第26話
顔を照らすオレンジ色の光に、私はゆっくりと瞼を開けた。
見慣れぬ風景、殺風景な部屋…ただ、背中にはいつもの温もりがあり、私は逞しい腕に背中から抱き込まれていた。
少し躰を動かすと、首筋から暖かい声が掛けられる。
「…ノン…駄目だ。あんまりそっちに行ったら、ベッドから落っこちるぞ」
…何?
寝返りを打とうとすると、和賀さんは少し躰をずらし、反転する私の躰を支えてくれる。
…今…何て言ったの?
何も言わずに私の背中に手を添える和賀さんを見上げると、不思議そうに見下ろし柔かな笑みを返してくれた。
「ん?…どうした、ノン?」
「…」
又だ…懐かしい、その名前…それは……。
「……ノン…夕食の前に、風呂に入るぞ」
「……ぇ?」
和賀さんは、私に覆い被さる様にして手を付くと、そっと自分の唇に指を立てた。
そのまま起き上がり部屋のドアの鍵を掛け、2人分の着替えとタオルを用意すると、彼は私を軽々と抱き上げて洗面所へのドアを潜り抜け…私の顔をマジマジと見詰める。
「…ノン…」
「…何故…その名前…」
「…帰って…来たんだな?」
「え?」
訳のわからない呼び掛けに戸惑う暇もなく、噛み付く様に口唇を貪られ気が遠くなりそうになり…気が付けば、作務衣の様なパジャマを開けられ、性急な愛撫が施される。
我に返り慌てて拒もうとすると、私の口を手で塞ぎ、耳元に熱い吐息と共に囁かれた。
「…こんな場所で、悪ぃと思ってる…だが、あっちの部屋は…カメラとマイクで監視されてんだ…」
「…」
「…悪ぃ…ノン…理由は、後で話す……余裕…ねぇんだ…」
首筋にキスをされて腰を引き寄せられると、腹の辺りに大きな固い物が押し付けられた。
「……嫌か?」
その熱い声にブルリと全身が震える…一体、誰がこの状況を拒めるというのだろう?
和賀さんが…全身で私を求めてくれている…そう思うだけで、震えが来る程嬉しかった。
必死で頭を振ると、あっという間に着ている物を剥ぎ取られ、バスルームに押し込められる。
アイボリー一色の妙に明るいバスルームに全裸のまま2人で居ることが気恥ずかしく、壁に向いて立ち尽くしていると、背中から暖かい大きな手が私の腕を撫でた。
「…震えてる」
「…」
「怖いか?」
再び頭を振ると、クルリと反転させられ包み込む様に抱き締められた。
濃厚な口付けと躰中を弄る大きな優しい手…全身に這わされる舌と淫猥な水音…。
和賀さんの唇が私の躰を啄む度に、そのゾクッとした感触に私は怯えた。
灼熱の杭が私に穿たれ、荒々しい息遣いが交差する。
初めての時の、息も出来ない様な苦痛ではなかったが、身をジワジワと裂かれる様な鈍痛と、内臓が引き摺り出される様な感覚…。
強張る私の頭を包み込む様に抱き締め、息を荒げた和賀さんが優しく尋ねる。
「…苦しいか?」
「……」
「ノン…辛いなら…」
「…平気…です…」
「…ノン」
「…本当に…大丈夫…」
貴方の優しい腕の中で、貴方に求められているのだから…。
貴方に与えられる物なら…どんな苦痛でも、それは私の喜びなのだ。
ただ、時折沸き上がり私の躰を侵食しようとする、このゾワゾワとした疼きが、私には堪らなく恐ろしい…。
私の意識を絡め取り、彼方へと飛ばそうとするこの感触…。
激しくなる律動と共に、じんわりと躰の中に広がる熱……そして彼は、続け様に何度も私を抱いた。
段々…最初のぶつける様な烈情とは違う、まるでパンドラの箱を抉じ開ける様な、和賀さんのねっとりとしたその行為に私は慄いていた。
箱の中にあるのは『厄災』ばかりで、『希望』も『未来』もある筈がない事を、私は知っているから…。
「…何で我慢してる?」
「…」
「…ノン」
「……そんな資格…ない…」
時間が経つ程に、私は思い出していたのだ…あの体育館の倉庫で、縛られ目隠しをされ、猿轡をされて…全裸で転がされていた事を…。
そして、あの時滝川さんが言った言葉を…。
「どういう事だ?」
「…」
「…ノン、思い出したのか?」
「……本当は和賀さんに愛される資格なんて…私にはない…」
「…俺を信じろ」
