第14話
花村栄子さんとは、高校1年から3年間、ずっと同じクラスメイトだった。
茜の家程ではないにせよ、同じ様に裕福な家庭のお嬢様で、派手な噂の絶えない人…いつも取り巻きを連れ学校の中を我が物顔で伸し歩いていた。
そして、彼女は何故か私を悉く目の敵にし、3年間取り巻きと共に私に嫌がらせを続けたのだ。
何が原因なのか私には皆目わからなかったが…入学して間もない頃、英語の授業で私に恥を掻かされたらしいと噂で聞いた。
そんな覚えはないのだが…唯、彼女の答えられなかった問題を、英語教師から当てられて答えた記憶は有る。
入学当初から始まった執拗な嫌がらせに、教室に私の居場所はなかった…だから、放課後の部活動に居場所を求めたのだ。
美術部に入ったのは、部の雰囲気がとても静かで落ち着いていたから…。
其々が個々に自分の作品制作に取り組み、絵画や写真等出来上がった仲間の作品の感想を述べあう、静かな優しい空気の流れる空間だった。
何の知識もなかった私を温かく受け入れ、色々と世話を焼いてくれたのは、3年生で部長の高松さん。
絵心もない、勿論カメラ等の機材も持っていない私に、高松さんは携帯電話のカメラで色々な写真を撮る技術を教えてくれた。
パソコンを使ってのトリミングや編集作業、コラージュ作品の作り方…美術大学に進学を希望している高松さんは、夏休み以降も美術室に顔を出し、私や他の部員と交流を取り続けていた。
その高松さんが、文化祭で作品展示の見張り番を交代した私の前に立ち、少し強張った笑顔で言った。
「交代したなら、一緒に校内を回らないか、ウサギちゃん?」
特に何も予定のなかった私は頷いて、高松さんの後に付いて校内を回った。
物腰が柔らかく優しく話し掛ける、皆に分け隔てなく気遣いの出来る先輩だった。
そんな高松さんが、校庭のベンチに私を座らせ、珈琲のパックを渡しながら言ったのだ。
「ウサギちゃん…僕と…付き合ってくれないかな?」
「…」
私の様な人間に、そんな事を言ってくれる人が居たのだという驚きと、皆の憧れ先輩からの告白に、私の頭は真っ白になった。
固まってしまった私に、先輩が優しく笑い掛ける。
「急にこんな事を言って驚いた?でも、考えて欲しいんだ…答えは急がないから、じっくり考えてくれるかい?」
私は、辛うじて小さく頷いた。
その夜、食事の支度をする私に、珍しく父が話し掛けて来た。
「…今日は、何かあったのか?」
「学校の文化祭でした」
「そんな事を聞いているんじゃない…お前に、何かあったのか?」
「…」
「きちんと報告しなさい、典子」
「…別に、大した事ではありません」
「言いなさい!」
「…」
「典子ッ!!」
「……交際を…申し込まれました」
「…相手は?」
「部の先輩です」
「何と答えた!?」
「…何も」
「何も!?」
「付き合う事を考えて欲しいと言われただけです!ですが、何も答えてません!!」
「お前は…お前は、騙されているんだ!典子!」
「そんな事はありません!高松先輩は、誠実な方です!!」
いきなり父の平手打ちが飛び、私の躰がふっ飛んだ…頬が火の様に熱く、頭をテーブルの足に強かに打ち付け、ヌルリとした物がこめかみから垂れた。
「……ノリコ…ノリコ…」
父はうなされる様に熱っぽく呟き、私の躰が軋む迄抱き締めた。
「…ノリコ…お前は…お前は、私だけを信じていればいい……私だけが、お前を守ってやれるんだ…」
こういう言い方をする時、父は私の事を見ていない…私の容姿の向こう側に居る、母に向かって話し掛けているのだ。
「ノリコ…どうした?怪我をしている…ほら、こっちにおいで…手当てしなくては」
怯えて震える私をソファーに座らせ、父は優しく傷の手当てをしてくれた。
「怖がらないで、ノリコ…ほら、いつもの様に笑ってごらん?」
私は黙って、部屋のあちこちに掛かっている母の写真パネルを指差した。
「…そぅ…ノリコは、笑顔でいればいい…笑っているノリコは……」
父はパネルを見詰めたまま、抱き締めた私の髪を撫で…段々と夢から醒め現実世界に帰って来る。
「……食事はいい…今日は休む」
突き放す様な硬質な声でそう言うと、父は自分の部屋に籠った。
幼い頃は、母の面影を残している私を溺愛する父が嬉しくて、父によく抱き付いていた。
少し大きくなって、その愛情が自分に向けられているものではない事がわかり、ショックを受けた。
