第43話
瞼を差す明るい光…その光の先にある、見慣れぬ白い部屋に眉を潜めた途端、躰中を駆け抜ける痛覚に息を呑んだ。
頭上から煩い程のキンコンと響くベルの音、全身を白い服と帽子、マスクで顔を隠した人々が、私の躰を触り捲る。
嫌だ…そう思った途端、天から一気にあらゆる記憶が降り注いだ。
恐怖に混乱する思考と、左足ばかりでは無い背中の腰辺りと、右腕、胸や頭も割れそうに痛い……誰かが何かを話し掛けるが、頭の中を反響して聞き取る事が出来ない。
早鐘の様に打つ脈拍と途切れる呼吸…恐ろしさに全身が戦慄き、口から呻き声が漏れ…私は自分の腕を抱いて身を丸くした。
この感覚は、覚えている…そう…このまま…あらゆる感覚を切って…心を手放したら…以前は楽に…。
掴んだ腕に爪を立てると、抱き起こされてフワリと抱き締められ、私の手を包み込み…耳元に暖かい声で囁かれた。
「…ノン」
「…」
「何で目覚めた途端、具合悪くしてんだ、お前?」
「…ウゥ…」
「手ぇ離して…力抜け…ホラ…」
優しく背中や腕を撫でる、大きな手。
「怯えんな…今度こそ、全て終わった……もう怖い事、何もねぇから」
そっと私をベッドに寝かせ、胸に手を当てて優しく押しながら、和賀さんは優しい声で語り掛ける。
「ホラ…胸に溜まったままの空気、全部吐いちまえ。今、点滴に痛み止め入れて貰う。このまま付いててやるから…少し休め」
「…」
「その代わり、ちゃんと目ぇ覚ませよ?……次は、10日間も待たねぇからな…」
和賀さんの大きな手を胸に抱え込み、私は瞼を閉じた。
目覚めた典子は、以前にも増して人見知りが激しくなり、俯いたまま顔を上げなくなった。
1人で居ると常に微かに震え、背後から人が近付くと極端に怯えてしまう。
「PTSDだね…刺された時の恐怖による物だと思うけど…」
「治りますよね!?」
「時間を掛ける事だね…怖いんだって構わない…そう言って抱いてやれば…」
「俺の手も…嫌がってるんですよ…1人でカーテン締め切って、自分の事抱き締めて震えてる!」
「そんな筈はない…目覚めた時、平気だったろう?」
「そうですけど…俺にも、殆ど何も話さねぇ。出会った頃に…いや、それ以上に頑なになってやがる!」
カウンセリングルームの机をバンと叩き、俺は頭を抱えた。
「…さっきのカウンセリングでも、彼女頻りに退院の日程を気にしてた…。和賀君、彼女に渡航を中断させる話、もうしたのかい?」
「いえ…そんな状況じゃ…」
「……もしかして、イタリアに行かなきゃいけないと…まだ思い込んでるのかもしれないよ?この間の話も、彼女の父親と最後迄話し合って無いんだろ?」
「えぇ…中断したままになってます。でも施設の話は、典子の退行が治った時点でなくなったんでしょう?」
「そうとも言えないよ?イタリアの環境もあるんだろうし、いつ彼女の状態が悪くなるか…その時に付いていてやれるか、わからないんだろうね…」
「…」
「彼女の父親が施設の事を言い出した背景には、あちらの仕事や住環境の状況もあるんだと思う。渡航する前に思い描いていた状況と、違ってたんじゃないかな?」
「典子を看病しながら、生活出来る環境じゃなかったって事ですか?」
「おそらくね」
「…」
「父親の方の症状は、すっかり落ち着いてるんだ。それこそ、完治と言ってもいい。環境が変わった事や、自分を認識して彼女と話し合い父娘の関係を取り戻した事や、君の事を認めた事で、自分の中で区切りが付いたんだと思う」
「じゃあ、典子さえ納得すりゃ…問題ねぇって事ですか?」
「多分ね…」
俺は急いで病室に戻った。
ドアを開けると、洗面所の方でドライヤーの音がする。
「…ノン、風呂入ったのか?」
そう言って後ろに立つと、ガシャンとドライヤーが音を立てて落ち、典子は壁際に飛び退き身を抱えて座り込んだ。
「…済まねぇ…驚かせたか?」
ドライヤーを切って典子の前に屈むと、そっと抱え上げてベッドに運んだ。
「怯えんな、大丈夫だから…」
そう言って、自分のベッドではなく俺のベッドに座らせると、典子は少し眉を潜めたまま視線を反らした。
「…ノン」
「…」
「何怯えてる?」
