第19話
掌をトントンと指で叩かれ、私の意識は微睡みから醒めた。
「…ぁ」
声を上げ様とすると、松本さんはそっと人差し指を唇に当てて手招きし、部屋のドアを出て行く。
私が背後から回されている腕をそっと外そう身を動かすと、和賀さんは気配を察して腕に力を込めた。
「…あの…済みません」
「……ん」
「お手洗いに…」
大きく息を吸い込み、離すのを惜しむ様にギュッと抱き締められる…そして、ゆっくりと息を吐き終えた後、ようやく腕の力が抜かれた。
和賀さんの腕に抱かれて寝る時には、いつもそう…その腕から起き出す時は、何だか…むずかる小さな子供から、ぬいぐるみを取り上げる様な感覚で身を起こす。
洗面所で、両手に包帯が巻かれている事に気が付いた…仕方なく、タオルを濡らして顔を拭き、身なりを少し整えて、そっと松本さんの後を追った。
「…お早うございます」
まだ朝靄の残る建物の外に出てから、ようやく挨拶を交わす。
「お早う。悪かったね、こんな早くに…よく寝れたかい?」
「…はぃ…あの…昨夜は、申し訳ありませんでした」
「いゃ…それは、こっちの台詞だよ。掃除、大変だったね…本当にご苦労様」
「…いぇ」
「それにしても…要は、いつもあんな風に君を抱いて寝てるのかい?」
そう笑われ、私は耳迄赤くなった。
「寝てる時迄、独占欲の塊みたいな奴だな、全く…あれじゃ…」
ゆっくりと振り向いた松本さんが、腰に手を当てて言った。
「…君が、要から逃げ出そうとするのも…無理はない」
「…ぇ?」
「ウサギちゃん、君に伝えなきゃいけない事がある…聞いて置きたい事も…」
「…何でしょう?」
少し強張った松本さんの表情で、私は何を言われるのかを予想して、包帯の巻かれた掌をギュッと握った。
「昨夜、花村さんがね…君の高校時代にあった事を皆に暴露したんだ」
「……そう…ですか」
「要に、話してなかったんだね」
「…」
「俺は、姫から聞いて知っていた。一平も、高校時代の噂を知っている…だが、きっとどちらも真実ではないと思う」
「…」
「要に…本当は何があったのか話してやってくれないか?」
「…いいえ」
「ウサギちゃん…」
「……お話しする積りは…ありません」
「だが、アイツは苦しんでる!」
「……お話して…どうなりますか?」
「え?」
「もしも…彼女の言った事が嘘だとして…真実を知った和賀さんが、どんな行動に出るか…松本さんなら、わかる筈です」
「…」
「きっと彼女に食って掛かる…部員の方達にも……でも、花村さんがどういう対応をするのか私は知っているし…今更過去の出来事が…噂話が…覆る訳でもない。辛い思いをするのは、和賀さんの方です」
「…」
「…今は、大事な試合前で…チームの結束が何より重要な時です。それに…次代のポジション選抜も控えている大事な時期なんじゃありませんか?」
「……君は…それでいいのか?」
「もう慣れてます。私は和賀さんに、思い切り…悔いのない様にバレーをして貰いたい…それは、松本さんも同じですよね?」
「ウサギちゃん…」
「和賀さんに聞きました。松本さんが和賀さんの為に腰を庇って、今はレシーバーをされていると…」
少し照れた様な笑顔を見せて、松本さんが空を仰いだ。
「セッターっていうのはね…派手に見えて、案外縁の下の力持ちなんだよ」
「…」
「確かにゲームを動かすポジションではある…だけど、どれだけいいトスを上げても、アタッカーが決めてくれないと全く評価されないんだ」
「…」
「俺が要に会ったのは、中学総体の時でね…対戦相手だったんだよ。アイツの事は噂で聞いていた…中学2年の頃には既に180㎝近い長身で…決まれば凄いスパイクを打つのに、チームの勝率はもうひとつな学校だった」
「…」
「俺は、その頃からセッターをしていてね。対戦していて思ったんだ…相手チームのセッターが要をうまく使い熟せてないって。試合中もアイツのチームのプレーを見てイライラしてたよ。何であんなトスを上げるのか…自分なら、あそこであんな風にトスを上げて打たせてやるのに…ってね。可笑しいだろ?対戦相手にそんな事を思ったのは初めてで…中学3年の練習試合で顔を合わせた時に、とうとう声を掛けたんだ」
