第18話
体育館の窓硝子を割った台風の影響は、本館宿舎にも爪痕を残していた。
窓硝子が割れたり雨漏りがして、使用不可能な部屋が多数出たのだ。
宿舎は幸い男子バレー部しか使用していなかった為、到着して直ぐに使用可能な部屋を全てチェックして、部屋割りをし直した。
リクルート活動時期で若干の人数の出入りがあったが…それでも、どうしても1名分のベッドが足りなかったのだ。
その後に知らされた体育館の破損騒ぎで、右往左往している寺田さんに相談するのも申し訳なく、私は花村さんと出川さんに、同室になる事をお願いした。
「えぇ~っ!?だって、ツインなんでしょ!?」
「…そうだけど…」
「どうやって寝るのよ!?エキストラベッドでもあるの?」
「いいえ…だから、ベッドをくっ付けて…3人で…」
「無理、無理ッ!!絶対嫌ッ!!」
「…」
「宇佐美さん…私達の立場、忘れてない?」
「…どういう事?」
「私達は、まだ正式なマネージャーじゃなくて…お客様なのよ?当然、それなりの待遇があって然るべきよね?」
「…」
「って事で…当然、私とチカで部屋は使わせて貰うわ!」
そう言って、彼女達は荷物と鍵を持って、宛がわれた部屋に行ってしまった。
仕方なく、私はロビーの隅に荷物を置いた…ここにあるベンチなら、何とか寝る事が出来そうだと思ったからだ。
それなのに…。
「馬鹿娘がッ!!」
和賀さんの怒声に、私は首を竦めた。
「お前っ、ここが高原だって忘れてんだろっ!?朝晩の気温の低さ、舐めんじゃねぇ!!半端ねぇんだぞっ!!わかってんのかっ!?」
それは、今現在の寒さで十分承知している…。
それに、部屋割りの事だって…一体どうすれば良かったというのだろう?
和賀さんは、余程心配してくれていたのか中々怒りが治まらず、私の躰を掴み怒鳴りながら揺さぶり続けた。
…やっぱり私は、和賀さんに心配と迷惑を掛けて…怒らせてばかりだ…。
首がガクガクとなって、脳が揺さ振られる…。
「……気持ち…悪いよぅ…」
「えっ!?」
和賀さんが手を離した途端、私の躰はクニャリと床に突っ伏した。
「オイッ!?典子ッ!!」
「駄目だ、要!!これ以上、揺さ振るんじゃない!」
松本さんの言葉に、和賀さんは私を揺り動かそうとした手を引っ込めた。
冷たい床の上を、割れた窓から入り込んだ冷気が吹き抜ける。
「…板…貼らないと…」
「え?」
「……割れた…窓……モップと…雑巾……硝子の…破片…が…」
伝えなきゃと思うのに、思考が睡魔に呑み込まれる。
「典子?」
和賀さんの大きな手がスルリと私を撫でるのと同時に…私の意識は、ズブズブと深淵に沈んだ。
「限界だったんだろう…可哀想に…」
「ッたく…」
「そうだ…全くだ…」
「え?」
「お前の事だ!」
典子を背負って宿舎に帰る道すがら、松本が俺に苦言を呈した。
「何で、ウサギちゃんの事…褒めてやらなかったんだ!?」
「…」
「あんな広い体育館…1人でだぞ!?1人で全部拭き上げたんだ!!部員達の事を思って…散らばった硝子の破片で、手を切りながら…」
「…」
「部屋割りの事だってそうだ…俺達に負担掛けない様に、自分がロビーで寝る積もりだったんだろう!?」
「…まぁ…そうなんだろぅが…」
「お前…いつも、あんな愛し方してるのか?」
「え?」
「…お前は…自分の感情と思考を、ウサギちゃんに押し付けているだけだっ!!」
「ッ!?」
「よくそんなんで靡かせたもんだ…全く…」
呆れた様に吐く松本に何も言えず、俺は俯くしかなかった。
「優しくしてやれ…きっと明日からは、今迄以上に辛くなる…」
「何でだ?」
「忘れたか?…食堂で…花村さんが、暴露してたろ?」
「だって、あれは…」
「…真実であれ戯言であれ…信じてしまった者がいる筈だ」
「…」
「お前は…聞いているのか?」
「何を?」
「ウサギちゃんから…聞いてないのか?」
「だから、何をだ!?」
「…」
「浩一…お前、知って…」
「彼女に聞け」
「浩一!?」
「…俺が言うべき話じゃない」
「コイツが、言う訳ねぇだろっ!?」
「……俺の話は、姫の主観が入ってる。ちゃんと、ウサギちゃんの口から真実を聞いてやれ」
「…」
「恐らくは…彼女が恋愛出来ないトラウマなんだ……お前が本気でウサギちゃんに惚れてるなら、ちゃんと聞き出してやれ」
そう言って、浩一は彼女の荷物を俺達の部屋に運ぶと、寺田さんに報告して来ると言って出て行った。
あれが…真実かもしれないって事か!?
