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第28話

夏休みが終りを告げる頃、監督から男子バレーボール部の存続が決まったと発表があった。

しかし、典子の処遇に関しては何も語られる事はなく、皆の疑心暗鬼な表情が晴れる事はなかった。

それでも俺達は、目の前の秋季リーグに向けて追い込みを掛けなければならず…モヤモヤとした気持ちを打ち払う様に練習を重ねた。

久々の休日、いつもの早朝のバイトを終えランニングに出掛け様とした俺は、聞き覚えのある声に呼び止められたのだ。

「…和賀」

「コーチ!?どうしたんです、こんな早くに?」

「一緒に来てくれないか?」

「…どこに…です?」

「君が、思ってる所だよ」

そう言って、井手さんは車の助手席のドアを開けた。

俺は黙って井手さんの車に乗り込んだ…しかし、成城に向かうと思っていた予想を裏切り、車は都心に向かって走り出す。

「…病院じゃないんですか?」

「違うよ…駒沢に行くんだ」

「駒沢?」

「知らなかったのか?典ちゃんの…自宅に行く」

「退院したんですか!?」

「いや…一時帰宅というか…」

「連れ出されたんですか!?」

「まぁね…鷹栖先生が、連絡をくれたんだ」

「ったく…何考えてんだ!?あのクソ親父!!」

「……イタリアに…連れて行く積りなんだろうな…」

「えぇっ!?」

「9月にイタリアに渡られるんだ。あちらのクラブチームとの契約が、正式に整ったらしい」

「大学は!?」

「元々、半期の契約だったみたいでね。僕も大学に確認して…驚いたよ」

「だけど…典子は…」

「今は…宇佐美先生の言いなりだろう。起きていても、虚ろな状態らしいから…」

「…何が…あったんです?」

「…監督と一緒に面会に行く少し前から、様子がおかしくなって来たらしくてね。躰にも影響が出始めて、意識的に寝てしまおうとするらしい。鷹栖先生が寝ない様に言うと、今度は寝れなくなってしまって…ずっと夢現(ゆめうつつ)の状態だそうだ」

「…そんな状態の典子を、連れ出したんですか…」

「いつもの様に抵抗しないからね…言葉も余り話さないみたいで…」

駒沢オリンピック公園に程近い典子の家に到着し、玄関のドアホンを鳴らした俺達は、出て来た典子の父親の穏やかな表情に毒気を抜かれた。

「どうしたんだ、井手…こんなに早く?」

「宇佐美先生…典ちゃんは!?」

「中に居るが…まぁ、入りなさい…2人共」

玄関に入った途端、俺は正面に掛けられた大きな写真パネルに釘付けになった。

振り向き様に投げ掛けた、輝く笑顔…その黒目勝ちの大きな瞳に柔らかなウェーブの掛かった髪、今にも喋り出しそうな生き生きとした表情…。

食い入る様に写真を見詰める俺に、典子の父親が言った。

「…典子の母親だよ」

通されたリビングには、幾つもの段ボールが積み上げてある。

「あちらに行かれる準備ですか?」

「あぁ…この家は、処分する事にしたんだ。妻の姉夫婦が買い取りたいと言ってね…」

そう言って、典子の父親は目を細めて部屋を見回した。

年代物の古い家具や大量の本…そして、其処彼処に掛けられた典子と同じ顔の母親の写真…。

「妻の両親の荷物は兎も角、私と典子の荷物は処分して行かないとね」

「…典ちゃんは?」

「部屋に居る…さっき起きた様だから…」

そう言うと彼は立ち上がり、廊下の一番奥にあるドアをノックして部屋に入った。

「典子、入るよ?」

南向きの明るい部屋…全体の雰囲気は柔らかいのに、置かれてあるのは本棚に机、そしてベッド…それ以外の物が全くない、やはり殺風景な部屋。

典子は本棚の前の床に座り込み、何かを頻りに裂いていた。

「…典子…それも捨ててしまうのか?」

少し寂しそうな口調で話す父親の、その言葉も耳に入らない様子の彼女の手元を覗き込んだ俺は驚いた…典子が裂いていたそれは、卒業アルバムだったからだ。

思わずその手を押さえると、ヒクリと小さく痙攣し…ゆるゆると自分の身を抱く様に包帯の巻かれた両腕を掴み…典子は、その包帯を分け入る様に指を入れ、ギリギリと爪を立てた。

