第29話
9月から10月に掛けての週末に行われる、関東大学男子バレーボール1部秋季リーグ。
12チームによる1回戦総当たりで、毎日2コート×3試合…最終成績によっては、2部チームとの入れ替え戦が行われる。
まだまだ暑さの残る早稲田記念会堂のコートに、玉置が典子の乗った車椅子を押して現れると、アリーナがザワリと騒いだ。
背中にバレー部のロゴの入った皆と同じジャージを着て、首から関係者パスを下げた典子は、車椅子の上で目を伏せボンヤリと座っている。
迎えた試合前のコートで練習していた面々の方が、1ヶ月振りに会う典子に緊張していた。
玉置がベンチの横に車椅子を停めると、俺は典子の前に屈み込んで手を握った。
「…ノン、わかるか?顔、上げろ」
ゆるゆると顔を上げ、無表情のまま俺の顔をボンヤリと見る典子の手は、緊張の為に強張っている。
「…怖いか?」
キュッと手が握られ、俺に微かに頭を振る…やはり今日は、かなり緊張している様だ。
あれから典子は、鈍い反応しか返さない…言葉も殆ど話さず、表情も変えない。
ただ最近、興味のある物を目で追う仕草を見せる様になった。
病室には、花や果物、菓子等の見舞いの品が所狭しと並ぶ…その殆どが、バレー部員からの見舞いだった。
メッセージカードに添えられる『早く良くなって、試合を応援しに来て下さい』という言葉…。
典子の精神状態を慮り、大学は警察に届けを出さない事でバレー部の存続を決定し、事件を収拾させた。
マネージャー存続が決まった典子に、少しは刺激を与えるのもリハビリになるだろうと、武蔵先生と監督や大学の話し合いで、彼女のベンチでの試合観戦が実現したのだ。
「宇佐美君」
寺田さんが俺の後ろに立ち、典子に話し掛ける。
「来てくれて感謝する。この大会は、俺達4年生にとっては最後の大会になる…しっかりと、見届けてくれないか?」
表情の変わらない典子に少し寂しそうな顔をする寺田さんに、俺は答えた。
「大丈夫です、キャプテン…ちゃんと伝わってます。ホラ、しっかり握り返して来る」
「そうか…君には、本当に済まないと思っている……見ててくれ、宇佐美君!勝利を君に捧げる!!」
寺田さんは典子の前に屈み、頭を垂れた。
ホイッスルが鳴り、俺達はベンチの面々に順々にハイタッチしながらコートに向かう…そして、全員が典子の車椅子の前で屈むと、膝に乗せられた典子の手にタッチをした。
「…行ってくる、ノン…ちゃんと見とけよ?」
俺は典子の両手を軽く握ると、コートに向かった。
…肌から伝わって来る熱気、眩しい程に明るい視界…床を走る足音に、ホイッスルの音…そして、バシッという音と共に沸き上がる歓声…。
私の手を包む、柔らかな優しい手…絡まる細い指先を、私はボンヤリと見ていた…。
これは、茜の手…いつも私を支えてくれている、強く美しい親友の手だ。
そう…病院に茜が来て、着替えて車に乗せられた。
到着した場所は、何だか一杯人の居る場所で…ザワザワしていて…病院とは全然違っていて怖かった。
でも…いつもの暖かい大きな手に包まれて…安心して……あの手はどこだろう?
「ホラ、典子!?和賀さんが打つわよ!!」
茜の声に、彼女の指差す方向に視線を向けた。
コートに立つ『YOUZAN』と胸に書かれた黒いユニフォーム…一際背の高い和賀さんが、寺田さんの上げるトスに合わせてステップを踏む。
力強い踏み込みの後、彼は跳び上がる…そう、文字通りあの人は『飛ぶ』のだ…背中に羽根が生えている様に!
見上げる長身と高い跳躍力、長い滞空時間に誰もが息を呑む…そして、躰をしならせ長く逞しい腕から放たれるスパイク…決まった途端に、会場全体がワアッと沸いた!!
