第15話
家に帰っても、俺の部屋に典子の姿はなかった。
彼女の携帯に電話を掛けると、向かいの典子の部屋から軽やかな着信音が聞こえるが、一向に電話に出る気配がない。
まさか…又倒れているのでは!?
掃き出し窓を叩きながら、俺は大声で叫んだ。
「典子ッ!?典子ッ!!大丈夫なのかっ!?」
声に驚いた松本が顔を出し、俺から鍵を受けとると玄関に回ったが、直ぐに戻って来た。
「駄目だ、要…チェーンが掛かってる」
「クソッ!!チェーンカッター、持って来る!」
そう吐いた俺の携帯に、典子からメールが入った。
『寝ているだけです。心配しないで下さい』
「顔見せろっ、典子ッ!!」
尚も窓ガラスを叩きながら吼える、俺の手の中の携帯が再び鳴った。
『疲れているので、失礼します』
「あの馬鹿…顔合わせる気ねぇな!?」
「無理強いは良くない、要」
「だが…」
「今は、そっとして置いた方がいい」
典子は、出川が俺に交際を申込んでいたのを聞いていた筈だ。
唯でさえ俺との交際を申し訳ないと思って身を引こうとする彼女に、きちんと事情を話してやらなければならないと俺は焦った。
「声だけでも聞かせろ、典子ッ!!」
携帯の番号を押して耳に当てながら、俺は窓ガラスを叩いた。
「…頼む…典子…」
発信音がプツリと切れ、繋がった筈の携帯からは、何の音も聞こえて来ない。
「…典子」
「…」
「出川とは、何でもねぇ…申し出は、きちんと断った!」
「…」
「答えてくれ、典子…」
「……誰?」
「え?」
「…誰の事です?」
「出川だ…マネージャーになると言って来た片割れ…出川チカと言っていた。練習の前に、体育館で交際してくれって…」
「……あぁ…出川さんと…仰るんですか…」
「典子…大丈夫か?そんなに体調悪いのか?病院行くか?」
「……いぇ…唯、疲れてしまって…」
「飯は?」
「…済みません…本当に、今日は…」
「……顔が見たい…中に入れてくれ」
「……済みません」
「典子…」
「………ごめんなさい」
プツリと通話を切られ、俺は仕方なく部屋に戻った。
それから1日経っても2日経っても、典子は部屋から出て来ない。
携帯も電源を落としている様で、何度鳴らしても彼女が出る事はおろか、メールの返信もなかった。
いい加減俺の我慢も限界を迎えた頃、寺田さんから連絡があった。
「和賀ぁ!お前、宇佐美君に何を言ったんだ!?」
「何ですか、いきなり?」
「宇佐美君、マネージャーを辞めたいって連絡して来て…」
「何ですか、ソレッ!?」
「いゃ…俺も就職先のセミナーに出てて、さっき気が付いたんだが…留守電に入ってたんだ」
「何と言って来たんですっ!?」
「新しくマネージャーも入ったので、自分はもう辞めさせて貰いたいって…」
「はぁっ!?」
「…知らなかったのか?」
「知りませんよ!そんなもん!!いつ掛かって来たんです、その電話!?」
「合宿の栞を配った日に、電話して来た様なんだが…」
「あの馬鹿、アレ以来顔見せないんです!」
「…まぁ、確かに1年の女子マネージャーは4人に増えるんだが、玉置君は気紛れにしか出席しないし、後の2人も他校の生徒だ。体力的な事は無理でも、事務的な事は宇佐美君に引き継いで貰おうと思っていたんだが…」
「…」
「俺は又、この間の話を、お前がキツく言い渡したんだとばかり思っていた」
「この間話?」
「宇佐美君の『恋人役』そろそろ辞退したら…って話だ」
「…言う訳ねぇじゃねぇか…」
「和賀?」
「キャプテン、俺…宇佐美の面倒を投げ出す気なんてありませんよ!」
「そうなのか?」
「アイツの面倒は、今迄通り俺と浩一で見ます…構いませんね!?」
「まぁ…お前達が良ければ、構わないが…滝川の事を気にしてるのか?」
「あんな奴の事は、知ったこっちゃありませんよっ!」
「高柳が、滝川が宇佐美君に言い寄って、彼女が迷惑そうだと気にしていたからな」
「…」
「わかった。だが、出川君の事はどうする?」
「俺は、キチンと断りましたよ!」
「それはそうなんだが…出来れば出川君とも穏便に付き合って、マネージャーとして存続させて貰いたいんだがな」
