第2話
俺の家は、大学に程近い駅前の商店街にある洋食屋だ。
「いらっしゃいませ…って、何だ要なの?お帰り」
「…腹へった…飯!」
母屋ではなく店に入った俺達は、空いているテーブル席にどかどかと荷物を置いて座った。
テーブルに水の入ったコップを3個並べると、運んで来た銀色のトレーが俺の後頭部を直撃する。
「…ッテェなぁ!!」
「……お帰り、要…」
口角を上げたまま半眼でニュウと顔を突き出した姉の真子に睨まれ、俺は不貞腐れながらも返事を返す。
「…ただいま」
「ただいま、真子さん…こっちは、後輩の椎葉です」
「今晩は、椎葉一平です!和賀先輩には、いつもお世話になってます!!」
「要の姉の真子です。こちらこそ、弟が迷惑掛けてると思うけど、宜しくね。今日は、何でも好きな物、頼んでいいわよ!」
「ありがとうございます!!」
フフンと俺を一瞥してカウンターに戻る姉を見送って、松本がクックッと含み笑う。
「相変わらずだな、真子さん」
「ったく…結婚して余計に強くなったんだ…」
「でも、凄い迫力ですね!?正直、ビビリました…」
「あの人は、和賀家で最強だからな…」
俺とは14歳違いの姉貴は、昔はレディースに入りバイクをブッ放して親を泣かせていたが、母親が癌で他界した後は、俺と8歳上の兄貴の面倒を見てくれた母親代わりだ。
1年前に幼なじみだった義兄と結婚し、親父と一緒に『キッチン和賀』を切り盛りしている。
街の洋食屋として親父が始めた店は安くて旨いと評判で、学生達にも人気が高かった。
注文した料理を平らげながら、俺と松本は椎葉の話を聞いた。
「…玉置茜は、玉置興産の一人娘ですよ。ほら、猫の出て来るCMの…知りませんか?」
「あぁ…見た事ある」
「子供の頃から美少女って有名で、しょっちゅうスカウトとかされてるんですが、性格が最悪で…」
「そんな酷いのか?」
「まぁ…お嬢様だし、美人だってんで周りがチヤホヤするし…そうされる事が、彼女にとっては普通の事なんです。だから自分の意に染まない事は、一切遣らない。学校の掃除も係も…汚い事、疲れる事、面倒な事、見事な位に人任せです」
「それで、よくやって来れたな?」
「色んな意味で、お近付きになりたい奴は山程いますからね…当然、同性からは村八分状態で…」
「宇佐美さんと仲がいいんだろ?」
「いや…どうなんでしょう?彼女も謎だらけですからね」
「謎?」
「人見知りなのは勿論なんですけど…殆ど口をきかないんだそうです。暗いっていうか、地味っていうか…とにかく、玉置と一緒に居る事で悪目立ちしてます。2人が居る所を見ても、玉置が一方的に話してるだけだし…ウサギちゃんにとっては、仲がいいって言えるのかどうか…」
「…」
「彼女、身長145㎝程なんですけどね…『ウサギの世界は、地上140㎝なんだ』って聞いた事があります」
「どういう意味だ?」
「いっつも下向いてるんですよ…高校時代も、一度も笑わなかったって話です。まぁ…障害がある事も原因なんですかね?」
「障害?どこか悪いのか?」
尋ねる俺に、松本が呆れながら声を掛けた。
「…わからなかったのか、要?」
「左足が悪いみたいですよ?詳しくは知りませんけど…」
「よくそんなんで、ウチの大学に入れたな?」
「要ッ!?」
松本が焦った様に俺をたしなめる。
「あぁ…彼女達は、今年から創設された健康福祉学部なんですよ。初年度なんで人数も50人程度、然も半数以上が男子ってんで、ウチの大学らしからぬ女性が20人程入学したんです。だからですかね…彼女達は、人気者なんですよ」
「毛色が違うってだけでか?」
「如何にも運動して来ましたっていう、がたいのデカくて硬い女達とは違いますからね…何て言うか華奢で、柔らかそうで…ウチの学生達から、モテ捲ってますよ?知りませんか?」
「知らねぇ」
「お前だけだ」
即答した俺に、松本が苦笑する。
「ウサギちゃん、よく追い掛けられて走ってますよ…その走る姿がピョンピョン跳ねるみたいで可愛いって…」
「それで兎?」
