第4話
その日の練習後、近くの居酒屋を貸し切って開かれた歓迎会でも、宇佐美は俺の隣にちんまりと座って、ウーロン茶を飲んでいた。
入れ替わり立ち替わり挨拶に来る部員達にも、彼女は黙って会釈するだけだ。
それに引き換え玉置の方は、すっかり部員をかしずかせてご満悦の様子だった。
「お前、良かったのか?」
人の波が途切れた時、俺は宇佐美に尋ねた。
「……はい」
「嫌がってたじゃねぇか…」
「……和賀さんこそ」
「え?」
「ご迷惑では…ありませんか?」
「あぁ……そっちも聞きたかったんだ。何で俺なんだ?」
「…」
「適任者は山程居たろ?椎葉は、出身校が一緒だったそうだし…家が近いなら、人当たりのいい浩一の方が適任じゃねぇか?」
「…やはり、ご迷惑でしたか…」
「そうじゃねぇよ」
「…」
黙って俯く宇佐美に、正直どう接していいかわからず、俺はバリバリと頭を掻いた。
「ちょっといいかな?」
そう言って、グラスを持った井手さんが声を掛けてくれた時、俺は正直助かったと思った。
「久し振りだね、典ちゃん」
「ご無沙汰してます」
そう挨拶し合う2人の姿に席を立とう腰を上げると、井手さんが俺を引き止めた。
「居てくれないか、和賀」
「…いいんですか?」
「あぁ…君にも聞いて置いて貰いたいんだ」
「…わかりました」
座り直す俺に笑い掛けると、井手さんは宇佐美に向き直る。
「…さっきは驚いたよ。まさか、典ちゃんがマネージャーになるなんて、思っても見なかったからね。お父さんには、相談したのかい?」
「…父は、関係ありません!」
思いも寄らず強い口調に、俺の方がたじろいだ。
「……やっぱり、まだ…」
「関係ありません」
「そんな事は無い…君の躰の事もあるからね」
「…」
「正直、典ちゃんには厳しいと思うよ?」
「…」
「断り辛いなら、僕の方から…」
「コーチ、どういう事です?」
俺は、思わず2人の会話に口を挟んだ。
「マネージャー業務とはいえ、多分…彼女の躰には負担が大き過ぎるんだ」
「え?」
「彼女は幼い頃の怪我が原因で、今の様な躰になったんだが…左足の感覚が殆ど無いんだよ。その左足が…」
井手さんの手が、いきなり彼女の左腿を掴んだ。
「ッ!?」
「コーチ、何を!?」
「…感覚の殆ど無い足を少し掴まれただけで激痛が走る……典ちゃん、ちゃんとマッサージ受けてるのかい?」
「…」
「その分じゃ、腰も…右足にも影響が出てるんじゃ…」
「大丈夫です!」
「…典ちゃん」
「自分の躰の事は…私が一番良くわかってます」
「…僕は、君に無茶をさせる為にアパートを紹介した訳じゃないんだよ?」
「…」
彼女の沈黙に溜め息を吐いた井手さんが、俺に視線を移した。
「和賀、彼女に呉々も無理をさせない様に、注意してくれ」
「…はい」
「それと…君は、核の腰の治療の為に、講習を受けてマッサージしていたんだって?」
「はぁ…まぁ…」
「井手さん!?」
彼女の叫びを無視して、井手さんは俺に言った。
「彼女のマッサージを、手伝ってやってくれないか?」
「待って下さい!?私、そんな…」
「駄目だよ、典ちゃん…自分でマッサージするには、限界があるからね。じゃないと、本当に車椅子どころか、寝た切りになるんだよ!?」
「でも…」
「…大学、辞めるかい?」
「!?」
「自分の躰のメンテナンスも出来ない様なら、1人暮らしなんてするべきじゃない…」
「……遼兄ちゃんの…意地悪…」
宇佐美は、肩を震わせてシクシクと泣き出し…井手さんは、そんな彼女の頭をそっと撫でてやっていた。
肩を落として足を引き摺る彼女の少し後ろを、俺と松本は微妙な距離を保ちつつ歩く。
「…キャプテンに話したか?」
「あぁ…彼女には、出来る事をしてくれたらいいって言ってたが…」
「そっか…玉置さんが入った事で、他の部員の士気が上がってるし、彼女目当てのマネージャー希望者を募る気満々だったからな…」
「…宇佐美の存在は、完璧無視かよ!?」
「で、どうする?彼女のメンテ…」
「…宇佐美!」