「申し訳ありませんが、俺にそんな器用な真似は出来ませんよ。その気もねぇのに、出川にだって失礼でしょ?」
「…だがな、和賀…実際、宇佐美君に躰を使った作業は頼めない…人手が欲しいんだ」
「なら、1年を動かせばいい…何なら、俺も動きますよ」
「…珍しいな、和賀」
クスクスと受話器の向こう側で笑う声がする。
「はぁ?」
「正直、お前がここ迄宇佐美君の面倒を見るとは、思わなかったって事だ」
「…」
「さて、どうするか…新たに校内で女子マネージャーを募集するしかないかな…」
「…宇佐美が辞めると、玉置もマネージャー辞めると思いますが…構わないんですね?」
「それは困る!!玉置君は、ウチの勝利の女神だ!彼女が応援すると選手達も奮闘するし…それに、これはまだ内緒なんだが……玉置興産が、ウチの部のスポンサーになってくれる話が出ているんだ」
「…」
「まだ正式に決定した事じゃない…だからこそ余計に、玉置君に今辞めて貰っては困るんだ!!」
「…宇佐美は、その餌ですか?」
「嫌な言い方するな…どこも活動費を工面するのは大変なんだ」
…どいつもこいつも…典子を馬鹿にしやがって…と、悪態を吐きそうになるのを呑み込んだ。
「宇佐美君に、引き続きマネージャーをして貰える様に、お前からも話してくれ」
そう言って、寺田さんは電話を切った。
俺は直ぐに典子の携帯に電話を掛けたが、相変わらず繋がる様子はない…。
怒り心頭で家からチェーンカッターを持ち出すと、彼女の部屋の鍵を開けて、掛かっていたチェーンロックの鎖をカッターで打ち切った。
ムッとした籠った重い空気に分け入り、薄暗い寝室のドアを押し開く。
しかし…この暑い中、布団を被って寝ている典子を見て驚いた。
…何だってんだ…この姿勢…。
そして、そんな彼女に触れた途端、俺は心底ゾッとしたのだ。
……冷たい……冷た過ぎる……。
そっと鼻の下に手を翳し、息をしている事を確認して安堵する。
身を丸くして寝る彼女の首の付け根で脈を取ると、うっすらと目を開けた典子が気だるそうに俺を見上げた。
「…大丈夫か、典子?」
「……わ…が…さん」
「どうしたんだ、一体!?」
「……疲れて……寝たい…のに……寝れな…くて……寒くて……とても…寒い…」
「…典子」
抱き締め様とすると、力無く胸に手を付いて拒まれる。
「…いゃ」
「どうして!?」
「…ずっと……シャワーも…してなくて…」
「そんなもん、気にするんじゃねぇ!」
「…それに……もう…バレー部は…」
「それに関しちゃ、後でゆっくり話す。取敢えずは、俺の部屋に運ぶぞ!」
「……駄目」
「煩せぇっ!!」
俺は典子を抱き上げて自分の部屋に運び、近くの医者に往診を頼んだ。
「鬼の霍乱かい、要君?」
掛かり付けの医者は、髭面を破顔して俺に尋ねたが、典子の様子を見て眉を潜めた。
「点滴しておこう…後、電気毛布か行火でもいい…温める物を…でもこの時期だし、余り熱くても脱水させるだけだし…」
「温めればいいんですね?」
「そうだね…温かい、消化のいい物を食べさせて…点滴と一緒に薬を持って、後でもう一度来るよ…店の方には言って置くから」
「済みません、頼みます」
医者が帰ると直ぐに、姉貴が様子を見にやって来た。
「どうなの、典子ちゃん?」
「後で点滴するって…後、温めろってさ」
「電気毛布出そうか?」
「いゃ…俺が温める」
「そぅ…お粥炊いて来るから、ちゃんと食べさせなさいよ?」
「あぁ」
俺はベッドに入ると、丸くなって寝ている典子の躰を撫でながら解きほぐし、添い寝をしてやった。
すると、黙って涙を流していた彼女は、俺の胸に顔を埋め様として躊躇し…身を引こうとする素振りを見せる。
「又泣いてたのか、お前…」
「…」
「心配するな、直ぐに良くなる…治してやるから…」
そう言って、俺は典子の躰を抱き締めた。
…背中からダイレクトに伝わる、優しい温もり…肌と肌とが触れ合う心地好さ…。
回した逞しい腕で私の肩と腰を抱き込み、首筋に穏やかな寝息を吐く、大きく美しい獣…。
ベッドの正面に位置する硝子張りのテレビボードに映った2人の姿を、私はボンヤリと見ていた。