「…」
「あれは、滝川が勝手に言った事だ」
「…」
「あの倉庫でも…お前は、写真を撮られただけで…何もなかった」
「…」
「その写真も、全員携帯から削除した…もう、残ってねぇから…」
「…」
「返事しろ、ノン…」
「…私は…」
「何だ?」
「……ここに居て…いいの?」
「当たりめぇだろ!?馬鹿娘!!」
「…」
「…愛してる…ノン…」
髪を掻き上げられ、額から頬…そして唇へと穏やかな口付けが与えられ、私は彼の腕の中でゆっくりと意識を飛ばした。
又、無茶な抱き方をしてしまった…だが後半は…典子が意地を張って快楽を受け入れ様としなかったからだ…。
意識を飛ばした彼女の躰を綺麗に清め、そっとベッドに寝かせると、俺は武蔵先生の部屋に向かった。
「…戻ったんだね?」
「…はい……あの…」
「あぁ…気にする事ないよ。想定の範囲内だから」
「…」
「産婦人科、受診させるかい?」
「…」
「今は?」
「気を失ってます」
「点滴で、少し深く眠らせて…洗浄だけして貰おう。さっき連絡だけは入れといた」
若いからねと武蔵先生はクククと笑いながら言った。
「で、記憶は?」
「全て、思い出している様です」
「説明したのかい…色々?」
「あの日の事で、俺の傍に居てはいけないと感じていた様なので…あの日あった出来事は、説明しました」
「どこ迄?」
「強姦されてない事と、写真は皆の携帯から削除された事。それと、滝川が言った賭けの話は、奴が勝手に言った事だと…」
「バレー部の緊急部会の話は、してないんだね?」
「しませんよ!」
「だが、何れは耳に入る…井手さんの話じゃ、学校側も決断を迫られている様でね」
「彼女の親父さんと、学校の話し合いは…?」
「宇佐美さんは、彼女に大学も辞めさせて、警察に届けたい意向だったらしいけどね…井手さんや学長の説得で、先ずは本人の意向を聞く事になったらしい」
「…典子の判断に任すと言う事ですか?」
「そうなるだろうね」
「…」
「9月に大会があるんだって?」
「えぇ…秋季リーグがあります」
「その大会の参加にも関わるからね…回答を迫られてはいるんだ」
「…」
「彼女の決定を…真っ向から反対しちゃ駄目だよ?」
「…だが、典子がどんな決定をするのか…予想出来ます」
「彼女の本心かどうか…聞き出して上げないと」
「…」
「それと、君自身の立ち位置をはっきりさせる事」
「…わかりました…だが、俺がそれを聞き出す時間がありますか?」
「明日からの君の事…話したのかい?」
「いえ…まだ…」
「記憶が戻る迄…そういう条件で、彼女に付き添ってたんだろ?」
「確かに…彼女の親父さんとは、そういう約束でしたが…離れて、本当に大丈夫なんですか?」
「流石に暴れる事はないと思うけどね…又、食事摂らないって事にはなるかもね」
「駄目じゃねぇか…」
「そ、駄目なんだよ。宇佐美さんは、そこの所がまだ理解出来ない…っていうか、したくないんだね…きっと…」
「…」
「急に姿を見せなくなると不安がるから…それとなく、知らせて置いた方がいいね」
「何て言うんです!?父親から、記憶が戻る迄限定で面会を許されてるって!?明日からは、もう面会出来ねぇって!?」
「…まぁ、ね」
「言える訳…ねぇじゃねぇか…」
「取り敢えず、バレーの練習が始まるって事にした方がいいかもしれないね」
「…わかりました」
「問題は、その先なんだ…宇佐美さんとの面会、そして学校関係者との面会だな」
「…」
「君が一緒じゃないからね…彼女、自分自身を追い込まなきゃいいんだがな…」
病室の前で、看護師に付き添われ車椅子に乗った典子に会った。
「どうした?」
「…」
何も答えない典子に代わり、看護師が俺に微妙な表情を見せて言った。
「…産婦人科からの帰りです」
「……眠らせてから、行くんじゃなかったんですか!?」
「点滴を受けて頂けなくて」
「…私が…お断りしました」
蚊の鳴く様な声で答える典子の車椅子に手を掛け、俺は看護師に会釈をすると彼女を病室の中に運び、ベッドに座らせた。
「…悪かった…俺が、節操ねぇから…お前に嫌な思いさせたな」
