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第38話

あれから1週間…ようやくベッドに縛り付けられる生活から解放され、歩行訓練と右手の筋力低下を防ぐ為の軽い筋トレを開始した。

自然治癒を待つ事にしたものの、肋骨は背骨近くと脇を骨折していたし、肩甲骨が思いの外複雑に骨折している様で、通常より時間が掛かると医者が説明していた。

肋骨の骨折の為に胸にバンドを巻き上げ、肩甲骨と鎖骨の骨折の為に三角巾で左手を吊るし、その上から左腕が動かないようにバンドを装着し固定する。

痛み止めの注射と座薬、炎症を抑える抗生剤、胃のダメージを緩和するための胃薬等も、連日山の様に飲まされていた。

時折、バレー部の仲間が見舞いに来たが、あれ以来典子は一度も顔を見せない。

携帯に電話をしても、メールをしても、電源を切っている様で全く反応がなかった。

気になって、自宅での静養にしたいと医師に申し出たが、骨折の方は1週間に1回レントゲンを撮り経過を観察する事で問題ないが、肺に溜まる胸水が落ち着く迄は入院生活を続けた方がいいと言われてしまった。

苛々として家に電話を掛けても、

「休みの日に連れて行く」

と、何とも歯切れの悪い答えしか返って来ない。

大体、今週にはイタリアから典子の父親が帰国するって…来週には、典子も一緒にイタリアに行くって何なんだ!?

俺は、何一つ聞いちゃいねぇぞ!?