「…」
「何で、何も言わねぇ?」
「…」
「…お前…俺への気持ち、醒めちまったのか?」
俯いていた典子が、サッと俺を見上げ…悲し気な表情で大きな瞳を潤ませると、ゆるゆると又俯いた。
『私の気持ちを疑うの?』…そう彼女が訴えている様に思えて、正直俺は胸を撫で下ろした。
疑った訳ではない…だが、不安になっていたのは確かだ。
目覚めて以来、腕の中に収まる事もキスをする事も、拒み続ける意味がわからない。
「離さねぇって、言ったよな?」
「…」
「俺の気持ちは変わらねぇ…俺の気持ちは揺るがねぇ……だがな、お前が自分の気持ちを何も言わねぇと、不安になるだろうが…」
「…」
「ノン…抱き締めていいか?」
「………駄目」
「何で?」
「…」
「怯えて震えてるお前を、癒してやりてぇんだ」
「…」
「言えよ、ちゃんと…」
「………辛く…なる…」
「何が?」
「…」
「お前、もしかして…イタリア行きの話に拘ってるんなら、もう行かなくていいからな」
「…ぇ?」
「やっぱり、気にしてたのか?」
「…」
「大丈夫だ、どこにも行かせねぇ…お前は、ずっと俺と過ごさせるって決めたから」
「…でも……父との…約束が…」
「親父さんには、ちゃんと話す。この間も話し合ってたんだ…だから、心配すんな」
「…でも」
「何だよ?まさかお前…俺を置いて、イタリアに行きてぇのか!?」
「……私が…行かないと……部の皆さんに……事件の事…早く忘れて貰わないと…」
「無理だ」
「…」
「お前がイタリアに行こうが行くまいが、事件の事忘れるなんて、出来る訳ねぇだろ?」
「……申し訳…ありません」
「謝ってんじゃねぇよ…お前が悪い訳じゃねぇ」
「…」
「まだ、何かあんのか?」
俯く典子の手を包み込む様に握ってやると、彼女はやんわりと拒み自分の腕を掴んで身を震わせた。
「吐いちまえよ、ノン…」
「……私には…」
「ん?」
「………生きている価値が…あるのでしょうか?」
「え?」
「……殺したいと思う程……疎まれている人間なんて……生きる価値が…あるんでしょうか?」
「…抱くぞ、ノン…」
俺は典子の躰を膝の上に抱き上げると、両腕で彼女をしっかりと抱き締めた。
「……和賀さんの……腕の中に居る資格が……あるのでしょうか?」
「当たりめぇだ、馬鹿娘!!」
「…」
「生きる価値がねぇ人間なんて、居る訳ねぇだろ!?」
「…」
「滝川と花村の事は、あいつ等が勝手に暴走した事で、お前が責任感じる問題じゃねぇだろうが!?」
「…でも…私が……何とか……そぅ、バレー部を辞めていれば…」
「何を!?どう予測出来たってんだ!!」
「…」
「仮にそうだったとしても、お前が辞めるっつったのを止めたのは俺だろうが!?なら、責任はお前にじゃなくて、俺にあるんじゃねぇかっ!!」
「…」
「滝川も花村も…あぁなっちまったのは、自分の心が弱かったからだ。お前が、どうこう出来た話じゃねぇ!!自惚れるなっ!!」
「…」
「それに、俺の腕の中に居る資格は、お前にしかねぇだろ、馬鹿娘!!」
「…」
「俺が…認めるだけじゃ駄目か?」
「…」
「…ノン…」
腕の中でスンスンと鼻を鳴らす典子の顎を捉え、上に引き上げてやる。
「…和賀さんは…」
「ん?」
「…どうして、そうやって……私の悩みを…いつも飛び越えるの?」
「……愛だろ?」
「…」
「ノン?」
典子は腕をクロスして、俺から顔を隠そうとする。
「…照れてんのか、お前?」
「…」
「…やっぱ、可愛いな…お前…」
「…だから…」
腕を解かせ典子の唇を奪うと、胸を押して拒もうとした彼女は俺の怪我を思い出し、頻りに腕を押して拒もうとした。
「…まだ拒むか、コイツ…」
「だって…誰か来たら…」
そう言って眉を寄せる典子の唇を、噛み付く様に貪った。
何日振りのキスだと思ってるんだ、コイツは…心身共に健全な男子大学生を、何だと思ってるんだ、一体…。
「…抱きてぇ…」
「駄目です!」
「何で?」
「躰に障ります!!」
「平気だって…下半身怪我してる訳じゃねぇし…」
真っ赤になって瞠目した典子は、俯きながら慌てふためいて手を振った。
