第21話
…頭が痛い…寝ている筈なのに、目眩が続きムカムカと気持ちが悪い…。
微睡みから醒める毎に、自らの置かれた状況に鳥肌が立つ…。
閉ざされた視界、噛まされた猿轡…両腕は後ろ手に縛り上げられ、そして躰は…多分…全裸だ。
震えながら耳をすませた…人の気配はしない。
休んでいた宿舎のベッドではない……不安定なクッション、ザラザラとした肌触り、埃っぽい臭い…一体どこだろう?
騒いで助けを呼んだ方がいいのか…でも、この状況で、この格好で…何かされたら……そもそも、何かされてしまったと考えられるのでは!?
突然直ぐ近くから聞こえて来た、オルゴールの着信音にビクッと躰が強張った。
私の携帯…鳴り続けても、誰も来る様子はない。
鳴った時同様に、突然音が止み…再び静寂が訪れる。
『My Favorite Things』…この曲を私に教えてくれたのは、高松さんだ。
『嫌な目に遭っても、好きな物達を思い出せば、そんなに嫌な気分ではなくなるわ』
私自身が気に入ったのはこのフレーズだったが、最初に教えて貰ったのは、文字通り『私のお気に入り』だった。
やもすると、心臓が止まりそうなこの状況を忘れる為に、賢明に過去の記憶の糸を辿る…。
「絵を描く事が、好きなの?」
「……いいえ」
「漫画やイラストでもいいのよ?」
「……特には」
「じゃあ、絵を見る事が好きなの?」
「……余り…見た事なくて…」
時期外れの部活見学に訪れた私を、その場に居た部員全員が持て余す…やはり、場違いだ…そう思って席を立とうとした私に、部屋の奥から声を掛けた男性が居た。
「いいんじゃないかな?今から、好きになって貰えればいいんだし…」
そう言って私の前に立ったのが、高松さんだった。
機材を持たない私に、携帯電話で撮る写真を教えてくれたのは、直ぐ手軽に作品として見る事が出来るからだったのだろう。
「じゃあ、好きな物を撮影してみて?」
「…好きな物…ですか?」
「そう…宇佐美さんは、何が好き?」
そう言われて、私は考え込んでしまった。
「女の子の好きな物…洋服とかスイーツとか、可愛い物とか…色々あるだろう?」
「……特には」
「無いの?何にも?」
「…」
言い淀み俯く私を見ていた高松さんは、少し席を外して女子部員の輪に行くと、笑顔で私の所に戻って来た。
「手を出して、宇佐美さん」
おずおずと手を出すと、高松さんは私の爪に小さなシールを貼り付けた。
「…」
「こういうのは、嫌いかい?」
「…いえ」
「じゃあ、好き?」
爪に貼られた、キラキラと輝く小さなウサギ柄のシール。
「…はぃ」
「じゃあ、宇佐美さんの好きな物、第1号だね」
「…」
「写真、撮って」
私は、携帯を構えて爪先に貼られたシールを撮影した。
「毎日1枚でいい…自分の好きな物、興味のある物、気になる物を、撮影してみて」
「……はい」
そうやって、私は携帯の写真を1枚ずつ増やした。
その頃、高松さんが『The Sound of Music』のDVDを貸してくれたのだ。
ニュースやスポーツ中継以外は殆ど見ない我家では、見た事もない…鮮やかな映像と音楽にダンス…忍び寄る戦争の影に咲く、ラブロマンス。
ダンスもラブロマンスにも縁はないと呟いた私に、劇中歌である『My Favorite Things』の歌詞を、高松さんは教えてくれた。
「きっと、もっと沢山の君の『お気に入り』が、これから見つかるよ」
「…そうでしょうか?」
「君は…まだ無機物しか撮影していない」
「…」
「その内に、有機物で『お気に入り』が出来る…ずっと撮り続けて行くと、その先に…何か見えて来るんじゃないかな?」
恐怖を遠ざけ様としていた私の思考を破る様に、又着信音が鳴り響く。
…アレ…でも、この曲…?