店が休みの水曜日、昼食を摂り終わって暇潰しの雑誌を捲っている俺の耳に、ノックの音が聞こえた。

「…はい」

カラカラと扉が開き、不機嫌に入口に視線を向けると、あり得ない様な光景が飛び込んで来た。

親父と仲良く手を繋いだ典子が…俺の姿を見て輝く笑顔を向け、ピョンピョンと走って来たかと思うと、ベッドに座る俺の腰に飛び込む様に抱き付いたのだ。

「お兄ちゃんっ!!」

典子が来たら、思い切り文句を言ってやろうと手薬煉引いて待っていた俺は、驚きの余り一瞬我を忘れた。

「…」

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お怪我したの!?どこが痛いの!?」

「…お前…何で退行なんて起こしてんだ!?」

腰から引き剥がす様に典子の肩を掴み吼える俺に、彼女はキョトンとした表情で俺を見上げた。

「何が?」

「どういう事だ、親父っ!?一体、何があった!?」

「落ち着きなさい、要」

「これが、落ち着いていられるかっ!?」

いきなりパシンと頬を張られ、静かな声が再び響く。

「落ち着け…どうもお前は、典子ちゃんの事になると余裕をなくす」

「…」

俺は親父という人間が、焦ったり慌てたりする所を見た事がない。

「…親父…典子、いつから…」

「お前が入院した日の翌日だ。1人で帰って来て…お前の部屋でずっと泣いていた様だが、翌朝からずっと子供返りしたままだ」

「…」

「お前の試合中に、私が病院に連れて来た時も少し様子がおかしかったが、翌日には普段通りに戻っていた。その後も診察は受けているから、後で鷹栖先生に詳しく聞きなさい」

「…典子の世話…姉貴が見てるのか?」

「いや…家では、私の傍から離れない」

「…そっか…悪ぃ、手間取らせて…」

「要…お前、典子ちゃんの事、決心は変わらないんだな?」

「あぁ」

「そうか」

「…親父も反対なのか?」

「いや…お前の決心が、ぶれていないならそれでいい」

「…」

親父と話している間、典子は珍しそうに病室の棚や冷蔵庫の中等を開いて見ていたが、詰まらなさそうに俺を振り返り口を尖らせた。

「お話し、終わったぁ?」

「あぁ…こっちに来い、ノン」

嬉しそうにピョンピョンと飛んで来た典子を右手でベッドに引き上げてやると、ポンポンと靴を脱ぎ捨て俺の膝に乗り上がり、店の様子や家での生活を一頻り報告し出した。

「お兄ちゃん、お手てなくなっちゃったの?」

「いや…ちゃんとある。胸に括り付けてるだけだ」

「良かったぁ…又抱っこしてくれる?」

「あぁ……ところで、お前は何で子供のノンになってるんだ?」

「え~?」

「この間子供に戻ってた時…お前、記憶あるって言ってたろ?」

「だぁってぇ…」

「ん?」

「お兄ちゃんが、その方がいいって言ったんだもん」

「…えっ?」

「お兄ちゃんが、笑ってるノンちゃんがいいって言ったんだもん!だから、『泣き虫のノンちゃん』が交替しようって…」

「何だとっ!?」

「…何怒ってるの、お兄ちゃん?」

俺は典子を膝から下ろし靴を履かせると、手を引いて精神科のある別館に向かった。



「連れて来たんだ」

「先生…どういう事です!?」

「まぁまぁ…ノンちゃん、この間のお椅子に座る?」

「お歌の聞こえるお椅子?」

「そうだよ。ノンちゃんが好きな曲、沢山聞けるよ?」

典子は不安そうに俺を見上げて、繋いだ手をキュッと握った。

「…お兄ちゃん、どこにも行かない?」

「あぁ…帰る時には、ちゃんと声掛けて連れて帰ってやるから、心配すんな」

「…うん」

少し不安そうな顔を見せながらも、典子は部屋の奥にある、黒いカプセルの様なリクライニングチェアに潜り込んだ。

武蔵先生は棚から子供向けのCDを取り出すと、リクライニングチェアの横の機械にセットして、俺の所に戻って来た。

「体調は、どうだい?」

「俺の方は、ボチボチ回復してます。それより典子の事です!何で、又退行なんて起こしてんです!?」

「…彼女、何か言ってたかい?」

「……俺が望んだから…『泣き虫のノン』と交替したって…訳のわかんねぇ事を…」

「そうか…まぁ、そうなんだろうな」

「俺は、そんな事っ!?」

「…本当に?」

「えっ?」

「彼女に…笑顔が見たいって言わなかった?」

…確かに…言ったが……だが、あれは…。

「彼女、退院してからずっと強迫観念に取り付かれてる様でね…特に、君の言葉に囚われてるんだ」

「俺の言葉?」

「そう。以前、君の将来の夢の話もしたんだろ?」

「…」

「プロになりたい君の為に、早く事件を風化させなければいけないと思い込んでる。その為にも、自分は早くイタリアに行かなければならないってね」

確か学園祭前に、玉置が同じ様な事を言っていた…。

「…だが、典子が完治してからじゃねぇと…」

「その通りなんだけどね……そして今度は、笑顔が見たいと君が望んだ」

「…」

「『亭主の好きな赤烏帽子』とは、よく言ったものだよ。君の言葉に、彼女は自分の意を曲げてでも従おうとしてる。健気だね…全く」

「…」

「君と離れたくないって…イタリアに行きたくないって、彼女から聞いた事はあるかい?」

「…いいえ」

「事件の事も、自分の事も、バレー部の人達に忘れて貰おうと必死だった…この間迄は、その事でストレスを感じて、退行を起こし掛けてたんだが…今は、少し違うんだ」

「え?」

「人格をね…自分で切り離してる」

「えぇっ!?」

「『天真爛漫な子供のノンちゃん』と『思い悩んで泣いてばかりのノンちゃん』…2つの別人格を持ってるんだ。然も、この2人は対話するらしくてね…『泣き虫ノンちゃん』は、『天真爛漫なノンちゃん』の恐怖や苦しみ、痛み等を全て引き受けるから、『天真爛漫なノンちゃん』に君の前では笑っていて欲しいと望んでる」

「何だって、そんな事!?」

「…君が、望んだ事だから」

「…」

「言っただろう?そのままの自分でいいと、ありの儘の宇佐美さんでいいと…言って上げてたかい?」

「…」

「今ね、少し混乱してる筈なんだ。君のお父さんにも協力して貰って、彼女の人格を統合しようとしてるけど、両方の人格共に君が望んでいる事だという意識があるから、理解が出来ないんだ。『天真爛漫なノンちゃん』は、まだ子供だしね…。『泣き虫のノンちゃん』の方は、どうやら大人らしいから、そちらと話をしたいと思うんだけど…表に出て来てくれないしね」

「どうすればいいですか!?」

「2つの人格を1つに戻す事…『泣き虫ノンちゃん』でもいいんだと、ありの儘の自分でいいと納得させる事だけど…先ずは、今回のイタリア行きを思い留まる様に説得する事だね」

