第44話
「…ノン?」
「…」
「……おーぃ、典子さん?」
「…」
参ったな…あれから何を言っても、典子は俺に返事を返さない。
頑固だとは承知してたが…正直、ここ迄だとは思っても見なかった。
全く…今日はようやく2人で退院出来るってのに…然も、クリスマス・イブだぞ!?
「なぁ…機嫌直せよ、ノン」
「…」
典子は無言で身の回りの荷物を片付け、鞄に詰める…自分の荷物ばかりでなく、俺の荷物も鞄に詰めてくれる優しさはあるのだが…固い表情で俯き、目を合わせ様としない…。
玉置や姉貴の様に、怒りを前面に押し出して来る怒り方の方が、煩いがずっとマシだ。
苦手なんだよ、沈黙して怒りを内側で燃やされるのは……そぅ、この怒り方…俺の親父にそっくりだ!!
「今日な…帰ったら、店で退院祝いとクリスマスパーティー、一緒にするらしいぞ?夜は、ディナーの予約が殺到してるからな…昼にバレー部の有志も集まって騒ぐらしい…」
キュッという音を立てボストンバックのファスナーを閉じると、典子は腕時計で時間を確認して言った。
「…約束の時間ですので…」
「待てよ、俺も行くから…お前の親父さんにも、話さなきゃなんねぇしな」
「…」
無言で自分の荷物を持つ彼女の肩を、思わず後ろから掴んだ。
「…ッ!?」
息を呑む典子が横に飛び退き…バランスを崩して床に座り込む。
「…ぁ…悪ぃ……荷物、持つから…」
「…いぇ…結構です」
一息吐いて強がると、典子は自分の荷物を持って立ち上がり、病室を出て別館に向かった。
「いらっしゃい。時間ぴったりだね?珈琲飲むかい?」
カウンセリングルームの応接セットで、武蔵先生は典子の父親と談笑していた。
「ありがとうございます」
ソファーに並んで座ると、武蔵先生は俺達の前に珈琲カップを置き、ドライケーキの入った缶を典子に薦めた。
「典子、今後の生活の事だが…お前は、どうしたいと思っている?」
穏やかに語る典子の父親の声に、彼女以上に俺は緊張していた。
典子と気まずい状態の今…もしも彼女が、イタリアに帰国する父親に同行すると言ってしまえば、誰が止める事が出来るだろう!?
「待って下さい、宇佐美先生っ!!その話は、先日…」
「和賀君、宇佐美さんの意見を聞いてからでも、いいんじゃないかな?」
「…お父さんは…どうお考えですか?」
彼女の言葉に、典子の父親は悲しそうな笑みを漏らした。
「典子…実は、イタリアの宿舎なんだが…お前が住むには、少し条件が過酷でね。街とは少し離れた丘の上に建っていて、買い物が出来る場所迄は、皆自家用車を使う。歩く道がない訳ではないが…ずっと階段が続く坂道だ。それに私自身も、殆ど選手の住む合宿所に泊まり込む事が多く…週末に宿舎に帰る事も稀だ。もし、イタリアに移住する事になれば…典子には、医療施設で生活して貰う事になるだろう。その方が、典子の躰の為にも安心だからね」
「…そうですか」
「同様に、国内に残った場合だが…」
「宇佐美先生!?」
「…大丈夫だよ、和賀君……典子は、もう私の言葉には囚われない。ちゃんと、自分で考える事が出来る…そうだね、典子?」
「…はい」
「国内に残った場合も、私はお前を医療施設に預けようかと考えていた。帰国した時、お前は退行を起こしていたから…和賀君のお宅に、いつまでも甘える訳には行かないと思っていたのだ。今は調子が良くなったが…医療施設だと、いつ倒れたり具合が悪くなったりしても、すぐに対応して貰える。和賀家の方々に迷惑を掛ける事もないし、私自身も安心だ。因みに、施設は長野の自然に囲まれた環境の中で、病院と生活棟があり、皆で共同生活をするんだそうだ。部屋は個室で、プライベートも確立出来るらしい…これが、2つ目の選択肢だ」
「…はい」
「もう1つは、駒沢の家に下宿させて貰うという選択肢だ。住み慣れた家だが、伯母さんの家族と同居になる。お前にとっては気疲れする生活だが、何かあった時に頼りにはなる」
「…」