こんなにゆっくりと寝たのは、いつ以来だろう…私の一番落ち着ける場所…それが、和賀さんの腕の中だと自覚するのに、余り時間を必要とする事はなかった。
だがそれは…望んではいけない場所だ…。
望めば、私はこの場所に執着してしまう……いつまでも私が居座ってはならない場所なら、最初から拒否すれば良かったのに…。
「…典子…起きたのか?」
私は和賀さんの腕を掴み、身を丸くした。
「お前…又馬鹿な事考えてんだろ?折角温まった躰、又冷えて来たじゃねぇか…」
「……何で…こんな状況になってるんですか?」
「覚えてねぇのか?」
ニヤリと笑いながら腕枕をして覗き込む和賀さんを、私は少し睨み付けた。
「怒るなよ…自分から身を投げ出したんだろうが…」
「え?」
「お前が俺から逃げようとするから…俺が『抱かせろ』って言ったら、『こんな躰でいいなら、好きにすればいい』って、俺に投げ出しちまったんだよ、お前が!」
「…」
「…心配すんな…何もしてねぇよ……だが」
カバリと上半身を起こすと、和賀さんは私に伸し掛かった。
「もう、この躰は俺の物だからな!!」
「!?」
そう言いながら瞠目する私を笑い、彼は押し戻そうとする私の腕を掴むと物凄い力で頭の上で押さえ付ける。
そして、顎から首筋に掛けて唇と舌を這わすと、耳朶をカリッと噛んだ。
「ヒゥッ」
「…敏感なんだな」
「ゃぁ…」
「…怖いか、典子?」
強引に弄ろうとするもう片方の手に怯えて身を捩る私を見詰め、和賀さんは目を細めた。
「…なら…男に、自分の躰を好きにすればいいなんて、口が裂けても言うんじゃねぇっ!!」
恫喝すると同時に離された手から逃げる様に、私は自分の肩を抱き身を丸くして震えた。
「…悪かった…怖がらせて…」
様子を窺う様に、再び和賀さんの腕に抱き込まれ、あやす様なキスを浴びせられ髪を撫でられる。
「…ふにゃぁ…」
「そうだ…お前は、そうやって俺に甘えてろ…」
「…」
「気付いてねぇか、典子?」
見上げる私に、和賀さんは言った。
「お前、寂しくなると…躰に支障を来すんだ」
「…」
「身が凍える様に寒くて、寂しくて…自分でどうしようもなくなったんだろうが?」
「…」
「出川に告られてる俺を見て…妬いたんだろ?」
「…そんな事…」
「ないか?本当に!?」
「…」
「お前はなぁ…独りで生きるとか言いながら、自分の人生諦めて、放り投げちまってる所があるんだ。嫌な事は嫌だと、欲しい物を欲しいと、腕を伸ばす事も出来てねぇだろ!?」
「…」
「俺に惚れてる癖して、お前俺の事好きだって…一言も言えずにいるんだぞ!?」
我が身を抱こうとしたその腕を掴まれ、私は骨が軋む程の力で、抱き締められた。
「自分の身なんか抱いてんじゃねぇっ!!お前を抱くのは、俺の腕だろうがっ!?」
貪る様に奪われた口付けの後、朦朧とする私に和賀さんは言った。
「さっきも言ったが、この躰はもう俺の物だからな!?粗末に扱う事は、許さねぇ!!」
「…」
「マネージャーにしたってそうだ!勝手に辞めるなんて、許さねぇからなっ!!」
「……でも」
「お前…マネージャー辞めたら、俺から逃げられるとでも思ったか!?…逃がさねぇぞ…絶対に…」
「……和賀…さん」
「俺が怖いか…典子?」
震えながら頭を振る私をクスリと笑い、和賀さんは私の肌に手を滑らせて行く。
熱い様な冷たい様な…ゾクゾクとした何とも言えない感覚と、恥ずかしさ…私だけをじっと見詰める熱い視線に翻弄される。
跳ね上がる心拍数、我慢しても漏れる息遣い…やがて宛がわれた灼熱の杭は、入口で一旦躊躇すると、一気に私を貫いた。
息をする事も出来ずに固まり涙する私に、和賀さんは優しく甘いキスをする。
「…辛いか?…力抜け…今日は、これ以上しねぇから…ちょっと待ってろ」
ズルリと杭が引き抜かれ、部屋を出ていった和賀さんは、温かい濡れタオルと飲み物を持って戻り、脱力した私の躰を隈無く拭き上げてパジャマを着せた。
「飲むか?」
渡された少し温かい麦茶にホッとする私に、和賀さんは言ったのだ。
「典子…これで名実伴に俺の女だ」