「…わかりました」

「そもそも…イタリアに行く必要、あるのかい?」

「…それが、彼女の親父さんの出した、結婚の条件でしたから…」

「和賀君も、乗ったんだろ?」

「まぁ…」

「そっちも、説得すべきなんじゃないかな?まぁ…今回の渡航は無理だと、僕からも彼女の父親に説明するけどね」

「典子の親父さんが、いつ帰国するかご存知ですか?」

「明日だろう?聞いてなかった?」

「全く知りませんでしたよッ!!」

「あぁ、そうか……試合後に、話す積りだって言ってたからね」

「…」

「まぁ…頑張って彼女を説得しなさい。言って置くけど、頑固だよ?子供だから、余計に難しい部分も多い…」

「わかりました」



武蔵先生の計らいで、その日から典子と共に特別室に入った。

VIP専用の病室が並ぶ一角にあり、病室と言うよりはホテルのツインの様な部屋で、壁も厚いので話し合いにはいいだろうとの配慮だったのだが…。

「だって…お兄ちゃんが、ノンちゃんの方がいいって言ったもん!!」

典子は先程からそう言って、俺の前で頬を膨らませる。

「違う、ノン…あれは、そういう意味じゃねぇんだ」

「…お兄ちゃんは、ノンちゃんが…嫌い…なの?」

「そんな事ねぇって」

「良かったぁ~!!じゃあ、ノンちゃんがここに居てもいいよね!!」

「だから…」

先程から堂々巡りで、話が進まないのだ。

「もう1人の…『泣き虫のノン』と、話をさせてくれって」

「嫌ッ!!」

「何で?」

「お兄ちゃんこそ、何で!?何で、『泣き虫のノンちゃん』とばっかり仲良くしようとするの!?あの子の事、嫌いなんでしょっ!?」

「嫌いじゃねぇって」

「じゃあ、好きなの?」

「あぁ」

「嘘ッ!!嘘付きッ!!ノンちゃんが好きって言った癖に!」

「だから…」

「お兄ちゃん、何回も泣くなって言ったもん!泣き虫は嫌いなんでしょっ!?」

「嫌いじゃない…俺は『泣き虫のノン』も大好きだ」

「…」

「…泣き方も…泣き顔も…好きって言ったろ?」

「…ノンちゃんより?」

「え?」

「ノンちゃんと『泣き虫のノンちゃん』…どっちが好き?」

「…どっちもだ」

「どっちか!!1人だけッ!!」

「選べねぇって…どっちもお前なんだ、ノン」

「…」

剥れる典子を膝の上に乗せ、右手で抱え込んで撫でてやる。

「何で分かれ様としてんだ、お前…」

「お兄ちゃんが言ったもん!」

「俺が望んでんのは、そんな事じゃねぇって…お前、わかってる筈だろ?」

「……居なくなっちゃえばいい…」

「…何が?」

「『泣き虫のノンちゃん』なんて、居なくなっちゃえばいいっ!!」

「ヤメロッ!!」

俺の恫喝に、胸で甘えていた典子がビクッと震えた。

「お兄ちゃ…」

「幾らお前でも…これ以上『泣き虫のノン』を泣かすのは許さねぇ!況してや消すなんて…絶対に許さねぇからなっ!?」

「…」

怯える典子を撫でながら、言葉が荒くならない様に説き伏せる。

「俺の大好きなノンは、とっても優しい…可哀想な『泣き虫のノン』を虐めたりする様な事はしねぇ…」

「……うん」

「…どっちが欠けても駄目なんだ…お前達は、2人で1人なんだから…」

「でも…ずっと泣いてるよ?耳押さえて、ずっと泣いてる」

「…ノン」

「『私じゃ駄目』って、ずっと泣いてる」

「そのままのお前でいい…そのままのお前じゃなきゃ……愛せねぇんだ!帰って来い…ノン!」

「怖いんだって…」

「何が?」

「え~…何か変な電話やお手紙、いっぱい来るし…お父さんと、イタリアに行かなきゃだし…」

「電話?手紙って…携帯のか!?」

「何か…変なのいっぱい…」

「携帯はっ!?」

「お鞄の中に入ってるよ。怖いから、消しときなさいって…」

典子のバッグに入っている携帯の電源を入れると、次々にメールを受信する…その数、1000件以上!?

アダルトサイトのスパムに、普通のアドレスもある…開いてみると、典子への誹謗中傷や、性的嫌がらせの嵐…突然鳴った着信音に、思わず画面を見詰めた。

…今時、公衆電話?

「…はい」

「……あれ?…典子ちゃんの電話…だよねぇ?」

「そうだが…誰だ、お前?」

電話の向こうで、やっぱりそうだってと騒ぐ若い男達の声が、癇に障る。

「ねぇ、典子ちゃんは?タダでやらしてくれるって本当?」

「はぁ!?何言って…」

「アンタも客?なぁ、どうだった?サイトの通り?」

「サイト?」

「携番もアドレスも、写真も出てたろ?半信半疑だったけど、マジで…」

「どこのサイトだ!?」

俺は携帯を握り締めて、吼えていた。

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