第25話
病室の前に屯う白衣の一団が、俺と井手さんの姿を認めると安堵の声を上げた。
「いい所に…直ぐに、武蔵先生を呼んで来ます!」
「何かあったんですか?」
「武蔵先生が居ない間に、内科医の判断で患者に点滴を入れ様としたんですが…怯えた患者が大暴れしましてね。点滴の針を毟り取って、出血してしまって…」
「大丈夫なんですか!?」
「いぇ、出血自体は大した量でもないんですが…ただ、患者は退行起こしてますんで、余計に怯えて泣き叫ぶわ、父親が激怒して内科医を殴るわ…又それで患者が怯えて…」
「鷹栖先生は?」
「父親の方に着いてます。ここには、もうすぐ長身の青年が来るからって…君が、和賀君だね?」
「そうです」
「武蔵先生から伝言だ…患者を落ち着かせてくれって。出来れば水分を与えて、点滴をする様に説得して欲しい。それと、これは消毒綿…出血が続いている様なら圧迫止血して欲しいんだ。何かあったら、カメラに呼び掛けて…こちらで、モニタリングしてるから」
「…わかりました」
スポーツ飲料のペットボトルと消毒綿を渡され、俺は典子の病室に入った。
床に散乱した医療器具、倒された点滴台…乱れたベッドの上に典子の姿はなく、しゃくり上げる声だけが聞こえて来る。
足下に落ちていた銀のトレーに散らばった医療器具を拾い集めながら、俺は典子を捜した。
ベッドの向こう側、窓際の部屋の隅…カーテンに隠れる様にして、典子は床にしゃがみ込んでいた。
「…典子」
ビクリと痙攣し、膝頭に顔を埋めたまま、典子は激しく頭を振る。
兎小屋の怯えた兎と同じだ…少し離れた位置に同じ様にして床に座ると、俺は何も言わず静かに典子と同じ時を過ごした。
1時間もそうしていただろうか…典子の躰がユラリと傾いで、パタリと床に倒れた。
ヒューヒューという息遣い、乾いた唇…そっと指の背で唇を撫でてやると、ゴクリと喉を鳴らす。
「…スポーツドリンクあるぞ…飲むか?」
ペットボトルを見せてやると、ゆるゆると俺の顔を見上げて、典子は小さく尋ねた。
「…お兄ちゃん…誰?」
「…」
「…バレーの…人?」
「…あぁ。飲むか?」
頷く典子を起こすのに手を貸すと嫌がりもせずに身を任せたが、最早自らの身を支えるのも辛い様で、いつもの様に胡座の中に抱き込み口移しでスポーツドリンクを一口飲ませた。
「…」
ぼんやりと見上げる顔に、
「もう一口飲むか?」
と問い掛けると、コクンと頷き、口移しで喉を鳴らして飲んで行く。
余り一気に飲ませるのも腹を下してしまうのではないかと躊躇すると、見上げるポヤンとした顔の唇が動く。
「……チューだ…」
「えっ?」
「…お兄ちゃん…チューした」
「……違う」
「違うのぉ?」
少し残念そうな言葉尻と幼い物言いに、自然と頬が綻ぶ。
「…なぁんだ」
そう言って気だるそうにホゥと息を吐く典子を、そっとベッドの上に寝かせた。
「躰は?辛い所はないか?」
「さっきまでね…お腹痛かったけど…今は、あんまり痛くない」
「…そうか」
「でも…こっちの足、何か変」
そう言って左足を擦り、不安そうな表情を浮かべる。
擦る左腕に出血の痕を見付けそっと腕を取ると、再びビクリと怯えた。
「大丈夫…血は止まってる」
「…痛い事…する?」
「…」
「白い服着た人が…ノンちゃんに、一杯痛い事するの……ノンちゃんの事掴まえて…怖い事する……お父さんも…怖い顔して…喧嘩して…」
「大丈夫だ…俺が、お前を守ってやるから」
「…本当?」
「あぁ…約束だ」
「…」
「だが、あの注射で食事しねぇと、お前死んじまうんだ。痛くねぇ様にして貰うから、点滴受けてくれ…」
「……お兄ちゃん、ノンちゃんと一緒に居る?」
「え?」
典子は俺の指を握って、縋る様な視線を寄越す。
「お兄ちゃん…一緒に居てくれたら…ノンちゃん…良い子にして言う事聞く」
「…」
「…駄目…なの?」
「…典子…お前…」
「…なぁんだ……お兄ちゃんも…お母さんの…知り合いなんだ…」
寂しそうに俺の指を離すと、典子はクルリと寝返りを打ち背を向けた。