そして今は…益々母の容姿に似て来た私を、時折母の様に扱う父を恐れている。
翌日、顔が腫れ上がり学校を休んだ私に、担任教師から電話があった。
「…宇佐美、お前…3年の高松に、何かされたのか?」
「どういう事でしょう?」
「今日、お父さんが学校に見えた…美術部の高松と親御さん、学校側に話がしたいという事で…」
「えっ!?」
「高松が、君に…不埒な行為に及んでいると…障害のある娘を弄び、誘惑して、どうする積もりだと…それは偉い剣幕でな…」
私は受話器を持ったまま、声にならない悲鳴を上げた。
「高松は、ウチの学校の中でも真面目な生徒だ…そんな、問題を起こす生徒には思えなくてな…」
「…高松先輩は…何も悪くありません」
「そうか、良かった…いゃ、お父さんが…そんな問題のある生徒に、学校からの大学推薦等以ての外だと息巻いていて…学校側としても、判断に困って…」
「父が、そんな事を言ったんですか!?」
「兎に角、宇佐美と高松の接触を避けてくれと、学校側には厳重注意された。高松と高松の親御さんには、謝罪要求を…」
「…何故!?」
「娘を誑かしたと、それは酷い罵声を浴びせて…先程、お帰りになった」
「…申し訳…ありません」
「いゃ…学校はいいんだが…高松の親御さんには、申し訳なくてな…父親が単身赴任だという事で、お母さんが1人でお見えになって…」
「…」
「悪いが、高松との接触を絶って貰えるか、宇佐美?」
「え?」
「学校も、親御さんから要求があった以上、飲まざるを得ないという判断で…美術部への退部届けも、お父さんが書いて提出された」
「…そうですか」
「君のお父さんの話は…その…中学校の先生からも聞いている。教育委員会にも、顔が広いそうだな?」
「…」
「済まない、宇佐美…学校としても、これ以上のトラブルは避けたいんだ」
「…わかりました。お手数をお掛けして、申し訳ありません」
夕刻に帰って来た父は上機嫌で、私を抱き締めて言ったのだ。
「…ノリコ…ノリコ…もう何も心配する事はない!私が、お前の前から悪い物を一掃してやった!もう何も、怖い事はないんだよ…」
「何と言う事をしてくれたんです、お父さん!?」
「…ノリコ?」
「高松先輩は、何も悪くない…悪いのは、お父さんと私です!」
「何を言ってるんだ、ノリコ…お前は、何も悪くないんだよ?悪いのは、ノリコに近付いたアイツだ…大人しそうな顔をして…ノリコを誑かしたアイツと、アイツの事をそんな風に育て上げた親に責任がある!」
「間違ってるわ…そんな過激な方法で、守ってなんか欲しくない…自分の身は、自分で守ります!それに、高松先輩の進学に迄口出しするなんて、どうかしてます!」
「不埒な生徒を推薦する等、高校側がそんな事を許してもいいと言うのか!?」
「高松先輩は、不埒な事等何一つしてません!!…それとも、お父さんは…私に声を掛ける男性を、尽く排除するお積もりですか!?」
「ノリコ…皆は、お前を騙そうとしているのだ!!…私だけだ…私だけが、お前を守ってやれる……そうだろう、ノリコ…」
「…私は…私は、お母さんじゃないっ!!」
「ノリコ…」
「何でっ!?何で…同じ名前なんて付けたの?これじゃ…私はいつ迄経っても、お母さんの身代りでしかない…」
「何を言ってるんだ、ノリコ…さぁ、いつもの様に笑ってごらん?」
埒が明かないと思った私は、部屋に閉じ籠った。
このままじゃいけない…父の為にも、私の為にも…父から離れなければならないと思った。
翌日登校すると、高松さんとの噂は学校中に広がっており、花村さん達は新たな嫌がらせのネタにして私に絡んだ。
高松さんはずっと学校を休んでおり、精神的に追い込まれ入院されたお母様の看病をしていると噂で聞いた。
美術部にも行けなくなり、学校中に蔓延した噂は尾ひれを付けて独り歩きを始める。
聞くも耐えれない様な事実無根の話が収まる迄、私は沈黙を守り続け…居場所を求めて図書館の片隅で過ごす日々が続いた。
卒業した高松さんは、その年も翌年も受験に失敗したと噂で聞いた。
卒業式の日、一度だけ高松さんと顔を合わせた…彼は悲し気に微笑むと、私の横を通り過ぎ様にボソリと呟いた。
「そんなに嫌だったなら…直接言ってくれれば良かったのに…」
あの時、もし父の事がなかったとして…私は、高松さんの申し出を受けていただろうか?