「凄いわっ!和賀さん!!」
「そうですよぉ!!和賀さんはぁ、やっぱりぃ素敵ですぅ!!松本さんとのぉコンビだとぉ、もっとぉ凄いんですよぉ!!」
キャアキャアと手を取り合いはしゃぐ茜と出川さんの横で、私はじっと和賀さんの姿を追った。
明るいコートの中でプレーをする和賀さんは……皆の歓声を浴びる和賀さんは……何だか…酷く遠い世界の人の様で……手の中に残っていた温もりが…徐々に消えて行った。
「刺激はあったみたいだね…十分過ぎる程に」
翌日の試合会場で、病院に迎えに行った玉置から、典子は連れて来れなかったと言われ、俺は武蔵先生に電話を入れた。
「疲れさせてしまいましたか?」
「まぁね…それもあるんだろうね。和賀君、試合は?」
「これからです」
「帰りに、こっちに寄れるかい?」
「ぁ…ちょっと難しいと思いますが…何かあったんですか、先生!?」
「ん~、まぁ…今は、試合に集中した方がいい。何とか今週時間作ってくれればいいから」
「…わかりました」
その日の試合は、昨日とは打って変わり精彩を欠いた物だった。
試合後の大学に帰っての反省会、次の対戦相手への作戦等のミーティングを終え、自宅に帰ってシャワーを浴びてから俺が典子の病院に向かう準備をしていると、部屋の窓を叩く音がする。
「…浩一…どうした?」
「いいか?」
「あぁ…でも、時間ねぇんだ」
「…どこか行くのか?」
「あぁ、成城に…」
明らかに機嫌の悪い松本が、ズカズカと部屋に入ると俺の前にドカリと座り込んだ。
「要…何だ、今日のプレー!?」
「蒸し返すなよ…お小言は、ミーティングだけで沢山だ」
「姫に聞いた…お前、試合の前に…病院に電話したんだってな?」
「…」
「いい加減にしろよ、お前っ!?」
「…」
「今が、一番大事な時だってわかってるのか、要!?スカウトだって、注目して見てるんだぞ!!」
「…あぁ」
「だったら、病院には行くな!!」
「え?」
「行くんじゃない…試合期間中は、集中しろと言ってるんだっ!!」
「…」
「要ッ!?」
「……出来ねぇ」
松本が怒りに燃えた目を俺に向ける。
「…だから反対したんだっ!!」
「…」
「彼女は、お前の足枷にしかならない!!」
「浩一ッ!?」
「思い出せ、要!!お前の夢は!?俺達の夢は何だっ!!」
「…」
「大学で活躍して、プロになって…その先にある全日本に、オリンピックに行くんじゃなかったのか!?」
「……俺が…本当にプロで通用するかどうか…お前だって、もうわかってんだろうが…」
「諦めるのか!?諦め切れるのか!!」
「…」
「……彼女の為か?」
「…言わせるな」
「クソッ!!」
松本は腹立ち紛れに、俺の部屋の床を殴った。
「…浩一」
「……お前…俺が何故自分の腰にメスを入れないか…わかってるのかっ!?」
「…」
「俺の躰は…もうじきバレーが出来なくなる……持って、後1年…いゃ、セッターに復帰したら半年かもしれない…その前に、お前に思い切り打たせて、プロへの道筋を付けて…お前の新しい女房役を育てる為だろうがっ!?」
「…」
「その為に温存して来た!!次代のエースになるお前の為にッ!!」
「…」
「お前をプロにする為だ……俺の果たせなかった夢を…お前に叶えさす為にッ!!」
「…俺に…自分の夢を託してんじゃねぇよ…」
「……お前…いつからそんな風になった……お前の一番は、いつだってバレーだった筈だ!!どんな女と付き合っても、それだけは変わらなかった筈じゃないのか!?」
「…典子は、今迄の女共と違う」
「どこが違う!?タイプが違うからか?障害があるからか!?」
「…違う」
「じゃあ何だっ!?」
「何なんだろうな…俺にも、はっきりわかんねぇ…」
「お前…そんな物の為に…」
「違う、浩一…わからねぇのは、この気持ちに名前が付けられねぇって事だ。気持ちの方は、ハッキリしてる」
「…」
「俺は典子を手離せねぇ。どんな事があったとしても…例え、典子が嫌がったとしても…」
「それは、彼女がお前から逃げ続けるからだ…何故わからない?お前は、逃げる兎を追い掛けているだけだ…捕まえれば、いつもの様に醒めてしまう!」
「違う…」
「違わない!!」
「浩一…お前は、玉置にそんな気持ちになった事がないのか?」
「…」
