第24話
「…回避性パーソナリティー障害…APDと言うんだそうだ」
「パーソナリティー障害って…人格障害の事ですよね?」
驚いた声を上げる松本に、井手さんが鞄から印刷された資料を取り出して俺達に差し出した。
「そうだね…人格障害って言うと患者本人のみならず、回りの人間も患者の人格を否定される様で…かなりショックを受けるらしくてね。最近では、パーソナリティー障害って言う少しソフトに受け取られる言い方をするそうだ」
松本が少し目を細めて頷き、俺の顔をチラリと眺めた。
「APDは、そこに書いてある様に自分の欠点にばかり注目しがちで、喪失感や排除されるって事にトラウマがある場合が多いらしい。だから人間関係を避けて、自ら孤独を選んでしまうんだそうだ」
俺達は、揃って差し出された資料に視線を落とした。
『APDの症状』
◆ 非難や排除に対し過敏である
◆ 自ら進んで社会的孤立を選んでいる
◆ 親密な人間関係を熱望していながら、その一方で社会的な場面に置いて余りにも引っ込み思案である
◆ 他者との交流を避け様とする
◆ 自分なんか相応しくないという感覚がある
◆ 自尊感情が低い
◆ 他者へ不信感がある
◆ 極度の引っ込み思案・臆病である
◆ 親密さを求められる場面でも、情緒的な距離を置いてしまう
◆ 非常に自己意識的である
◆ 自分の対人関係の問題について、自分を責めている
◆ 職能上に問題を生じている
◆ 自己認識が非常に孤独である
◆ 自分は人より劣っていると感じている
◆ 長期に渡る物質依存/乱用が見受けられる
◆ 特定の思い込みに囚われる
「…まんま、だな…」
ボソリと吐いた言葉に、松本が後を継いだ。
「確かに…当て嵌まってないのは『長期にわたる物質依存/乱用』って項目だけですね?」
「僕も驚いた…宇佐美先生のショックも大きくてね。鷹栖先生は、かなり細かく典ちゃんの事情を把握されていたから、宇佐美先生が話し辛い部分も…理解した上で、色々話してくれたんだ」
「…典子を…追い詰めてたのが、自分だって…理解したんですか?」
「中々ね…宇佐美先生にしても、典ちゃんを溺愛して、何とかしてやりたいと必死だった結果だしね……ただ、奥さんの法子さんと重ねて見てた部分はあると、自覚していたらしい」
「…やっぱり」
「だが…まだ気持ちの方がね…典ちゃんにとっての最良の方法だと、信じて疑わなかった結果だから…」
「それで…典子は?今、どうしてるんです!?」
あの日、病室に戻って典子を抱き締めてどんなに呼び掛けても、彼女の脈拍も呼吸の荒さも戻してやる事は出来なかった。
そして俺は…彼女の父親の意向で、典子との面会が出来ずにいたのだ。
「目覚めたよ…ようやくね。だが、ずっと意識をなくしていた影響なのか、無理矢理薬で覚醒させた影響もあるのか…酷く怯えててね。宇佐美先生にも、主治医の鷹栖先生にも、看護師達にも…怯えて、触れる所か近付く事も出来ないんだ」
「…コーチには?」
「僕も駄目だった…最初に宇佐美先生と一緒だった影響だろうって、鷹栖先生は言うんだけどね。鷹栖先生は、和賀に会わせるのが一番だと言うんだが…それは、宇佐美先生がどうしても許さない…」
「要に…妬いてるって事ですか?だが、そんな事を言っている場合じゃ…」
「そう…そんな事を言ってる余裕はない。典ちゃん、覚醒してから点滴も受け付けなくて…脱水起こして、危ないんだ」
「…」
「ずっと震えて泣いてる……和賀、会いに行かないか?」
「又…会えないなんて事になりませんか?そうなったら、俺は…我慢出来る自信ねぇですよ?」
「大丈夫…今度は、鷹栖先生も了解してるから。但し、知らせて置かなくちゃいけない事があってね」
「何です?」
「君達の面会は、カメラで撮影される。それと…典ちゃんの事なんだが…」
「典子が、どうかしましたか!?」
「…ちょっとね…退行してて…」
「退行?何です、それ?」
「…子供返りを起こしてるんだ。多分、一時的な物だろうって鷹栖先生は仰るんだが…和賀の記憶も…多分…」