いゃ…多分、断っていただろう…高松さんへの憧れはあったが、それは恋愛を対象としたものではなかった。
先輩として、憧れていたに過ぎなかったと思う。
交際を申し込まれた時点で、ハッキリと断らなかった…私の浮かれた心が、周りの人を不幸にしたのだ。
進路希望で進学を決めた私に、父は激怒した。
その頃話が進んでいた、イタリアのクラブチームの専属トレーナーとしての申し出を承けようとしていた矢先だったからだ。
当然、私もイタリアに付いて来るものだと思い込んでいた父は、一般入試しか受験する事を許さなかった。
運良く受け入れて貰え、独り暮らしをすると決め…反対する父と揉めている時に、遼兄ちゃんが大学に近く大家も隣家に住んでいる知り合いのアパートを紹介すると申し出てくれた。
まさかその後で、父が大学の講師を引き受けるとは思いもしなかったが…取敢ずは父と離れ、互いの生活を確立する事が何より大事だったのだ。
花村さんは、当時高松さんとの話に尾ひれを付けてばら蒔いていた張本人だ。
今更、過去の話をばら蒔いて…一体何になるというのだろう?
バレー部のマネージャーになると…邪魔をするなと言っていた。
もう1人の人の憧れの選手は和賀さんで…自ら交際を申込む程の積極的な女性で…。
少なくとも私なんかよりは、余程和賀さんに相応しい女性だと思う。
花村さんの言う様に、マネージャーとして特に役に立っている訳でもない…。
私は……大学に入って迄自分の居場所を見付ける事が出来ないのかと、少し寂しくなった。
出川チカと名乗った妙な科を作って甘ったるく話す女の話を聞きながらチラリと典子を見ると、俺の視線から逃げる様に体育館の入口に逃げ出した。
「お安くないな、和賀!」
「お前ばっかり、何故モテる!?」
「いゃ…俺は…」
典子を気にしつつ、ここで彼女との交際をぶち撒け様かと本気で考えた。
だが、典子は交際を認める所か、俺を好きだと声に出す事も出来ずにいるのだ。
そんな彼女の思いを踏みにじり、俺との関係を公にする訳にも行かず、俺は大きく溜め息を吐いて言った。
「…悪ぃが、お前とは付き合えねぇ」
「えぇ〜っ!?」
断られると思わなかったと言いたげな瞳が、俺を射る。
「何だよ、和賀…身も蓋もないな?」
「和賀…宇佐美君の事は、もういいんじゃないか?」
「キャプテン!?」
寺田さんの言葉に、俺は冷や汗を掻いた。
「お前と松本のお陰で、宇佐美君が追い駆け回される事もなくなった様だし…彼女の『恋人役』は、そろそろお役御免にして貰ってもいいんじゃないか?」
「待って下さい、キャプテン!?それとこれとは、話が別です!!例え宇佐美の事がなくても、俺はこの交際を受ける積りはありませんよっ!?」
「お前、出川さんの事を知りもしないで…失礼だろう?」
「そうじゃなくて…」
「キャプテン、駄目ですよ…要は今、夢中になっている娘が居るんです」
「なっ!?浩一ッ!!」
「本当か、和賀!?」
皆が、目を剥いて俺に注目する。
「誰だよ、和賀!?」
「…話す気ねぇですよ」
「その人とぉ…交際してるんですかぁ?」
出川が、科を作って俺を見上げる。
「…」
「私ぃ、諦めませんからぁ」
「え?」
「交際してないみたいだしぃ、私も和賀さんの事諦める積もりないしぃ…今後も、モーション掛けますからぁ!」
そう言って、出川はニィッと笑った。