「俺は典子を…食い尽くしてしまいたいと思う事がある……アイツが本気で俺から逃げるなら…俺は典子を…殺しちまうかもしれねぇ…」
「…お前…馬鹿だろ?」
「全くな……だがな、躰の奥底から典子が欲しいと叫ぶんだ。もうアイツを抱いて、躰も手に入れてる…アイツが逃げ様としても、心の底では俺に惚れてるのもわかってんのにな…」
「…」
「…狂ってると思うか?」
「…大馬鹿野郎が…」
俺は荷物を抱えると、松本に笑い掛けた。
「まだプロへの道を完全に諦めた訳じゃねぇ…だがそれも…典子あっての事なんだ」
「大丈夫だったのかい?今日は来れないって…」
「まぁ…何とか。気になりましたんで…何があったんです?」
いつもの様に、病院の武蔵先生の部屋を訪れると、遅い時間にも関わらず彼は部屋で珈琲を飲みながら専門書と格闘していた。
「昨日帰って来てから…ずっと泣きっ放しでね」
「何で又…?」
「こっちが聞きたい…会場で何かあったかい?」
「いぇ…緊張はしてましたけど…ベンチで観戦していただけです」
「そう…じゃあ、試合を見て…色々思い悩んじゃったかな?又意識的に寝ようとするんで、止めたんだけどね…」
「先生…今日、典子の所に泊まってもいいですか?」
「それで、その荷物か…でも、添い寝だけだよ?」
「わかってます。アイツ、俺が一緒に寝てやらねぇと、安心して寝れねぇし…」
「まぁね…だから、依存したくないって余計に思うのかもしれないけど…加減が難しいね。彼女の父親との約束は、話したのかい?」
「いぇ…」
「そうか…今度いらっしゃるそうだから、彼女には父親から話して貰おうか?」
「…えぇ。俺からも話しますが…親父さんの口からも、話して貰った方がいいでしょうね」
典子の病室に行くと、ベッドの横のテーブルの上には夕食の盆が手付かずで乗っていた。
「…ノン」
枕元のライトを点けて呼び掛けると、少し眩しそうに見上げた瞳が濡れていた。
「又泣いてたのか、お前…」
フィと視線を避ける様に寝返りを打つ典子を、覆い被さる様にして覗き込む。
「…何で今日…来なかった?」
「…」
「お前が来なかったから、ズタボロだったんだぞ?」
驚いた様に見上げる典子に透かさずキスをすると、又クルリと寝返りを打たれてしまう。
…昨日と違い…反応が早い。
「飯、食ってねぇだろ。ホラ、起きて食え」
フルフルと頭を振って布団に潜ろうとするのを、電動ベッドの枕元を上げて強引に座らせる。
「駄目だ…ホラ」
テーブルをセッティングして、夕食の乗った盆を置いてやる。
「温めるか?」
眉を寄せ頭を振る典子を睨み付け、俺は彼女の頭に手を添えた。
「いい加減にしろよ、お前…折角点滴も取れたのに!そんなんじゃ、いつ迄経っても退院出来ねぇぞ!?」
我身を抱き締め涙を流す典子に、ハタと気付いて詰問する。
「まさか、お前……俺に依存しねぇ為とか…いうんじゃねぇだろうな!?」
典子が…自分の腕に爪を立てた。
「ふざけんなよッ!!死ぬ気かっ、テメェッ!?」
彼女の手首を捻り上げ、頭の上に縫い留める…デジャヴュ…以前にも、こんな事をした気が…。
「お前が死んで、俺が喜ぶとでも!?遺された者の気持ちを、考えた事があるのかっ!?ノンッ!!」
「…」
「…お前だけを…逝かせねぇ…」
「…」
「やっと親父さんが折れて……俺が親父さんに認められる人間になったら…ノンを幸せに出来る男になったら……イタリアに迎えに来いって言って貰えたってのに!!その前にお前が死んじまったら、何もかも仕舞いじゃねぇかッ!!」
「…」
「俺も一緒に死んでやる……お前の居ねぇ世界なんて…考えられねぇ…」
涙を流す典子に口付ける…柔らかな唇を食み歯列を辿り、上顎を擽る様に攻めるとヒクリと反応して顎を上げる。
頭の上に縫い留めた腕を解放し、華奢な躰を抱き締めると……俺の腹の虫が大きな音を立てた。
「……悪ぃ…晩飯、まだなんだ…」
驚いて見上げる瞳に訴える。
「お前が食わねぇなら、俺も一緒に我慢…」
突然ドンと胸を押され、典子は盆の上に乗った茶碗に手を伸ばした。
「ありがてぇ…死にそうだったんだ!」
ニヤリと笑って鞄から巨大な弁当箱を出す俺に、典子は柔らかな優しい表情で溜め息を吐いた。
夜中、俺の腕の中から微かなハミングが流れる…『My Favorite Things』…息継ぎと一緒に典子は鼻を啜った。