「そんな状態で会って大丈夫なんですか!?要との記憶もない状態なんでしょう?」
「怯える心の最大の防御として、精神的に退行してるって言うんだ。和賀と会う事で、きっと落ち着くからって…」
「…」
「それに、和賀…もしかすると、典ちゃんの笑顔が見られるかも知れない」
「本当ですかっ!?」
「幼い頃は、笑っていたから…落ち着かせる事で、彼女が笑ってくれる可能性はある…但し、大人としての記憶を取り戻す間だけになるだろうが…」
「わかりました」
俺は心配する松本の肩を叩くと、井手さんと共に病院に向かった。
「それで、ノコノコ出掛けて行ったの!?」
「…そ」
「…浩一…何拗ねてるのよ?」
「…別に」
「もしかして…典子に嫉妬してる?」
「そんな訳…」
「妬けるわね」
そう言って、姫はカラカラと笑う…こういう所は、本当に小憎らしい…。
「まぁ…浩一は、ずっと和賀さんの女房役して来た訳だし、和賀さんと一緒にプレーしたくて、進学校蹴った様な人だから…自分以上に和賀さんと親しい人間が出来るのが許せないんでしょ?」
「…」
「和賀さん、余り人付き合い上手くないしね。自分以上に、彼を理解出来る人間なんて居ない、和賀さんの一番近くに居るのは自分だ……浩一はそう思ってたのに、当の和賀さんは典子に首ったけだものね?」
「…煩いよ、姫」
「可愛いわね…浩一でも、そうやって拗ねるんだ」
「…姫は?」
「私?何が?」
「…姫は、そんな事ないの?ずっと、ウサギちゃんを守って来たんだろ?」
「前はね…でも、今はないわよ?」
平然と言い放つ恋人に、俺は拗ねた眼差しを送った。
「ウサギちゃんを守る為に、彼女に内緒で花村不動産の株を買い占めたんだろ?そこまで世話しといて、良く言うね?」
「…私が花村栄子の家の株を買ったのは、典子の事があったって事だけじゃないわよ?ちゃんと利潤を生む勝算があっての事だわ!」
「…利益の為って事?」
「私は、経営者になるのよ?当然でしょ!…典子の事は…副産物よ」
「よく言うよ、全く…まぁ、素直には認めないだろうけどね…姫は…」
そう言って、俺は彼女の肩を抱き寄せて唇を重ねた……悔しいかな、当たっているだけに言い返せないでいる自分が、もどかしい…。
「…俺は、優しい姫も好きだけどな?」
少し顔を赤らめる年下の恋人に大人の余裕を見せようと、笑いながら深い口付けを与えると、姫は甘えて躰を擦り寄せた。
「…滝川さんの事、少しわかったわ。彼、セントラル・フーズの一族なのね?」
「玉置興産と関係あるの?」
「直接には、ないわ…でも、知り合いから面白い話を仕入れたわよ」
「どんな?」
「あそこは同族会社でね、一族で鎬を削っているんだけど…滝川さんって、セントラル・フーズの専務の息子でね…後妻さんの連れ子なんだそうよ」
「へぇ…」
「専務には先妻の息子達も居るらしいし、親族にも男子が何人か居てね…後継者争いで大変らしいんだけど、滝川さんは血縁じゃないから、結構肩身の狭い扱いされてるらしくて…」
「結構苦労してるんだね…」
「でも、一族の名を語る限りは、何でも1番じゃないと許されないらしいわ。中学生の頃から始めたバレーボールも、当然の様にプロになる様に義務付けられてるみたいよ?会社的には、広告塔にしようって肚なんでしょうけどね…後妻に入った母親の為にも頑張ってたみたいなんだけど…その母親も、去年病気で亡くなったらしいわ」
「…気の毒だね、アイツも。…ところで姫は、事件についてどう考えてる?」
「ん~、私は花村栄子が怪しいと思うけど…浩一は、誰が犯人だと思う訳?」
「確かに、花村さんも一枚噛んではいるだろうけど…花村さんの後ろで糸を引いている奴の仕業だろうね」
「浩一は、部の中に怪しい人物が居るって思うの?」
「仲間を疑いたくはないけど…身近な人物だとは思ってる」
「和賀さんに敵対して、典子に言い寄ってた…滝川さんとか?」
「まさか…明らかに怪しい奴だが…ポジションの為に、そこ迄リスクを犯すとは思えない」
「あら、そうかしら?」
「姫は、滝川が怪しいと思う訳?」