俺が呼び掛けると、トボトボと歩く彼女が少し顔を後ろに向けた。
「今日、お前の部屋に寄るからな!」
「…」
「俺1人の方がいいか?それとも、浩一が一緒の方がいいか?」
「え?」
「本当は、姉貴が一緒の方がいいんだろうが…明日の仕込みあるからな…」
「…結構です…大丈夫ですから」
俯き消え入りそうな声で、そう彼女は言った。
「大丈夫じゃねぇだろ!?…キャプテンからも姉貴や兄貴、さっきは井手さんからも頼まれちまったんだ。お前の具合が悪くなると、責められるのは、俺なんだよ!」
「…要…お前は、何でそんな言い方…」
「…わかりました…和賀さんお1人でも構いません」
「……わかった」
自分で言い出しておいて何だが、女の部屋に1人で訪ねるというのは、何となく気まずいものだ。
勿論、付き合って来た女の部屋に入った事がなかった訳ではないが…1人で…然も結構遅い時間に女の住む部屋を訪ねる気まずさを、俺は思い切り感じていた。
彼女が鍵を開ける時、隣の部屋に帰る松本が、俺の顔を見て声を出さずに『馬鹿』と言ったのはこういう事か…。
「…どうぞ」
何となく尻の辺りがむず痒い様な感覚に耐え切れずに、リビングを突っ切って窓を開け放つと、丁度正面の窓を開け風呂上がりに涼んでいる親父と目が合った。
「…おっ…親父っ!?」
「…何をやってるだ、要?」
「たっ、頼まれたんだ!!」
「はぁ?」
「うっ、宇佐美の…マッサージ!!」
怪訝な顔を覗かせる親父に、俺の背後から宇佐美が会釈する。
「…典子ちゃん、変な事されたら叫びなさい…直ぐに真子を向かわすから」
「なっ、何言ってんだ!親父ッ!?」
「お前が、余りにも狼狽してるからだろう?」
「…ったく」
ブツブツと文句を垂れる俺に、宇佐美は背後で済みませんと謝った。
「お前も、風呂入って来いよ」
「…」
「シャワーじゃなく、風呂だぞ?良く温まって来い。マッサージは、それからだ」
「…わかりました」
「あ、その前に携帯出せ」
「え?」
「お前の携番とアドレス、登録すんだよ…何かあったら、直ぐに連絡取れる様にしとかねぇと、困るだろうが?」
「…」
「…何だよ?文句あるか?」
「いぇ…いいんですか?」
「何が?」
「だから…色々、引き受けて頂いて…」
少し頬を赤らめて、宇佐美は俺を下から覗き見る。
「……しょうがねぇだろ?」
「…」
「あっちからも、こっちからも…」
「和賀さんは…」
「だから、何だよ!」
「…和賀さんは、構わないんですか?」
「…」
「和賀さんから、了承のお答えを…頂いてません」
「はぁ?」
「だから…」
少し涙を溜めた瞳が、眼鏡越しに俺を見詰める。
「…宇佐美」
「はい」
「…泣くなよ」
「…」
「泣かれるの…苦手なんだ…」
「…」
「だから…泣いてる女の頼み事を断るってのは…性に合わねぇんだ」
「…ありがとうございます」
そう言って、宇佐美は眼鏡を外して涙を拭った。
「ぁ…俺からも、さっきの質問の答え…」
「え?」
「何で俺だったのか、聞いてねぇ」
俺がそう言うと、宇佐美は俯いて呟いた。
「だって…和賀さんは…」
「何だよ」
「…いつも不機嫌で…笑わないから…」
「……悪かったな」
「いぇ…だから、お願いしたんです」
「…」
「…だから…苦手なんです……笑い掛けられるの」
「……宇佐美」
「はい」
「…変わってんな、お前」
「…」
いつも不機嫌そうだ、愛想笑いの1つも出来ないと言って文句を言われた事は山程ある。
それが原因で付き合っていた女と別れた事も、1度や2度じゃない。
しかし、幾ら恋人の振りとはいえ、不機嫌で笑わない理由で選ばれるとは…正直思っても見なかった。
「…勿論、それだけじゃありませんけど…」
「あ…いぃ。何か気ィ楽だし…」
「…」
「口悪いし、ぶっきら棒だし、直ぐに怒鳴るけど…いいんだな?」
「はい」
「わかった…」
正直、女に気を遣って機嫌を取らずに済むと思うとホッとした。
俺は彼女の携帯を取り、赤外線通信で互いの情報を交換し合うと、彼女を風呂に入る様に急き立てた。