巻かれた包帯に、見る見る紅い血が滲み広がって行く。

………壊れた…。

彼女の腕を解かせる様にして抱き締めて頭を抱き込んでやり、鈍くむずかる典子の耳元に呼び掛けた。

「…ノン…俺だ、わかるか?」

抵抗して緊張の為強張っていた彼女の躰の力が、フッと抜ける。

……大丈夫…まだ、間に合う……まだ、取り戻せる…。

「…そうだ、ノン……俺だ……寂しかったか?」

顎を上げてやると、典子はボンヤリとした顔と眼差しで俺を見上げ、気だるそうにホゥと溜め息を吐いて俺の胸に凭れ掛かる。

「…やはり、君には触れさせるんだな…誰の手も嫌がって、腕の治療も、風呂さえも入らせないというのに…」

「……何で…」

「…」

「…何で、こんなになる迄、放っといた!?何故、俺を呼ばなかった!?」

「…」

「アンタ、娘を殺す気かッ!?」

いつもなら、大声を出すと怯える典子が…俺の腕の中に居るとはいえ、父親と俺との言い争いに何の反応も示さない…。

「…放って置いた訳ではない、況してや愛する娘を殺そうとする親がどこにいる?」

「…」

「…私は…自分の力で典子を治してやりたかっただけだ」

「わかってんだろう、アンタ…典子の主治医に言われた筈だ!」

「…認められると…思うか?」

怒りを顕わにした典子の父親が、憎々しげに俺を睨み付けた。

「どこの馬の骨ともわからん奴が、私のノリコを…騙して、奪って行こうとする…」

「騙してなんてねぇ!」

「私が育てた…小さくて…障害を持ってしまったノリコを…慈しんで、守って来た…」

「そうだ、アンタが育てた…典子は、アンタの娘なんだ、先生!!」

「…」

「アンタの奥さんは…典子が生まれた時に亡くなったんだろ?」

「…」

「典子は、アンタの娘だ……奥さんじゃねぇ」

「……お前に…何がわかるっ!?」

燃える様な眼差しをぶつけて来る典子の父親に、俺は真っ正面から吼えた。

「あぁ、わからねぇ!!だけどなっ、それが典子を傷付けていい理由には、なんねぇだろうがッ!?」

「…クッ!?」

「アンタも、モニタリングしてたんだろ!?幼い典子の言葉も、聞いたんだろ!!」

「…」

「何で母親と同じ名前なんて付けた!!何でコイツ自身をちゃんと見て、育ててやらなかったんだ!?アンタが…いや、アンタ達が、典子を追い詰めた結果がコレだ!!」

ギリギリと歯軋りをして、俺を射殺さんばかりに睨んでいた典子の父親が、ハァと息を吐くとベッドに崩れ落ちた。

「……あの医者にも…私が典子を……虐待していると言われた…」

「…」

「井手…お前も、そう思うか?私は典子を、愛して来た積りだ。虐待等…考えられない…」

「…宇佐美先生」

「だが…典子が病んでいるのは、私にだってわかる…」

ゆっくりと立ち上がり俺の隣にしゃがむと、典子の父親は…そっと娘に触れ様とした。

「…典子」

それまでボンヤリと腕に収まっていた典子が、モゾモゾと動き出し…やおら自分の腕に爪を立てた。

「…大丈夫だ、ノン…」

その手をそっと腕から外して握り込んでやると、強張った指先から徐々に力が抜けて行く。

「…今の私には、典子に触れる事さえ儘ならない…」

「……典子は、俺が預かる」

「…」

「退院したら、ウチに引き取る…」

「…君が…」

典子の父親の手が、俺の肩に掛けられた。

「…典子に…プロポーズしたというのは本当か?」

「付き合うと決めた時に…申込みました」

「…典子は、承諾したのか?」

「…まだ、答えを貰っていません」

プロポーズの答えどころか、好きだという言葉も貰っていない…流石にそうは言えなかった。

「……許さない」

「アンタに許して貰えなくてもいい…典子は既に…俺の女だ!!」

「…貴様ッ!!…ッ!?」

両手で俺の襟首をねじ上げる父親の腕に、典子は突然噛み付いた。

抵抗しない俺への助太刀(すけだち)の積りだったのか、それとも驚いた咄嗟の行動だったのか…兎も角、父親の腕に噛み付いたまま離さないのだ。

「…ノン、いいから離せ…俺は大丈夫だ」

俺の襟首を離して尚も父親に噛み付いたままの典子に囁くと、彼女はやっと父親の血の滲んだ袖から離れた。

「大丈夫ですか、宇佐美先生?」

「あぁ…大事ない。しかし…典子は、君に敵対する者に対して、こんな行動も取るのか?」