「いや、高校の時もそう呼ばれてましたから…名字とイメージもあるんじゃないですか?人見知りで警戒心強くて…」
「成る程ね」
「真面目な娘らしいんで、引き受けてくれたら一生懸命遣ってくれるかもしれないけど…」
椎葉は多分無理だと思うと言って、帰って行った。
「さて…じゃあ、件の彼女に会いに行くか…」
そう言って、松本は荷物を抱えて立ち上がる。
「お前、家まで把握してんのか!?…まさか…」
「何想像してんだか…全く…。真子さん、ご馳走様でした」
「はいはい。いつでも遠慮しないでいらっしゃいよ、松本君」
「ありがとうございます」
ヒョコリと頭を下げる松本に付いて、俺は裏口から外に出た。
店の裏口を出ると、直ぐ左に母屋の裏口があり、目の前には自宅用の駐車場が有る。
俺は母屋の裏口に自分の荷物を放り込むと、駐車場を通り抜け裏道に出て、ぐるりと母屋に回り込み隣に建つアパートの玄関に立った。
義兄の祐三さんの実家は、近所の不動産屋だ。
昔、俺の家の様に商売をしていた隣家は、主の高齢化と後継者が無い事で店を畳んだ。
その隣家を買い取った義兄の実家が、結婚する時の持参金代わりに、隣の土地の権利書を持たせて来た。
表通りに面した半分を店の駐車場にし、裏道に沿った半分を小さなアパートにして家賃収入を得ようと計画したのが去年の夏。
この春、ようやく2階建8戸の1LDKのアパートが完成した。
そのアパートの1室に、松本は住んでいるのだ。
商社勤務の父親の赴任で両親と妹がオーストラリアに移住、社宅住まいだった為に已むなく姉の嫁ぎ先で厄介になっていたが、俺の家のアパートの完成を待って引っ越して来た。
自分の部屋に荷物を置くと、松本は何故か再び鍵を閉める。
そして…隣の部屋のチャイムを押したのだ。
「…何で…」
「まだ気付かないか?」
「え?」
「宇佐美さんは…俺の隣人……お前の家の店子だ」
アパートが完成した時、1人暮らし用の部屋は学生や社会人相手に貸すのだろうとばかり思っていた。
所が実際入居したいと申込んで来たのは、意外にも近所の年寄り連中が多かったのだ。
「2階はともかく、裏手のスペースをウチと共有する1階は、気心の知れた人に貸したいわね」
設計図を見ながら姉貴がそう溢すと、珍しく親父が口を開いた。
「時田電気の親父が、婆さんに貸して欲しいと言っていた」
「時田のお婆ちゃんか…伯母さんと折り合い悪いしね…」
「高齢だし、今更他の土地に住ませるのも忍びない。ここなら、何かあったら直ぐに飛んで来れるからな」
「そっか…私も、1人頼まれてるんだよね…」
「姉貴、浩一の部屋も確保しといてくれよ!」
「わかってるって!…そうか…じゃあ、核の意見も聞いとかなきゃ」
「核兄ぃの?」
「一応ね…1階住人を私達だけで決めて、後で文句言われると厄介でしょ?あの子は、底意地悪いから」
そう言って、姉貴は兄貴に連絡を入れた。
しばらくして兄貴から、1階限定で1人入居させたい人物が居るからと連絡が入ったが…。
確か、この部屋の住人がそうだった筈…。
「宇佐美さん、宇佐美さん、いらっしゃいますか?」
チャイムと共にドアをノックして呼び掛ける松本の声に、ドアの内側から小さく返事があった。
「……どちら様ですか?」
「隣の松本です。少しお話しがあって…」
「…」
「昨日の事も謝りたいんです!和賀も一緒なんですが…開けて貰えませんか?」
少し間を置いて、細くドアが開かれる。
その隙間を除き込む様に、松本は中を窺った。
「済みません、突然に」
「…いぇ…」
「昨日は、申し訳ありませんでした。眼鏡がなかったので、俺も一瞬わからなくて」
「…いぇ…もぅ構いませんから」
「いゃ…和賀も、謝罪したいと…」
松本が、細く開けられた隙間を覗き込む様に話す姿に苛ついた俺は、ドアを掴んで思い切り引いた。
その途端、ガチャンという音と共に扉がつかえる…どうやら、内側でチェーンロックが掛かっている様だ。
「…お前…ちゃんとドア開けて話せよっ!!」