「私が用意した選択肢は、この3つだ。先日和賀君が、もう1つの案を提供してくれた。今迄通り、アパートでの生活を続ける案だ。和賀君の父上とも話をさせて頂いた。典子の事は娘同然だから、今迄通り預かると…アパートと母屋で面倒を見ると言って下さった…ありがたい事だ」
「…そうですね」
「お前は、どうしたい…典子?お前の生活する場所だ…お前の好きな場所に決めていい」
「……私…は…」
「連れて帰ります!!」
膝の上で小刻みに震え、白くなる迄固く握った典子の拳を握り込むと、俺は会話に割って入った。
「宇佐美先生、申し訳ありませんが…貴方は、やっぱり典子の事をわかってねぇ!」
「…」
「その選択で、典子の選ぶ答えはわかってます!!如何に人の迷惑にならずに済むか…自分の希望なんて、そっち退けの選択しかしないんですよ、コイツはっ!!」
「和賀君…」
「先生、アンタも言ってたよな?典子に施設は向かねぇって…」
「そうだね」
「なら、反対しろよっ!?」
「辛い立場なんだけどな、僕も…」
ニヤニヤと笑う武蔵先生を睨み、俺は典子の父親に向き直った。
「親戚の家族と同居なんて、絶対にあり得ねぇ!ウチに連れ帰って、今迄通り大学に通わせます!!いいな、ノンッ!?」
「…でも…」
「お前の目標はッ!?」
「……大学で…資格を取って……1人で…」
「1人で生活なんか、させる訳ねぇだろうがっ!!」
「…」
「本当は…今すぐにだって籍を入れて、安心させてやりてぇんですよ、俺はっ!!」
「それは、駄目だ!君も典子も、まだ学生だろう!?」
「なら…婚約だけでもさせて貰えませんか、宇佐美先生!?」
「和賀君…」
「じゃねぇと…典子は、ずっと不安なまんまで…何か確証を与えてやりてぇんです!俺の傍に居ていいっていう確証を…」
「…典子」
「…」
「お前も…そうしたいのか?」
「……ぁ…ァッ…」
「典子?」
ブルリと身を震わせると、典子は俯いたまま指の関節をギリギリと噛んだ。
「……ノン…いい子だ…ゆっくり息を吐け…」
そっと腕を回して包む様に撫で下ろすと、早かった脈と呼吸が段々と落ち着いて行った。
「…その件に関しては、2人で良く話し合うといい…但し以前にも言ったが、結婚は2人共に卒業し…キチンと自立してからだ。それと、和賀君…条件は覚えているな?」
「覚えてます」
「ならばいい…」
典子の父親は立ち上がり、俺に手を差し出した。
「…娘を頼むよ、和賀君」
「お預り致します」
立ち上がり差し出された手をしっかりと握ると、彼は典子に向かって歩を進め、そっと彼女の頭に手を置いた。
「ゆっくりでいい、典子……少しずつ…自分自身を好きになって上げなさい」
「…」
「そうすれば、典子も和賀君も…幸せになれる」
「……はい」
「私は、今日の便でイタリアに帰る」
「えっ!?」
「年末のパーティーに間に合う様に帰国しろと、イタリアから連絡があった…日本と色々勝手が違うのも、結構大変だ。躰に気を付けて、頑張りなさい」
「…お父さんも…お躰に気を付けて下さい」
「あぁ、そうしよう」
「…あの……空港迄…」
「必要無い。お前も帰ったら、ゆっくり休みなさい。和賀君の怪我のケア…わかっているな?」
「はい」
「ならばいい…」
そう言うと足元の鞄を持ち、再び俺に向き直り…彼は少し目元を下げた。
「お父上に、宜しく伝えて欲しい……それと…」
「は?」
「…滅多にない事だが…典子を怒らせた時は、誠心誠意謝る事だ。誤魔化しは利かない…その積もりで…」
「……ご忠告、感謝します」
驚く典子に笑い掛けて、典子の父親は去って行った。
『キッチン和賀』のドアを開けると、大勢の人達の歓声とクラッカーの音に出迎えられた。
「退院、おめでとう!!」
そう言って皆私達を歓待してくれる中、和賀さんはずっと私の肩に手を回して、然り気無く背後に立ってくれている。
厨房に入ると、私はマスターの後ろに立ち深く頭を下げた。
「……ただいま…帰りました」
「…お帰り、典子ちゃん」
背を向けたマスターは、そう言って鍋からカップにスープを注いで差し出した。
「…マッシュルームのポタージュだ」