そんな馬鹿な…。
典子をベッドに下ろすと、そっと揺すって呼び掛ける。
「…典子…典子、起きろ」
「…」
「…起きろ、典子」
「……っ、すっ、済みませんッ!!…まだ…」
「…体育館の掃除は終わってる…安心しろ」
そう言って、飛び起きた彼女の躰を抱いてやる。
「…よく、頑張ったな…典子」
「…ふえぇ…」
「よしよし…泣いていいから…その代わり、寝ちまうんじゃねぇぞ?」
「うにゅ…」
「風呂に入って、マッサージしなきゃならねぇしな…その前に飯か…腹、減ったろ?」
溢れそうな涙を溜めて見上げた典子にそう言うと、彼女はフルフルと頭を振る。
「駄目だぞ…ちゃんと食わねぇと…」
そう言いながら、彼女の半開きの唇に目が吸い寄せられた。
柔らかな小さい下唇が…傷付いて血が滲み、少し腫れている。
いつの間にか親指で愛おしむ様に唇を撫でる俺を、不思議そうに見上げる大きな瞳…。
「…噛んだのか、ここ?」
「…」
「悔しかったのか?」
スッと頭を引こうとする典子を、後頭部を抱えて逃がさず、顔を近付け彼女の唇をくわえる様にキスをした。
頑なだった躰から力が抜けるのを確認して、深い口付けを与えてやる。
「……典子」
冷たかった頬に朱が差しポゥと体温が上がると同時に、溜まった涙が目尻から溢れた。
風呂に入れ、疲れて果てて食事を拒む典子にプロテインを飲ませ、俺は彼女のパンパンに張った全身をマッサージしてやる。
しばらくは痛みに呻いていた典子も、躰が解れて来ると、そのままグッスリと寝入ってしまった。
ノックの音がして、松本が椎葉と共に部屋に入って来た。
「…ウサギちゃんは?」
「寝ちまった」
「聞いたか?」
「いゃ…今は、躰を休ませてやりたくてな。そっちは?」
「それがな…」
「済みませんッ!!俺が、もっと早くキャプテンに言ってれば…こんな事にならなかったのに…」
椎葉が、身を小さくして俺に頭を下げる。
「取敢えずは、キャプテンと一平には口止めした上で、お前達が付き合ってる事…話したからな」
ギロリと椎葉を睨むと、懸命に手を振りながら大声で叫ぶ。
「絶対、誰にも言いませんって!!」
「声がデカい…典子が起きちまうだろうが…」
済みませんと頭を下げると、椎葉はオズオズと俺を窺い見る。
「…本当に…付き合ってるんですね…」
「……文句あるか!?」
「いぇ…でも、いっつもウサギちゃんの面倒見てても手荒に扱うんで…マサカと思って…」
「放っとけッ!!…で、浩一…キャプテンは、何て?」
「それがな…今回の件は、不問に付すって事になった」
「何だとっ!?」
「彼女達は、まだ見学者でお客様だ…約束を違えたからといって罰則を与える訳にも行かず、今更恥を掻かしても、何の得にもならないって事だ」
「じゃあ…典子の苦労は!?」
「……本来…マネージャーとしての業務には、部員のサポートをする役目がある。ウサギちゃんの場合は、特例として躰を使う仕事をさせていないが…マネージャーの仕事としては、範疇内だろうと…」
「だが、故意による物なんだろうが!?」
「…それも、確認出来た訳じゃない…幾らだって、言い逃れ出来る話だ」
「クソッ!!」
「まぁ、トラブル回避だな…出来れば、マネージャーの人数を確保したいのもあるんだろうが…そんな話をしてる時に、一平が来たんだ」
「俺は、夕食の時の食堂での騒ぎについて、キャプテンの耳に入れといた方がいいかと思って…結構、部員の中でも噂になってるもんだから…」
「…で、何を知らせに行ったんだ、一平?」
「花村の事です。彼女がウサギちゃんと高校3年間同じクラスだったのは事実ですが…その間ずっと…花村は、ウサギちゃんの事を、取り巻きと一緒に虐めてたんです」
「何だとっ!?」
「何でも…花村が、入学早々英語の時間に、ウサギちゃんに恥を掻かされたそうで…花村も玉置程ではありませんが、ウチの学校ではお嬢で通っていて…高校時代から派手で、取り巻きと一緒に好き放題していた奴なんです。どっちかって言うと、花村の方が質が悪い…」
「どんなだったんだい?」