松本の躰を押しどけてドアの隙間から中を覗くと、黒縁眼鏡の中から怯えた様な瞳とかち合った。
「要ッ!?止めろッ!!」
「こっちはわざわざ謝罪に出向いてるんだ!ちゃんとドア開けて話を聞けよ!!」
ガチャガチャとドアを引いて吼えると、ドアのノブを引きながら消え入りそうな声で彼女が言った。
「…もう、いいです…わかったから…」
「いい訳ねぇだろ!?」
「…何とも…思ってない…」
見兼ねた松本が俺をドアから引き剥がすと、彼女はガチャンとドアを閉めて、中から施錠してしまった。
「開けろよ!?」
「止めろって!要ッ!!」
「……帰って…下さい」
暫くドアを叩いていると、隣の婆さんが顔を出す。
「おや、まぁ…要ちゃん!又女の子を苛めてるのかい?」
「違うって、婆ちゃん!」
ガキの頃からの顔見知りの時田電気の婆さんは、俺達の様子を見てケラケラと笑う。
「女の子には優しくしなきゃ駄目だよ、要ちゃん?」
「わかってるって!」
「要ちゃん、背も凄く大きくなっちゃったんだから…もっと小さな声で優しく話して上げなきゃねぇ?女の子は、怖がっちゃうでしょう?」
「ぅ…」
「婆ちゃん覚えてるよ…要ちゃん、本当は凄く優しい子だよ。今も昔も変わらない…婆ちゃんは、ちゃんと覚えてるからね」
「ぅん……ありがとな、時田の婆ちゃん」
「じゃあね、要ちゃん」
「あぁ…お休み、婆ちゃん」
時田の婆さんが部屋に戻ると、俺は深呼吸して再び彼女の部屋のチャイムを鳴らし、扉をノックした。
「さっきは、興奮して悪かった…もう一度、きちんと謝罪させてくれねぇか?」
「…」
「頼む…」
「……もう、わかりましたから」
「宇佐美」
「本当に、もう…」
「眼鏡の代金も、弁償させてくれねぇか?」
「…お気持ちだけで、結構です」
それからどんなに声を掛けても、彼女が顔を出す事は無かった。
「核兄ぃ?俺」
「要か?久し振りだな。どうした?」
松本と別れて家に帰ると、部屋の窓を開けて外を眺めながら、独立して1人住まいをしている兄貴に電話した。
知らなかった…松本の部屋の隣という事は、俺の部屋の窓越しに彼女の部屋が丸見えって事だ……実際は、彼女の部屋の厚いカーテンに阻まれているが…。
「アパート紹介したさぁ、宇佐美って女と…どういう知り合い?」
「あぁ?何、お前…とうとう本気で色気付いて彼女作るのか?」
「そんなんじゃねぇよ!!」
「まぁ、いいけど…彼女は、俺というより井手さんの知り合いだ」
「コーチの?」
「あぁ…井手さんが全日本の選手だった頃のトレーナー、宇佐美アスレチックトレーナーの娘だよ」
「あの…コーチが怪我した時の?」
「そうだ。井手さんが現在普段通りに生活出来るのは、宇佐美トレーナーのお陰だと聞いた。確か、今も全日本のアスレチックトレーナーを務めてる筈だ」
「そうなのか?」
「…それに、今年からお前の大学で、講師として教鞭取る筈だぞ?」
「え?」
「新しい学部が出来たろう?」
「あぁ…健康福祉とか何とか…」
「理学療法のエキスパートだからな…大学から口説かれたらしい」
「それで、娘も入れて貰えたんだ…」
「馬鹿、逆だ逆!!娘が合格して通う事になったから、講師の話を受けたそうだ。成績トップで合格した、才媛だそうだ」
「へぇ…」
「まぁ、実際は全日本のトレーナーとして、世界中を飛び回っているからな…教鞭を取るのは少しなんだろうが…かなり厳しい人だと聞いた」
「…」
「足が悪くて、通学に負担が掛からない様にと入居させたんだ。ウチのアパートなら大学からも近いし、大家と一緒に暮らしている様なものだしな。何かあっても安心だと、井手さんに頼まれた」
「…」
「可愛い娘だったのか?」
「…あんま、よくわかんねぇ」
「まぁ、学部も違うし、お前と絡む様な事は…ぁ…あるか…」
「え?」
「バイトすると言ってたぞ、店で」
「えぇっ!?」
「姉貴に確認してみるんだな」
「…あぁ」
「じゃあな…何かあったら、面倒見てやれよ?」
そう言って、兄貴は電話を切った。
姉貴も絡んでんだ…これはスゲェ…超絶マズイ!!