「違う!俺は、お前のお袋さんなんて、知らねぇぞ!?」
「…嘘だもん」
「嘘じゃねぇ!」
ベッドに乗り上げる様な状態で典子の躰を後ろから抱き込んでやると、彼女は少し驚いた素振りを見せたが、直ぐに甘えて身を添わせた。
「…お兄ちゃん…暖かい」
「典子…俺は…」
「…ノンちゃんだよ」
「…」
「『のりこ』って…お母さん…なんだもん」
「だが、お前の名前も…」
「お父さんは、怒るの…『のりこ』って言うのは…大切な名前だから…そんな変な言い方しちゃ駄目って。…でも…『のりこ』は…お母さんの名前で…」
「…『典子』って呼ばれるのは、嫌なのか?」
「…わかんない……でも、ノンちゃんに『のりこ』って言うのに……ノンちゃんの事…見てないもん」
やはり幼い頃から、典子は自分の名前に違和感を持ち続けてたっていうのか…。
「…疲れ…ちゃった…」
意識が朦朧とする典子に慌て、俺は天井に設えてあるカメラに向かって吼えた。
「直ぐに、点滴をお願いします!!」
恐らく廊下で待機していたのだろう、直ぐに医師と看護師が点滴を持って現れ、典子の腕を取った途端、俺の腕の中の躰が悲鳴を上げて震えた。
「大丈夫だ…俺が、こうして抱いといてやるから…」
腕の中でクルリと寝返りを打つと、典子は俺の胸に顔を埋めてシャツを握った。
腕を消毒され針を刺されると、典子はべそをかき…そのまま腕の中で寝てしまった。
どの位の時間が過ぎたのか…微睡む俺に、小さく声が掛けられた。
「…少し、いいかな?」
寝入った典子からそっと離れ、俺は武蔵先生の部屋に行った。
「良かったよ、ようやく落ち着いた様で…」
「…いつまで…あのままなんですか?」
「一時的な物だよ、多分ね。彼女自身が…現実に戻りたいと思ってくれると、戻るのも早いんだけどな」
「…」
「その為に、君を呼んだんだ」
夜中だからねと、硝子のポットから注がれたハーブティーを差し出しながら、武蔵先生はニンマリと笑った。
「典子は、自分の感情や要求という物を、一切口に出さねぇ女です。だが、幼い頃はちゃんと言えてた様で…正直ホッとしました」
「一緒に居て欲しいって言われたの、そんなに嬉しかった?」
「…先生には、わかんねぇでしょ……初めてなんですよ…あんな風に言うのも、自分から手を握って来るのも…」
俺はそう呟くと、出されたハーブティーを煽った。
「全て呑み込んで、泣くしかしねぇ女だから…何するにも、俺が掴まえて置かねぇと…」
「逃げ様とは、するんだって言ってたね」
「…」
「会った事もない母親へのトラウマは、幼い頃からあったみたいだね」
「…確かに、名前も容姿も、障害のある躰と共に嫌がってましたが…まさか、あんな小さな頃からだとは…」
「前に話した様に、吐き出さす事…そして、そのままの自分でいいんだと認識させる事が必要なんだ。父親からの言葉には、特にね」
「親父さん…どうなんですか?」
「ショックだったみたいだよ?彼女に完璧に拒絶された事も、彼女が君に心を許した事も…君がいきなり口移しで飲み物を与えるわ、抱き込んで添い寝するわで…固まってたよ」
「あれは…」
「複雑みたいだね。娘を恋人に取られる父親としても、妻を他の男に取られる夫としても…」
「やっぱり、典子に母親を重ねて見てるんですか!?」
「…まぁ、彼女もそれに気付いてた様で、一線を引いてたみたいだね。だが…親父さん、精神的に凄く依存してる」
「…」
「彼女を守れるのは自分だけだと、自分の庇護の元にしか生きられないと思ってる。彼女に近付く男は、全て排除してやると…」
「…まぁ、あの目を見りゃ…大凡の見当は付きましたよ」
「…少し…似てるね」
「はぁ!?」
「君と、彼女の親父さん…少し似てる。彼女は、何となく嗅ぎ取ったんじゃないかな?」
「…」
「難しいね…彼女の為には、一番落ち着いた反応を見せる君の元が最良だ。だが宇佐美さんに取っては、娘と君が一緒に居るのは許せない。父親から彼女を離す必要はあるが、君と一緒だと思うと腸煮え繰り返る。そんな状態では、彼を治療出来ない」