そう思ったと同時に微かに聞こえる人の声…その気配に怯える私の耳に、ギギギィーと大きな物を引き摺る音が聞こえた。
「典子ォッ!!典子ッ!?居るのかッ!?」
私の一番好きな…一番会いたい人の声が聞こえ、私は言葉にならない呻き声を上げた。
「居たか!?」
「ここに居るのか?」
数人の声が重なり、私は己の姿を思い出して怯えた。
「来るなッ!!誰も入って来るんじゃねぇッ!!」
直ぐ近くで響いた声…そして…大きな手が私を起こし、躰が砕けるかと思う程強く抱き締められた。
「……典子…済まねぇ」
「…ウゥ…」
汗ばんだ躰から和賀さんの匂いがする…熱い苦し気な息が、首筋に吐かれる…。
和賀さんは、労る様に私の口を塞いだ猿轡を外し、後ろ手に縛られた紐状の物を解いた。
そして、恐らく和賀さんが着ていたジャージの上着を私に着せ…前のファスナーを引き上げてから、目隠しされていた布が解かれた。
薄暗い…体育館の倉庫のマットの上に、私は居たのだ。
「……典子…」
私の涙に濡れた頬に手を添えて、顔を歪めた和賀さんの顔が近き、唇が重なる。
「……わ…が…さん…」
「済まねぇ…典子…済まねぇ…」
和賀さんは私に謝り続けながら、深く深く口付けて行った。
…謝らないで……貴方が悪い訳じゃない。
貴方はきっと、必死で私を探して…そして、助け出してくれた……それだけでいい…それだけで十分だ…。
私は、恐怖に震える躰を必死に制御しながら、和賀さんの胸に縋った。
「やめろっ!入るなって言ってたろう!?」
「何で和賀の言う事を聞かなきゃいけない!?退けよ、松本!」
倉庫の扉の外で言い争う声がして、重い扉が開かれた。
慌てて身を離そうとした私を、和賀さんの逞しい腕が拒む。
「大丈夫なのかい!?バニーちゃん!?」
倉庫の中に走り込んで来た滝川さんが、私の肩に手を掛け、和賀さんから引き離そうと腕を引く。
「可哀想に、バニーちゃん…男に襲われたのかい?」
「滝川ッ!?」
「あんな写真迄、ばら蒔かれて…それもこれも、和賀の失態だ!」
「……写真…って?」
「何だ…言ってないのか、和賀?」
滝川さんは、落ちている私の携帯を拾い上げた。
「…やめろ…滝川…」
「可哀想に…君の姿……皆に一斉メールで…」
「ヒィッ!?」
息を呑んで震える私を、滝川さんが抱き締めた。
「…可哀想に…わかったろう?和賀じゃ君を守れないんだ……これからは、僕が君を守って上げるから…」
「…離れろ、滝川…」
「何言ってる…お前はもう、お役御免だ!」
「煩いっ!!典子から離れろッ!!」
和賀さんは、私から滝川さんを強引に引き剥がすと、体育館の扉目掛けて彼の躰を放り投げた。
扉に打ち付けられた滝川さんの手から、私の携帯が放り投げられ、落ちると同時に裏蓋が開き、電池が吹っ飛ぶ…。
「典子は俺の女だ!!手ェ出すんじゃねぇッ!!」
ギシリと身が軋む程強く、和賀さんは震える私を抱き締めた。
「……お前達……付き合ってるの…か?」
「それがどうしたッ!?」
薄暗い倉庫の中の空気が止まる……明かり取りの窓から差し込む光に、埃っぽい空気がキラキラと瞬いた。
しばらくじっと和賀さんを睨んでいた滝川さんが…声を殺してクックッと笑い出し…やがて涙を浮かべ声を上げて笑い出した。
「何だよ、和賀…お前、それで勝った積りか?」
「何だと!?…何の話だ!!」
「アレだよ……あの、賭けの話だ」
私を抱いていた腕がビクッと痙攣する……私は不安になって和賀さんの顔を見上げ、滝川さんの顔と見比べた。
「……何言ってる」
「覚えてるんだろう?お前、興奮してたもんなぁ?」
「滝川ッ!?テッメェ…」
「バニーちゃん、コイツはね…僕と賭けをしたんだ…」
……何だか…嫌な予感がする……聞いちゃいけない気が……見上げた和賀さんの眉間に深い皺が寄り、私を見下ろすと首を振った。
「聞くな、典子…」
「……和賀…さん……何です?」
「聞くな…俺を信じろ!!」
「…何?」
「コイツはね、バニーちゃん……僕と…次代のポジションを掛けた賭けをしたんだよ」
滝川さんの薄ら笑いが、私を射る。
躰の芯が凍り付きそうなその笑いに耐え兼ねて、私は再び和賀さんを仰ぎ見た。
「…信じろ…典子…」
「…バニーちゃんを落とせた方が……次代のポジションを選ぶ……そうだったよなぁ、和賀?」
ドクン!!