「…何て?」
「『お前、高校はどこに行くんだ?』ってね。今と変わらず無愛想な奴で…『何で、そんな事を知りたがる?』って聞いて来た。だから…『俺が、お前に思うままにスパイクを決めさせてやる!』って言ったんだ。要は妙な顔をしていたが、別れ際に『東青に行く』って教えてくれた」
「それで、松本さんも東青高校に入られたんですか?」
「そぅ…ウチは私立だったから、エスカレーターで進学すると、親や高校のバレー部の先生、仲間も…皆思ってたんだけどね。そんな事よりも、俺にとっては要とのプレーの方が魅力的だったんだ」
「…凄いですね」
「大変だったよ…要は性格もあぁだし、プレーも癖が強いから…信頼関係を築くのも大変でね。でもアイツは、プレーで失敗した時に自分自身に憤るけど、決してセッターを責めないんだ」
「…わかります…何となくですが…」
「普段は俺様で我儘な癖して、試合になるとチームの事を見据えて、怒りの方向を相手方だけに向けるんだ。珍しいんだよ…チームメイトに当たり散らす奴も多いからね」
「癖の強い自分が上手くプレー出来るのは、松本さんが絶妙なタイミングでパスを上げて下さるからだと…以前仰っていました」
「何だか照れるな…俺には、面と向かっては何も言わないからね」
「そうなんですか?」
「男同士なんてそんなもんさ…だが、気持ちは互いに通じ合ってる」
「…松本さんは、本当に和賀さんの事が好きなんですね?」
「…恋愛とは違うけどね…俺は、要の女房役で親友だから……だから、君に聞きたい事があるんだ」
「…何でしょう?」
固い表情で見詰める松本さんの視線が、私を射る。
「君は……本当に、要の事が好きなのか?」
「…」
「俺はね、ウサギちゃん…恋愛は人を高める為の物だと思ってる。互いを思いやり、慈しみ…互いに愛情を掛け合って初めて成立する物だと…」
「…」
「でも、君達の関係は違うだろ?要は君に、自分の感情と愛情を押し付けている……そして君は…逃げてばかりだ」
「…」
「君は…本当は、要から逃げ出したいんじゃないのか?」
「…」
「…ウサギちゃん、俺は君の事が嫌いな訳じゃない……だけどね…」
「……済みません」
「…」
「…松本さんは…反対なんですよね?」
「…」
松本さんは…一体、どんな思いで私に酷な事を告げているのかと思うと、私は居たたまれない気持ちになって震えた。
「……私…やっぱり……和賀さんから、離れた方が……いいんですよね…」
「…ウサギちゃん…君は…」
「…私が…和賀さんに釣り合わないのは…わかってます。きっと、出川さんの様に、積極的で明るい…健康な女性の方が……和賀さんに合ってます…」
「…」
「私…寺田さんに、マネージャーを辞めるって言ったんです。花村さん達も、入部されるそうですし…私が居ても、さしてお役には立ててないし…花村さんと一緒に居てトラブルがあると、部員の方々の迷惑になるし……でも、和賀さんに言われました。『マネージャー辞めたからって、逃げられると思うな』って…『絶対に…逃がさない』って…」
全身に悪寒が走り、私は立っている事が出来ずに、その場にへたり込んだ。
「…ごめん、ウサギちゃん…」
「……済みません…本当に……『俺の女だ』って言われて…凄く嬉しくて…でも、凄く不安で…怖くて…寂しくて…悲しくて…」
「本当にごめん、ウサギちゃん……君に、そんな顔をさせたかった訳じゃないんだ…」
「……申し訳…ありません……私の…我儘のせいで……私の思い上がりで……松本さんにも…迷惑掛けて……やっぱり…私…和賀さんとは…」
地面に伏して、松本さんに土下座する私の躰を、いきなり大きな手が抱え上げた。
「…それ以上、何も言わせねぇぞ、典子!?」
「要…」
「浩一…お前が俺の事を思って言ってくれるのは、有難てぇがな…この件については、これ以上何も言うな…」
「…」
「俺は、典子と付き合うと決めた時、コイツにプロポーズしてんだ」
「えぇっ!?」
「その覚悟があって、コイツと付き合ってる…だから、何も言うな」