「冗談じゃねぇ!そんな事、典子が知ったら…自分の事そっち退けで、俺の前から姿を消しちまう!!」
「確かにそうだろうね」
「アンタ…典子に言う積りじゃねぇだろうな!?」
「…先ずは、彼女の治療が最優先だね。その為に、宇佐美さんを説得してる。彼も父親だからね…娘の躰の為に、要求は呑むだろう」
「…」
「大丈夫…彼女の心が治る迄、言う積りは無いよ。言う時には、ちゃんと君にも相談するから」
胡散臭げに睨む俺に、武蔵先生は笑いながら新しいハーブティーを注いでくれた。
翌日も、典子は幼い時のままだった。
そして、片時も俺の側から離れ様としないのだ。
食事も、トイレに行く時も付いて行くとごねる。
一緒に風呂に入ると言われた時には、流石に焦ったが…推定5歳の幼女と割り切って面倒を見た。
鷹栖総合病院にはスポーツ整形外科もあり、大きなリハビリ施設には筋トレやランニングマシーンも置いてあった。
武蔵先生に頼み、患者の使用していない時間帯に使用許可を取り、毎日のトレーニングは何とかこなしている。
典子は車椅子に乗って、俺のトレーニングを楽しそうに眺め、時には一緒に柔軟体操をしていたが、困ったのは、彼女が歩こうとしない事だ。
左足の違和感を訴え、普通に立つのもバランスが悪く、歩かせると多少の痛みを伴うと…幼い彼女の訴えで初めて知った。
走るなんて…激痛が伴う行為だったんじゃないだろうか…?
そう思いながらも、歩行訓練をさせようとリハビリルームに連れて行く。
折角自力で歩ける筋力が、入院して動かさない事で落ちてしまうのを防ぐ為だ。
だが、リハビリルームのバーの前で車椅子から抱き上げると、典子は毎回むずかって左足をヒョイと曲げ、床に着け様としないのだ。
「お前…又…」
「だぁってぇ…」
「だってじゃねぇよ…歩けなくなっちまうぞ?」
「…」
「後で、アイス買ってやるから」
「昨日、食べたもん…」
仕方なく床に座り、口を尖らせて拗ねる典子を胡座の中に対面で座らせる。
「歩けなくなったら、困るだろうが?」
「困んないもん…」
「何で?」
「……お兄ちゃんが…居るもん」
「…」
「ずっと…一緒だよね?」
「…一緒に居てやるってのは、そういう意味じゃねぇぞ?」
「?」
「お前が、大人になったらわかる」
プゥと頬を膨らませた典子の頭を撫でてやる…ちゃんと動かさないと…困るのは、大人に戻った時の典子なのだ。
「…典子」
「ノンちゃん!!」
「…ノン」
「なぁに?」
「お前の…ノンの夢って何だ?」
見上げた典子の瞳が、キラキラと輝いた。
「お嫁さん!!」
「…誰の?」
「ん~、わかんない」
「じゃあ、どんな衣装で結婚式するんだ?白無垢か?ドレスか?」
「えっとねぇ…真っ白のウェディングドレス!!」
「じゃあ、教会で式挙げるんだな?」
「そうだよ!」
「それじゃ、やっぱ歩かねぇとな」
「何で?」
「知らねぇのか?教会の結婚式ってのはな…バージンロードって道を、父親と腕組んで歩かなくちゃいけねぇんだ」
「本当?」
「あぁ…ちゃんと花婿の所迄歩けねぇと、花嫁になれねぇんだぞ?」
悲しそうに俯く典子の眉間を、俺は軽く弾いてやった。
「だから、一所懸命歩く練習しねぇとな?」
「…ぅん」
「ノンが…ウェディングドレス着て、バージンロードをちゃんと歩ける様になったら……俺が、嫁に貰ってやるから…」
「本当にっ!?」
パアッと輝く様な笑顔を向けられ、俺は涙が出そうになった……そうか…お前は、こんな顔をして笑うんだな…。
「するするっ、練習するっ!!」
「…」
「絶対だからね、お兄ちゃん!!」
「あぁ…約束だ」
「嬉しいっ!!」
俺の首に腕を伸ばし、飛び付く様に抱き付いて頬擦りをすると、典子は自ら立ち上がり、歩行訓練のバーに掴まった。
「疲れたか?」
何往復も歩行練習した典子をベッドに寝かせ、疲れて微睡む彼女にキスをする。
「…チューだ」
「あぁ…そうだな」
「…お兄ちゃん…大好き!」
典子はそう言って、ニッコリと笑って眠りに落ちた。