「だっ、駄目ですっ…本当に…」
「お前、可愛いから…俺…止まんねぇんだけど…」
野獣と化した大男に組敷かれ、典子は瞳を潤ませてイヤイヤと首を振る。
「煽ってる事にしか、なんねぇ…」
「本当にっ…和賀さんっ…」
「…ノン…愛してる…」
「…嫌ぁ…」
「ノン…」
「…ふぇぇ」
典子がべそをかき出した途端、病室のドアをノックする音が響き、俺達は凍り付いた。
次の瞬間、典子は転がる様に俺の下から逃げ出すと、本当にベッドの下に転がり落ちたのだ。
「ノンッ!?大丈夫か!?」
声を掛ける俺を無視して自分のベッドに潜り込むと、典子は布団の中でシクシクと泣き出してしまった。
「和賀さぁん!?何やってるのッ!?」
玉置の超絶機嫌の悪い声が響き、俺は慌てて下半身を布団で隠した。
怒髪天を衝く玉置の後ろで、松本が苦笑を漏らし…声を出さずに『馬鹿』と言った。
「何なのっ、あの野獣!?」
「まぁ、まぁ…」
「病室でやる事!?然も、典子迄泣かして…馬鹿じゃないの!?」
病室で散々要に説教を垂れた後も怒りの収まらない姫は、レストランに入った後も目を三角にして苦言を吐いた。
「でも…気持ちはわかる」
「何、浩一!?和賀さんの味方するの!?」
「そりゃね…今迄の奴の事を考えたら、よく耐えてると思うよ、要は」
「…そんなに凄かったの?まぁ…想像付くけど…」
「まぁね。今迄の要の恋愛を見て来た俺には、今の要の方が想像出来ない。ま…今迄のが、恋愛じゃなかったって事なんだろうけど…」
「ふぅん」
「交際も、いつも女性から申込まれてたし…惚れられても、惚れるって事なかったんじゃないかな?クールだったよ、とても…やる事はやってたけどね」
「想像出来ないわね…今は、火傷する程暑苦しいわよ?」
「姫は、クールな方が好みなのかな?」
「どうかしら…ね?」
グラスに付いた水滴を細い指でなぞると、姫は上目遣いで俺を見てフフッと笑った。
「…しばらく、忙しくなるんだ」
「何かあるの?」
「…大学、辞める事にした」
「えぇッ!?」
姫の顔が、一瞬にして凍り付く。
「もう一度…受験する事にしたんだ」
「…」
「ひと月後には、センター試験がある。1月下旬から3月上旬に掛けて、大学入試本番になるからね」
「質問していい?」
「どうぞ?」
「どこを受けるの?」
「大体は決めてる…でも、結果が出る迄言う積りはないんだ」
「学部は?」
「法学部志望」
「何で今更、進路変更なんてするの?」
「…将来を見据えた選択…かな?」
「…私が…反対するとは、思わなかったの?」
「思わなかった」
「…そう」
「反対する?」
「…その、将来を見据えた選択に…私は絡んでるのかしら?」
「…どう思う?」
ムッとした表情を見せた後、姫はプィと外方を向いた。
その姫の手を、指を絡めて握ってやると、頬を緩ませクスリと笑う。
「わかってるわ…浩一は、言わないのよね?」
「…」
「正直、和賀さんのストレートな愛情表現を、羨ましいと思う事があるの…だからって、始終アレだと鬱陶しいんだけどね…。でも、浩一が一歩踏み出してくれたのは、凄く嬉しい…大きな一歩だし…」
「結果次第だよ…これからだからね」
「勉強の方は、大丈夫なの?」
「何れは…と思ってたし、気を抜かずに準備してた積もりだけど、現実は中々厳しいね」
「家庭教師、頼めば?」
「今からかい?」
「あら、取って置きの人物が居るじゃない…すぐ目の前に…」
「姫の事?」
「馬鹿ねぇ…私は、そんなに頭良くないわよ!」
「じゃあ…」
「典子が居るでしょ?もうすぐ退院だし…」
「ウサギちゃんって、そんなに頭良かったの?」
「だってずっと首席だったのよ?センター試験だって凄い点数だったのに、ウチの学校受験するなんて言うから…高校の進路指導の教師がパニクッてたわよ!!」
「へぇ…そうなんだ。賢い娘だとは思ってたけど」
「教え方も上手いわよ…それは実証済み」
「頼もしいね」
「頑張って…」
「ありがとう」
柔らかな笑みを浮かべていた唇が、次の言葉を紡ぐ。
「あと…12月24日と正月だけは、空けといてね!!」
そう言って、姫は悪戯っぽく笑った。