「……わかった…済まない、要」
「…行くぞ」
そのまま抱き上げられて部屋に戻り、元のベッドに寝かされる。
息が苦しい…空気が肺に入って来ない…涙を流して喘ぐ私を見て、松本さんが心配そうな表情を浮かべた。
「要!?ウサギちゃん、様子が…」
「大丈夫だ。典子…典子、落ち着け……お前、こんな所で救急車呼ばれたくねぇだろう?」
「要ッ!?」
「大丈夫だ…落ち着け…肺の空気、全部吐いちまえ…」
そう言って、私の胸を優しく押してくれる大きな暖かい手…。
「そうだ…そのまま大きく息を吸って…一緒に体温も上げて行け…浩一の前で、抱かれたくねぇだろ?」
「…だから、要ッ!?」
「大丈夫なんだ、浩一…心配すんな。典子、お前も布団なんか握ってんじゃねぇ!握るなら、俺の手握ってろっ!!」
硬く布団を握り締めた手を、更に強く力を込めた。
「今日は握ってやらねぇ…欲しけりゃ、お前が自分で握るんだ」
コツンと触れた暖かい手…私は布団を握ったまま、その熱を追い…和賀さんの小指に触れる位置に自分の握り拳をずらした。
暖かい手に微かに触れた親指の付け根から、和賀さんの熱が伝わり…じんわりと全身に広がって行った。
「…大丈夫そうだな」
「あぁ」
「だが、もうちょっと優しく出来ないのか、お前…あれじゃ幾ら何でも、ウサギちゃん可哀想だ!」
朝練のフィールドトレーニングでトラックを走る俺は、少し離れた位置で俺の被せたジャージを着た典子を横目で追って言った。
「いいんだよ…優しくすると、アイツは疑って信じねぇからな」
「え?」
「俺が笑うと、相変わらず機嫌悪ぃし…」
「…アレ、暗示だよな?」
「そ…暗示だな。典子が、いつも自分に言い聞かせてるのの…逆バージョン」
「いいのか…そんな事して…」
「…医者にな…心療内科の受診を勧められた。だが、典子は絶対に医者に掛かりたくねぇんだ」
「何で?」
「まだ未成年だからな…何かあると、不仲の親戚に迷惑掛けるのが耐えられねぇんだよ」
「…」
「親父さんに知られると、大学に居られねぇしな…で、典子に内緒で姉貴の知り合い通じて、精神科の医者に会って来た」
「…お前…そこ迄…」
驚いた表情を見せる親友に、俺は苦笑いを返す。
「さっき言ったろ?俺は典子を嫁に貰う…一生涯離す気はねぇからな」
「…まだ将来も見えない内から…よくそんな決心出来るな、お前…」
「そぉか?普通だろ?」
「…覚悟が出来たって…付き合う覚悟じゃなくて、そっちだったのか?」
「当然だろ?」
「真子さんや、親父さんには?」
「多分、わかってると思うぜ?…ウチで覚悟って言ったら、一生の覚悟って事だからな」
「……全く…で?その医者は何て言ったんだ?」
「安心させろ、信頼させろ、裏切るな…大原則なんだと」
「まぁ月並みだが、最もな意見だな」
「元々、かなり強引な接し方してるからな…驚いてたが、それで信頼されてるなら、却ってそのままの方がいいって言われた」
「まぁ…急に変えても、戸惑うだろうしな」
「典子が俺から離れ様とするのは、自分の為じゃねぇ…俺の為なんだ。その為に自分で暗示掛けるなら、こっちも同じ様にして様子を見ろって言われてな…試してみたら、案外に上手く行ったんだ」
「成る程ね」
フィールド内で時計を見ていた典子が、手に持った鐘を鳴らした。
トラックを走っていた部員は、一斉にダッシュをしてゴールに走り込む。
「お疲れ様でした」
声を掛ける典子に、部員達の態度は空々しい。
曖昧な返事を返す者、あからさまに無視する者…昨夜の花村の話を、皆は信じたという事なのか…。
典子は気にする様子もなく、いつもと同じ様に皆に接している。
「バニーちゃん、昨夜はどうしたんだい?」
滝川が、馴れ馴れしく典子の肩に手を掛けて言った。
フルフルと頭を振った彼女に、滝川は此れ見よがしに話し掛ける。
「昨夜食堂で、花村さん達が色々言ってた様だけど…彼女達が何を言おうと、僕は君の事を信じているからね、バニーちゃん!」
全員がギョッとして2人を注目する中、典子は静かに滝川に頭を下げた。