フルフルと頭を振ると、典子は俯いたまま両手を握り締めた。
「寝てしまいたくなかったんです。色々…聞かなきゃいけない事があったから…」
「何が聞きたい?」
「…全て……一体、あの時何があったのか…あの後、何があったのか…」
白くなる迄握り締めた手が、足の上でカタカタと震えていた。
俺は自らもベッドに上がると、典子の躰を抱き上げ自分の胡座の中に座らせ、後ろから驚く彼女の手を握り込んでやった。
「…和賀さんっ!?」
「この体勢じゃなきゃ、話してやんねぇ」
「…」
「あの日の事、俺も聞きてぇ…お前、食堂で俺と別れてから、部屋に戻ったのか?」
「はい…少し疲れてて…ベッドに入ってグッスリ寝入ってしまった様で…気が付いたら、あんな事に…」
「犯人…見てねぇんだな?」
「…はい」
「そうか……あの後、浩一と出川と一緒に『清泉寮』に行って、出川から花村の後ろで糸を引いてる人間が居るらしい事を聞いてたんだ」
「…」
「話を終えて宿舎に帰ろうとした時、受け取ったお前からの一斉メールに…お前の写真が添付されてた」
ビクッと痙攣する躰を抱き込み、そっと撫でてやる。
「寝かされていたのが、運動用のマットだと直ぐに気付いて…慌てて体育館の倉庫に行った。そこから先は、覚えてるな?」
「…はい」
「あの後、お前は気を失って…呼吸も上手く出来なくて、救急車で山梨の病院に運ばれた。自発呼吸が出来る様になって、色々検査をした後に、この病院に転院したんだ」
「…」
「中々意識を取り戻さなくてな…目覚めた時には、子供返り起こしてて…医者も看護師も…コーチや親父さんの事も怖がって、大変だったんだ」
途端に飛び上がる程ビクッと痙攣し、典子はオズオズと俺を見上げた。
「……父が…帰国してるんですか?」
「まぁ…仕方ねぇ。ずっと、意識飛ばしたまんまだったしな」
「…」
「で、担当医に呼ばれて…この5日程、俺が面倒見てた」
「…済みません…又、ご迷惑を…」
「いや…正直、楽しかった」
「え?」
「子供の頃のノンは…素直に俺に甘えてくれたからな…それに、お前の笑顔も見れた」
「その名前…」
「あぁ…『典子』って呼んだら、『ノンちゃんだよ!』って言い直しさせるんだ、お前…」
「…済みません」
「子供の頃から、名前に違和感持ってたんだな」
「…」
「どっちの名前で呼んで欲しい?」
「……どちらでも」
「ノン」
「…はい」
「明日から…しばらく来れねぇと思う」
「…」
「盆開けから、練習が再会されるからな…ここでもマシーン使わせて貰ってたけど、少し集中して躰作らねぇとなんねぇからな」
「私は、もう平気ですから…練習に集中して下さい」
「あぁ…担当の鷹栖武蔵って医者は、お前の事を理解してくれてる…お前の味方だから」
「…はい……あの…」
「ん?」
「…父が……何か、失礼な事を…しませんでしたか?」
「いや…別に」
「…」
「安心しろ。娘を持つ父親としては、当然の対応だろ?」
俺の胡座から転がり出ると、典子はガクガクと震えながら俺に向かって土下座をした。
「もっ…申し訳…ありませんっ!!」
頭を擦り付けて謝罪するその反応に驚きながらも、そっと彼女を抱き起こして腕に包んでやる。
「大丈夫だ…心配すんな。それよりも、早く元気になって戻って来い」
「…」
「俺の言葉を、疑うなって言ったろ?」
「…」
「俺を信じろ、ノン…お前は俺の女だ。絶対に離しゃしねぇ。例え親父さんが何言っても、これだけは絶対譲る積りはねぇから。それとな…誰が何言おうと、俺はお前の味方だから…絶対に忘れるんじゃねぇぞ!?」
「…ふぇぇ」
泣き出した典子を抱いたまま布団に入り、幼い典子にしてやった様に抱いて撫で甘やかしてやる。
「幼いお前にも、約束したからな」
「…え?」
「俺が、嫁に貰ってやるって言ったら…喜んで飛び付いて来たぞ?」
「それは…」
「…愛してる…ノン…早く元気になって、戻って来い…」
しばらくは触れる事も叶わない小さな躰を抱き締め、その柔らかな唇に…俺は貪る様にキスをした。