……心臓が大きな音を立て……和賀さんを見上げたまま……世界が凍り付いた…。
不安気な顔をして俺の顔を見詰めていた典子が、滝川の言葉に大きな瞳を見開いたまま痙攣を起こした。
「典子!?オイッ!!」
息が出来ず喘ぐ典子をマットに寝かせ、気道を確保して息を吹き込んでやる。
突然バァンという音が響き、音のした倉庫の扉を振り返ると、松本が滝川を殴り倒していた。
「要ッ!?ウサギちゃんはッ!!」
「駄目だ…痙攣して息が出来ねぇ!!…意識も…」
「救急車、呼ぶぞ!」
松本は119番に電話を入れ、その場に居た部員に指示を出し、救急車の誘導と、倒れ込んだ滝川を宿舎に運ばせた。
俺は人工呼吸を続けながら、典子を呼び続ける。
「典子、ちゃんと息しろ!!典子ッ!!」
「マズイぞ、要…脈が弱まって…それに体温が…」
「典子…典子…ちゃんと生きろ……俺の腕に戻って来い…滝川の言う事なんか、信じてんじゃねぇッ!!」
「要…」
「畜生ッ!!一体コイツが何をした!?典子は、何一つ悪い事なんてしてねぇのに…」
「…」
「もう…誰も、典子を傷付けるな……もうこれ以上…傷付け無いでくれ…」
俺の頬から落ちた熱い雫が、典子の頬を濡らした。
息づく滑らかな肌を辿り肩口にキスをすると、彼女はゴロリと寝返りを打ち俺の顔を覗き込んだ。
「泣いたの!?和賀さんが!?」
「……そんなに、驚く事かい?」
ウサギちゃんの入院騒ぎで急遽帰国した姫は、その足で病院に急行したが…面会謝絶で会う事が叶わず、俺の所に来てヒステリーを起こし事の次第を尋ねた。
落ち着かせる為にベッドに押し倒し、情事を終えた後に腕の中で合宿中の事を話して聞かせているのだが…。
「あの和賀さんが、涙ねぇ…まぁ、浩一が滝川さんを殴り飛ばしたっていうのも、驚きだけど…」
「姫は、プロポーズの事…知ってたのかい?」
「まぁね…典子が、告白された位で靡く筈ないから…彼女も流石に驚いて怒ったら、逆に『俺の決意を…覚悟を、冗談だとか戯れだとか…お前にそんな事を言われる筋合いはねぇぞっ!!』って叱られたって」
「…正直驚いた…20歳やそこらで、人生の伴侶を決めるって…。まぁ…アイツの家は、親父さんも真子さんも、結婚した経緯がちょっと特別だからな…」
「どんな風に?」
「親父さんは、修行時代に…お袋さんをかっ拐ったらしいよ?」
「拐った!?」
「結構大きな店で修行していたらしいんだ。ある日、その店でオーナーの娘だったお袋さんが見合いをしていたのを、相手を殴り飛ばした上に、お袋さんを連れて逃げたってさ」
「凄い…恋人と愛の逃避行!?」
「いゃ…初対面だったらしいよ?意に染まない見合いをしてると思った、親父さんの暴走だったのかもって…」
「…それって…罷り間違えば、超迷惑な話だけど…」
「そうだろ?当然親父さんは店をクビになり、お袋さんも勘当された…で、『俺が嫁に貰ってやる』って、親父さんと結婚したらしい」
「幾つの時?」
「20歳…21歳の時には、真子さんが生まれた。真子さんも中学の時に、幼なじみの祐三さんにプロポーズされて…こちらは、自分がO.K.する迄操を立てたら、結婚してやると言ったらしいよ?」
「子供の戯言じゃないの!?」
「でも、実際に祐三さんは操を立てて…真子さんもお袋さん亡き後、要達を育ててたから…やっと去年、真子さんがO.K.して結婚したんだ。20年近く待たせ続けた事になる」
「あり得ないわね…」
「だから、和賀家の覚悟って言うのは…『一生の覚悟』なんだって要は言うんだよ」
「成る程ね…。それにしても、滝川さんが、そこ迄典子に執着してたっていうのがね…」
「解せない?」
「ん…そんなタイプには見えない」
「結構資産家の息子で…遊び相手には事欠かない筈だよ?特定の相手を決めず、あの容姿と手練手管で…女の子に貢がせてるって噂…」
「その方が、シックリするタイプね」
「要と別れた彼女も、何人かアイツの毒牙に掛かってる。だから余計に、要は滝川が許せないんだ」
「別れた彼女なんでしょ?未練がましい…」
「違うよ、姫……男はね、別れた彼女には、幸せになって欲しいものなんだ…」
「貴方も?」
「…」
「滝川さんの事…少し調べてみるわ」
そう言って起き上がろうとした姫の腕を引き戻すと、俺は再び組敷いた。