「1年迄の玉置は、基本的に一匹狼で…自分の意に染まない事を嫌だとハッキリ言う訳です。それは、自分に対しての事柄だったり、他人の行動に対しても…例えば『掃除は、疲れるし汚れるから嫌だ』とか、『貴方に、その髪型は似合わない』とか、『今の発言は、道理に合わない』とか…歯に衣着せぬ発言をぶっ放すんですよ。だからって本人に悪意は無いし、相手がつっ掛からない限りは攻撃もしない。でも…花村は違う…あれは、集団リンチです」
「…」
「弱い奴、気に入らない奴…片っ端から攻撃するんですよ。クラスでシカトする様に強制したり、トイレや倉庫に閉じ込めたり、荷物ぶちまけたり…クラスの奴等も我身可愛さで何も言わない。次のターゲットが自分になるかもって、ビクビクしてる。実際、花村達のせいで高校辞めた奴、何人も居て…。でもそんな中、ウサギちゃんは1人で…よく堪えてました。2年からは、玉置がウサギちゃんに張り付いてましたけどね…流石の花村も、玉置には敵いませんでしたから…」
「…花村の言ってた事…本当なのか?」
「どこまでが事実なのか…噂話は、山の様にありました。確かなのは、ウサギちゃんの1年の時の話で、相手が当時3年の先輩だったって事位です。先生がって話は多分、2年と3年の担任の事ですかね…離婚したって…」
「…そうか」
「あの…でも、ウサギちゃん…多分…男をたぶらかしてなんか…」
「当たり前だっ!!」
「…実際に俺が彼女を見掛けてたのは、図書館の片隅で…静かに本読んでたり、勉強してたりする姿ばっかりでした。…そこに、玉置がいつもへばり付いている感じで、ずっと1人で喋ってるんですよ。今思うと…玉置は、ウサギちゃんを守ってたんですよね…」
「そうだな…姫のそのスタンスは、今でも変わらない…」
クスリと笑い、松本が遠くを見ながら言った。
「…俺、花村達が最初に来た時に…ウサギちゃんに言ったんです」
「何を?」
「玉置に連絡した方がいいんじゃないかって…でもウサギちゃん、黙って首を振ったんですよ」
「…要が、出川さんに告られた日の事か?」
「そうです…あの時、花村が早速ウサギちゃんに言い掛かり付けてましたから…俺、気になって…」
「…姫は、あの翌日から海外だったからな…」
「…典子の奴…それでキャプテンに電話して…部屋に閉じ籠ったのか…」
「出川さんの件だけじゃなかった訳だ…」
「クソッ!!…こんな事なら、合宿なんか参加させるんじゃなかった…」
「だが…部屋に1人で置いとくのも心配だったんだろう、お前?」
「あの2人が、合宿に参加するなんて思わなかったし…況してや、こんな事になるなんて、思いもしなかったからな…それで、キャプテンは何て言ってるんだ?」
「…頭抱えてたけどな…部員には、練習に集中させる様にするしかないだろうという判断だ。人の口に戸は立てられない…が、人の噂も75日…」
「あ…キャプテンから、和賀先輩に伝言です。電話で話した件、呉れ呉れも宜しく頼むとの事でした」
「…ったく、あの人は…」
「取敢えず明日からは、この3人でウサギちゃんのフォローをして行こう…極力、彼女達だけの接触は避けないと」
松本の提案に、俺と椎葉は頷いて…俺は2人に頭を下げた。
「典子の事…宜しく頼む」
椎葉は再び、本当に付き合ってるんですねと言って部屋に戻って行った。
「あ…可愛い…何か、小さな仔猫みたいだな」
俺のベッドで自分自身を抱き締め、クルンと身を丸めて寝入る典子を見て、松本が笑った。
「…お前には、そう見えるのか…」
「え?」
この姿勢は…動物の自己防衛の為の物だ。
外敵から身を守る為に、自分の体温を逃がさない為に、寝ている時も弱い部分を抱え込み身を守る…。
人間がこの姿勢で寝るのが、どんなに辛いか…俺を頼ろうとしない典子が守っているのは、躰なのか…心なのか…。
「コイツ…泣く時以外、俺に抱き付かねぇんだ…直ぐに逃げ様とするし、俺が捕まえとかねぇと、どっかで野垂れ死にしそうでな…」
「なぁ…それって…」
「え?」
「…ウサギちゃん…本当にお前の事を愛してるのか?」
松本は典子を見下ろして、眉を潜めた。