「当然よ…怪しい匂いがプンプン…」
「だからだよ…あからさま過ぎるだろ?それに、奴には無理なんだ」
「何故?」
「滝川は、俺達と一緒に『清泉寮』に居た…まぁ、花村さんもなんだけど…俺達と一緒に居る時にメールを受け取ったんだ」
「そうだったわね…」
「ウサギちゃんの携帯は、俺達が倉庫に飛び込んだ時には、確かにそこにあったからね」
「…典子の携帯は、貴方が滝川さんを殴った時に、落ちていた携帯の画面を踏んで割っちゃったものね…調べれば、何かわかったかも知れなかったのに…」
姫は悔しそうに爪を噛み、チラリと俺を睨んだ。
「あの壊れた携帯、もう捨てちゃったの?」
「いや…要が保管してる筈だ。新しい携帯を発行して貰うのに必要だろうって。…だけどあのメールは、確かにウサギちゃんの携帯から送られた物だ。着信履歴のアドレスも、彼女の物に間違いなかった」
「じゃあ、無理って事?」
「まぁね…まだ、納得しない?」
「…」
「もし、花村さんのバックに居たのが滝川だとしても…何故、奴がウサギちゃんを排除したいと思うんだい?今回の事件は、どう見てもターゲットが要じゃない…ウサギちゃんなんだ」
「滝川さんって、典子に言い寄ってたものね…」
「そうだろ?芝居じゃなくて、本気でウサギちゃんと付き合いたいと思うなら、要の方を排除したいと思う筈だ。ポジションは兎も角、恋の鞘当てで出川さんを要にけしかけさせたのは、そういう意味合いがあるのかもしれないけどね…。以上の事から、滝川説は却下だ。だからと言って、一体誰が犯人なんだか…」
「でも、考えれば考える程、不思議だわ…上昇思考の彼みたいなタイプの人は、典子より私の方を狙う筈なのよ。余程、好みだったのかしら?」
「…そればかりは…わからないな」
ニンマリと笑って姫を見詰めると、彼女は少し口を尖らせて俺を見詰め返す。
「…何よ?」
「だって、姫が俺を選ぶとは…思わなかったからね」
「それは…浩一が、口説いて来たんじゃない!?」
「まさか、落ちると思わなかった」
「…嘘よ……自信満々で口説いて来た癖に…」
「そんな事はない…自信なんてないさ。それに、俺は…姫に口説かれたと思ってるんだけどな…」
「失礼ね…そんな事、してないわ!」
「本当に?」
「……ないわょ…」
「…可愛い…姫」
恥じらって目元を染める姫に、伸し掛かる様に押し倒す。
今迄要の隣に居たのは、有望なバレー選手を彼氏に持ちたいという、ステータスを望む女ばかりだった。
要は案外誠実な男だ…浮気する様な事はなかったが、恋愛にのめり込む事もなく、常にアイツの中で一番なのはバレーで……だから、ウサギちゃんと付き合い始めた要を見て驚いた。
「…駄目……浩一…」
姫が、小さな喘ぎと共に甘えて抵抗をして見せる。
「…本当に…駄目?」
「…」
「止めようか?」
「…バカ」
要は…ウサギちゃんの様な、守って遣りたくなる娘が好きで…。
今迄大人しくこちらの言いなりになる様な、優しい彼女としか付き合って来なかった俺は…本当は、気が強く攻略しがいのある女性が好きで…姫は、容姿に置いても、性格も家柄も…これ以上ない程理想の彼女だった。
こうやって、腕の中でだけ甘える彼女を苛めるのが、又楽しい…。
甘い吐息を吐きながら、焦らされた姫が切なそうに俺の首に腕を回す。
「何?」
「…」
「どうして欲しい?」
「…意地悪」
「…好きだろ?」
潤んだ瞳にニヤリと笑い掛けると、グイッと引き寄せられて、姫は自ら唇を押し付けて来た。
絡み合う汗に濡れた躰を離した時、姫が俺の手に指を絡めて来る。
その手を握り返しながら…合宿での要達を思い出していた。
自ら好きだと言う事も出来ず、手に触れて熱を感じるのがやっとのウサギちゃんを…人格障害だと診断されてしまった彼女を、要はこの先どうやって愛して行くのだろう?
互いに命を摩り減らす様な愛し方をする2人の行く末に、俺は一抹の不安を覚えた。
「…与えるだけの愛は、辛いな…」
「…それも…愛だわ…」
姫が天井を見上げて、ポツリと呟いた。