マスターのスープの中でも、私の一番のお気に入り…ちゃんと用意して待っていてくれる、その優しさが嬉しかった。
「…ありがとう…ございます」
カップを受け取ると、マスターは少し微笑んで指の背で私の頬をスルリと撫でる…和賀さんと同じ様な手付きで…。
「…持つから」
頭の上から声がして、手にしたカップが取り上げられた。
「お前の体調は?」
マスターの質問に、和賀さんが少し拗ねた様に答える。
「…頗る順調」
「そうか」
「お帰り、2人共!又一緒に生活が出来て嬉しいよ、典子ちゃん」
祐三さんの温かい言葉に胸を熱くして、私は目の前の2人に頭を下げた。
「…今後共…宜しくお願い致します」
店内に戻ると、壁際の席に私を座らせた和賀さんは、部の仲間に引き擦られて人の輪の中に入って行った。
「顔色もいいわね…安心したわ」
透かさず茜が隣に座り、料理と飲み物を部員に持って来させる。
「心配掛けたわ…ごめんなさいね」
「いいのよ」
「……あのね、茜…貴女なら知ってる?」
「まさか…滝川さんと、花村栄子の事!?」
「…」
「信じらんない!?敵よ?犯人よ!?」
声を潜めながら、茜は怒りを顕にする。
「…許すって言うの!?」
「……どうしてるのか…知りたくて」
「…」
「…和賀さんには…聞けないから…」
はぁと溜め息を吐かれ、茜は上目遣いで私を睨んだ。
「刑事から、聞いてないの?」
「和賀さんが、絶対会わせないって言ってくれたみたいで…質問事項を文章で答えただけなの」
「…そう。…滝川さんは、手術も成功して自宅療養中よ。刑事が会いに行っても、顧問弁護士に阻まれて会えないって。その顧問弁護士が、何度かウチにも来たわ…穏便に済ませて欲しいってね!」
「…」
「花村栄子の方は、医療刑務所に収監中よ。精神鑑定するって聞いたわ…心神喪失による情状酌量を狙う腹なのよ!忌々しい!!」
「…そう」
「浩一に聞いたの……花村栄子は、滝川さんに踊らされていただけなんだそうよ。とんだドンファンだわね!?」
「……トモ君は…とても優しいお兄さんだったわ」
「昔の話でしょ?」
「…もっと早く……気付いて上げれば良かったのよ…」
「気付いた所で、事態は変わらないわよ、典子」
「どうして?」
「滝川さんの事を思い出したとしても…典子が、今の滝川さんの事を好きになると思う?」
「…それは…」
「どっちにしても、典子は和賀さんを好きになってたんだと思うわ」
「…」
「典子にはね、ああやって強引に引っ張ってくれる人じゃないと、恋愛なんて成立しないのよ!だからって、何でもかんでも和賀さんの言う通りにする必要なんてないんだからね!?」
先日の病院での醜態を思い出し、私は顔から火が出る程紅くなった。
「……そうね…大丈夫よ」
「そうだ、典子…和賀さんから聞いてる?浩一の事」
「何が?」
「まだ、部の仲間には内緒にしてるんだけど……浩一…受験し直すのよ」
「えっ!?…どこに?」
「どこの大学なのか、決まる迄言う積りはないらしいんだけど…今度は、法学部狙うって…」
「……そう」
和賀さんからは、何も聞いていない。
松本さんは…きっと茜との将来を考えて、一大決心をしたんだと思う。
それを…どんな時にも彼と一緒にいた和賀さんは…これからも一緒に大学に通えて、バレーを出来ると思っていただろう和賀さんは…どんな思いで松本さんの決心を聞いたのだろう?
「典子?」
「…茜…愛されてるわね」
「そんな事、一言も言わないのよ?自分の将来を見据えた選択って、誤魔化すのよ!?」
「照れていらっしゃるのよ」
「わかってるわよ」
フフッと、茜は幸せそうに笑った。
「それでね、典子…お願いがあるの」
「何?」
「浩一の、家庭教師お願い出来ない?」
「私が?」
「浩一、プライド高いから…自分からは言わないと思うけど…何とか、誘導して貰えない?苦手な物だけでも…」
「私で…お役に立つの?」
「何言ってるのかしらね、この娘は!?典子の学力を鑑みて、出席日数が足りてない貴女の事を留年させない様に、学長自ら教授達に口添えしてるっていうのに!」
茜の言葉に、私は驚いて瞠目した。