「知りませんよ…初めてでしたし…」

そっと頭に手を置いてやると、典子は再び俺の胸に凭れ掛かる。

「さっきの話……典子も了承しての行為なのか?」

「当然です」

「それでも、私はお前を許さない!」

「…」

「そうだろう!?学生の分際で…結婚なんて戯言迄…」

「戯言なんかじゃねぇ!典子にプロポーズしたのは、俺の決意であり覚悟だ!!」

「…」

「典子は、結婚はおろか恋愛もせずに一生を過ごす積りでいた…誰にも頼らず、1人で生きて行く為だけに大学に入ったと…父親であるアンタにも遠慮して生活してた。何を食べても砂を食べる様な味覚障害になって、人の笑顔を信じられねぇで、人前で泣く事も出来ずにいた。そんな典子が…俺みたいな無愛想で、がさつな男を好きになったんだ!!男としちゃあ、応えてやりてぇって思うだろう?アンタだって、そうだったんじゃねぇのか!?」

「…私が…典子の母親と出会ったのは、社会人になってからだ」

「俺が、典子を養えねぇから、反対してるって言うのか?」

「…」

「金を稼いで養う事だけなら、今すぐにでも出来る…だが、それじゃ典子は納得しねぇだろうからな」

「なら、典子の納得する…そして私が……納得する男になって、典子を迎えに来てみろ!?」

「…」

「典子は、イタリアに連れて行く」

「アンタ、まだ…」

「今すぐではない…典子の状態が良くなったら、典子はイタリアで生活させる」

「…」

「それとも、君は…イタリアに典子を迎えに来る自信がないのか?」

「そんな事、ある訳ねぇだろ!?」

こん畜生と思いながら、煽る典子の父親の瞳に俺を試す歓びの光を見付け、俺は思わずニヤリと笑い返した。

「わかりました…典子が完治したら、イタリアに送り出します」

「和賀!?」

「大丈夫ですよ、コーチ…直ぐに奪い返しに行きます」

「言って置くが…私が認めない限り、典子を渡す積りはない」

「条件は?」

「…典子を幸せに出来るかどうか」

「わかりました…では、一時お嬢さんをお預かり致します」

「あぁ…宜しく頼む。出国前に、一度親御さんにもお会いしたい」

「いつでも、店に来て下さい。典子が…バイトをしている店です」

俺は典子を抱え上げ、父親に一礼すると井手さんと共に彼女の家を出た。

「お帰り…論破して来たかい?」

病院に到着すると、ニヤニヤと俺達を迎えた武蔵先生に、宇佐美邸での出来事を報告した。

「論破って言うんですかね、アレ…」

「いや、僕も井手さんも説得したけど…もう理屈じゃない所迄来ていてね。ホラ、君と彼女の父親って…何だか似てるからさ。相通じる所があるかと思って…」

「決裂したら、どうする積りだったんだよ…全く…」

「でも、良かったじゃないか…取敢えず認められた様で。所で、彼女の事なんだけどね」

「何ですか?」

「高校時代から、父親の病状も把握してたみたいだね。それと…彼女の夢の話だけと…叶ったって言ったんだ」

「え?だって…」

「『お嫁さん』は、幼い頃の夢だったらしくてね……彼女の現在の夢と違ったんだよ」

「じゃあ、今の典子の夢って…」

「『好きな人に告白する』事だったらしい」

「……言って…貰ってねぇですよ」

「いや…言ってるんだ。退行を起こしていた時に……君に『大好き』って言ったんだ。彼女も、ちゃんと覚えていた。夢が叶って、父親や君への負担を考えると…生きて行く気力を失ってしまったんだろう」

「そんな…」

「意識的に寝ようとするのを止めた…昏睡状態になる恐れがあったからね。すると、今度は寝れなくてね…精神が参ってる上に疲労困憊(ひろうこんぱい)でヘロヘロ状態って言ったらわかるかな?」

「…えぇ」

「バレー部の監督の話も…多分、悔しかったんだと思う」

「…」

「それとね、彼女の現在の一番の心配事…」

「何ですか!?」

「君に、依存してしまう事だよ」

「!?」

「恋愛っていうのは、相手を思いやり慈しむと同時に、相手を束縛し依存もするものなんだけどね…恋愛にトラウマ抱えてる彼女には、凄く怖いんだろうね」

武蔵先生は口元で指を組み、上目遣いで俺の顔を見上げた。

俺には、それが『さぁ、これから君はどうするんだ?』と挑まれている様に思えた。

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