁって…」
半泣きになった禎子に、姫はズイッと顔を近付けた。
「その代わり、幾つか約束して欲しいの」
「…何?」
「まず1つ目は、浩一の勉強の邪魔をしない事」
「…わかったわ」
「2つ目は、さっきの発言…典子に謝りなさい!」
「…え?」
姫の発言に、俯いていたウサギちゃんが驚いた様に口を挟んだ。
「…茜…それは、もう…」
「駄目よ、典子!!幾ら幼くて悪意がなかったにしても…アレは言い過ぎよ!それに…ここで許してしまっては、禎子ちゃんの為にならないわ!」
毅然とした態度で言い放つ姫に、禎子はキラキラと羨望の眼差しを寄せた。
「わかったわ。…宇佐美さん、それと和賀さんも…ごめんなさい。私、言い過ぎたわ」
「あぁ」
そう答えて笑う要に、ウサギちゃんはほんのりと頬を染めて頷いた。
「それと、もう1つ…」
素直に従う禎子に目を細め、姫は口元を引き上げて言った。
「今日と元旦だけは、私達の邪魔をしないでくれるかしら?これから受験で忙しくなる浩一と過ごす、貴重な恋人達の時間なのよ…」
「ごっ、ごめんなさい!!」
「その代わり、明日は私がパーティーに招待して上げるわ。だから今日は…大人しくお姉さんの家にお帰りなさい!今、直ぐにっ!!」
やっぱり俺の恋人は、強くて美しい…。
松本と玉置、そして松本の妹のデコが外に出て行くと、俺達は溜め息を吐いて典子の部屋に飲み終えたカップを運んだ。
「しっかし…見事な位、模様替えされてんなぁ…」
真っ白で簡素だった典子の部屋は、落ち着いたダークブラウンのシンプルな家具と、若草色の敷物、カーテン等でコーディネートされ、様変わりしていた。
テレビやブルーレイレコーダー、エアコンも完備されている。
隣の寝室には、部屋一杯になる程の大きなベッドとエアコンが設置されていた。
「…私…一瞬、違う人が引っ越して来られたのだと思って…」
「それで、不安になったのか?」
「…」
「これ…親父さんが?」
「…その様です。さっき、手紙を見付けました」
典子の視線の先にある手紙に目を走らせながら、俺は為て遣られたと思った。
病院のカウンセリングルームでの話し合いは、一体何だったって言うんだ!?
典子の父親は、端から娘をここで生活させる積もりだったんじゃねぇか…。
「…和賀さん?どうしました?」
洗い物を終えた典子が、俺の考え込む姿に首を傾げた。
「いゃ…お前、疲れてねぇか?」
「そうですね…少し…」
典子を寝室に連れて行くと、広いベッドに押し込んで、自分も一緒に横になる。
「…いいな、このベッド…スプリングもマットも、躰に丁度いい」
っていうか、どう考えても小柄な典子1人用にしては、デカ過ぎるだろう…やっぱり、俺が一緒に寝るのを想定して買ったんだよな…。
典子も同じ様な事を考えていたのだろう…背を向けて寝転ぶ耳が赤い。
腕枕をして、後ろから抱き込んでやる……あぁ…何日振りだろう…この感触…。
「お前…大丈夫か?」
「何がです?」
「さっきの…デコが、結構酷い事言ってたろ?」
典子は背を向けたまま、『あぁ…』と言い、クスリと笑った。
「平気ですよ…あの程度の事……言われ慣れてます」
「…それと、傷付くのは…別問題だろ?」
「…」
俺の腕の中で寝返りを打つと、典子は俺の胸に額を当てた。
「ノン…」
呼ばれた典子が見上げるのを待ち、その額にキスをして…唇を離さずに問い掛ける。
「…まだ、怒ってるか?」
「え?」
「病院で…ずっと、怒ってたろ?」
「…」
「…済まなかった」
「……もういいです。場所を…弁えて欲しかっただけ…」