アドレス帳に情報を登録して、何気なく部屋の中を見回す…。
殺風景な部屋だ…普通女の部屋にある様な、写真や置物、雑誌等…何も無い。
目を引くのは、棚に積み上げられた、大量のメディカルテープ、そして部屋の隅に置かれた銀色の装具と杖…。
程無くして風呂を上がった宇佐美にマッサージを施すと、その余りの筋肉の張り詰め様に驚いた。
宇佐美は、バスタオルを顔に当てて痛みを噛み殺している。
「痛過ぎたら、ちゃんと言えよ?」
「…はい」
「1日でどうこう出来るレベルじゃねぇぞ?かなり辛かったんじゃねぇか?」
「…」
「コーチが、幼い頃の怪我が原因って言ってたけど…何があったんだ?」
「…良く覚えてないんです。誰かと遊んでいて、土手から落ちて…丁度突き出ていた杭が、足の付け根辺りに突き刺さったのだそうです」
「…幾つの時だ?」
「小学校に上がる前の年でした」
「…そうか」
「何度も手術したんですが、神経や運動機能を完全に取り戻すのは難しくて…でも、何とか装具や杖が無くても生活出来るレベルになってたんです。だから何とか独立して暮らして、これから頑張って1人で生きて行こうと思ってたのに…」
「家では、親父さんがマッサージしてたのか?」
悔し気に俯く彼女が、驚いた様に俺を見詰める。
「有名な、アスレチックトレーナーなんだろ?」
「…ご存知なんですか、父の事を?」
「いゃ…直接には知らねぇ。俺の兄貴も大学迄は選手だったんだ。コーチの大学時代の後輩でな…その縁で、コーチにこの部屋の事を頼まれたらしい」
「もしかして、メディカルテープの…」
「そうそう…その会社に勤めてる」
「そうでしたか…」
「コーチとも、古い知り合いなのか?」
「遼兄ちゃんは、父のお世話になっているチームにいらして、昔から顔見知りっていうか…手術で入院していた時に、リハビリでも一緒だったんです。子供だった私をいつも励まして下さって、凄くお世話になっていました」
「ふぅん」
「大学のコーチをされている事は、合格してこちらの部屋をお世話して下さった時に、初めて知りました」
時々チラリと見上げる他は、常に目線を下げている宇佐美に、俺は思ったままの感想を述べた。
「お前、無口って訳じゃねぇんだな?」
「…」
「何で、下ばっかり向いてんだ?」
「…え?」
「楽しいか?そんな、地面ばっか見てて…」
フィと顔を上げた彼女と、まともに見詰め合う形になり、俺の方が視線を逸らした。
「和賀さんって…」
「…何だよ?」
「ストレートな方なんですね?」
「はぁ!?」
「…」
「……どういう意味だ?」
「言葉通りです。とても、素直な方なんですね?」
「…馬鹿って言いてぇのか?」
「そんな事、思ってません」
「…俯せになれ」
彼女を俯せに寝かせ、パンパンに張っている腰と足をマッサージしていく。
「…私が下を向いているのは、危険回避の為です」
「歩いてる時以外も、下ばっか向いてんじゃねぇか」
「…怪我をする訳にいかないんです…私に何かあると、色んな人に迷惑を掛けてしまうから…」
「お袋さんは?」
「私が生まれた時に、亡くなりました。だから…私に何かあると、父の仕事に影響してしまう。…迷惑掛けない様に、家を出たのに…」
父親に迷惑掛けない様に、家を出たって……親子なのに、何水臭い事を言っているのかと思い、思わず思い切り腰を押すと、バスタオルにくぐもった呻き声を吐かれた。
「毎日マッサージしねぇと、本当に固まっちまう…学校でも、絶対に無理するな!走ったり、重い荷物持つのも厳禁だ…いいな?」
「…」
「返事は!?」
「…はぃ」
「登下校と昼休み、放課後は、当分の間俺が一緒に居てやる。その内に、噂が広まって追われる事もなくなるだろう…いいな!?」
バスタオルから、グスグズという鼻を啜る音が聞こえ、宇佐美は顔を埋めたまま頷いた。
「…泣くなって、言ったろうが…」
どうすれば良いかわからず、コーチがやった様にそっと頭を撫でてやると、余計に泣き出して…俺は、しばらく彼女の頭を撫で続けた。