「ノン…」
額から瞼…頬と唇を下ろし、典子の唇を食む様に何度も口付け、徐々に深く舌を絡める。
やがてトロンとした典子の首筋にキスをして、着ている物を脱がせ様とすると、典子が俺の手を掴んで首を振った。
「…ノン?」
「……駄目です」
「何で?」
「…和賀さんの躰が…まだ…」
「大丈夫って言ったろ?」
「…」
「お前の躰の傷…」
「そっちは…もう、平気ですけど……でも…」
「お前…俺がどんだけ我慢してるか…」
「……ごめんなさい」
俺の言葉に怯えた瞳を揺らす典子を見て、流石に苛ついた俺は、強引に典子の服を剥ぎ取ろうとした。
「嫌っ、嫌です!」
「何で!?ここは、プライベートな空間だろうがッ!?」
「嫌です!見られたく無い!!」
自分の躰を抱き込んでうつ伏せに拒む典子に、俺は覆い被さる。
「何を今更…」
「嫌です!…茜や…禎子さんの様な…綺麗な躰じゃ無い…」
「…ノン!?」
「……又…切り刻まれて…傷だらけになって……汚くて…」
「そんな事、気にするとでも思ってんのか!?」
「…嫌です…」
「全部、曝け出せ!!」
剥ぎ取る俺の手を拒みながら、典子は涙を浮かべて抵抗した。
…わかってる…こんな遣り方は、間違っている……だが、もう限界なんだ…。
「嫌です、和賀さんっ!止めて……せめて、痣が消える迄…」
「煩せぇっ!!」
最後の抵抗を見せる典子のスリップを剥ぎ取ると、
「嫌だぁ!」
と言って、典子は泣き出した。
白い肌に刻まれた生々しい傷痕…背中に残された新たな傷がナイフで刺された物よりずっと大きいのは、内臓を損傷した事による処置の為と聞いた。
そして右上腕に斜めに走る、大きな創傷。
だが、それより衝撃的だったのは……右の乳房の上と、左乳房の横に出来た…幾つもの大きな四角い鬱血痕。
思わず指先で辿ると、抵抗する事を諦めた典子が俺の躰の下でべそをかいた。
「…ふえぇぇん」
そのまま典子の胸に顔を埋め、俺は思い切り華奢な躰を抱き締めた。
「…お前……本当に…死に掛けたんだな…」
…そう…四角い鬱血痕……それは、心臓マッサージに使われる、除細動器の跡だ。
『…出血も酷かったし、手術中も何度か心停止起こしたらしい』
そう、病院で武蔵先生も言っていたではないか!?
だが、頭で理解するのと、目にして感じるのとでは、その破壊力に雲泥の差があるのだ。
そう…初めて典子のテーピングされた左足を見た時と同じ…。
顔を埋めた胸から、啜り泣く典子の声と共に、『トクン、トクン』という規則正しい音が聞こえる。
典子が…居なくなっていたかもしれない……こうやって抱く事も、キスをして触れる事も…言葉を交わす事さえ出来なかったのかもしれない…。
躰の障害も、心の障害も…時間を掛けてケアして付き合えばいい!
退行起こして子供返りしたって、抱き締めて戻してやれる。
寝た切りになっても、武蔵先生の弟の様に11年だって、15年だって抱き込んで待ってやる!
躰の傷だと?
そんなもん、気にする訳ねぇだろ!?
唯々…お前が、生きてさえ…いてくれたら…。
「……和賀さん……嫌い…」
しゃくり上げる典子が、小さな声でむずかる…。
「嫌うなっ!!」
「…」
「……嫌わないで…くれ…」
「…」
「…どこにも行くな…」
「ぇ?」
「俺から…離れるなッ!!」
「…和賀さん?」
躰の奥底から沸き上がる恐怖に、俺は震えを止める事が出来ず、典子の小さな躰を抱き締め、呻き声を上げた。
そんな俺を、典子は何も言わずに頭を抱き込み、静かに髪を撫でた。




