第12話
シャワーの音のする風呂場の前に立ち、時折声を掛ける。
「…大丈夫か?」
「……はい」
「気分が悪くなったら、ちゃんと言えよ?」
「…はい」
女性の洋服ダンスを繁々と見る訳にも行かず、況してや下着等…取敢えず、先日本人が段ボール箱に放り込んだ荷物の中から、パジャマとパンツ、バスタオル等を引っ張り出して、洗面所に持って行った。
スウェットの方が良かったか、下着はそれだけでいいのか…等、妙な気を回している内にシャワーの音が止まり、慌てて洗面所を出る。
しばらくしてリビングに現れた宇佐美を見て、俺はスウェットにしておくんだったと後悔した。
宇佐美の服装は、制服の様な地味な物ばかりだ…先日姉貴達が買ってやったワンピースも、あれ以来袖を通しているのを見た事がない。
休日も、ジーンズに飾り気もないTシャツやポロシャツ姿…凡そ着飾るという事をしない…いや、避けている様な出で立ちが多い。
それが…パジャマ姿は…やはり、女の子なんだと思わせる様な可愛らしい物で…少し明るい色のウェーブの掛かった髪を下ろした姿は、思わず抱き締めたい衝動に駆られ、俺は自嘲気味な笑みを浮かべた。
肩からバスタオルを羽織り、リビングの扇風機の前にペタンと座り込むと、スイッチを付けて風に髪を靡かせる。
ポヤンとした表情の彼女に、冷蔵庫からペットボトルを取り出して渡してやると、少し頭を下げそのボトルの冷たさを味わっていた。
「ちゃんと飲め…多分、脱水も起こしてる。本当は、スポーツドリンクの方がいいんだが…ウチから持って来ようか?」
フルフルと頭を振った彼女は、蓋を開けて半分程飲み干した。
「……何で?」
「え?」
「…どうして……ここに居るの?」
「…」
「やっぱり、私…」
「宇佐美?」
「…和賀さんも…他の人達と一緒?」
「…何?」
ぼんやりと扇風機の羽を見詰めたまま、彼女はぽつりぽつりと言葉を吐いた。
「…辛かったのかとか…生きてるかとか……抱き締めたり……キスしたりした癖に……そうやって、笑って……私の事…厄介者扱いして…」
「はぁっ!?」
「…疎ましいなら…最初から構わなきゃいいのに……違う……和賀さんは…言われただけ……周りの人に言われて……優しいから…」
「おいっ!?宇佐美!!大丈夫か、お前…」
「…そうだ…私が独りで生きるって決めたのに……誰も頼らない…誰も信じない……決めたの…独りで…独りで…」
「おいっ!!典子ッ!!」
自らの肩を抱き、膝に顔を埋めてガクガクと震える宇佐美に手を伸ばそうとした時、チャイムの音と共に玄関が開き、玉置と松本が部屋に入って来た。
「…どういう事…和賀さん!!典子に、何したのっ!?」
玉置が、ヒステリックに叫び、俺に掴み掛かる。
「熱中症で倒れてたのを、介抱しただけだ」
「じゃあ、何で…典子、典子、しっかりしてっ!?」
玉置は宇佐美を抱き締めて、涙ながらに訴えた。
「…私は…私でいたい……私は私…独りで生きられる…」
「駄目ッ!!典子!!自分に暗示を掛けないでっ!!」
「……」
「典子ッ!!」
グニャリと崩れる宇佐美を見て泣き叫ぶ玉置を、松本が背後から抱き締めた。
俺は宇佐美を抱き上げて自分の部屋のベッドに運び、クーラーのリモコンを付いて来た松本と玉置に渡して言った。
「悪いが、付き添ってやってくれるか?」
「お前は?」
「コーチの所に行って来る」
「…要」
「…全て聞いて来る」
「だが…」
「悪ぃ、浩一…俺、やっぱ駄目だわ」
「…」
「…後、頼む」
俺は部屋を出て、大学に向かった。
「いつ、聞きに来るかと思ってたよ」
俺に珈琲カップを渡しながら、井手さんは微笑んだ。
「どこまで知ってるんだい?」
「…殆ど何も知りません」
「聞いてどうする?」
「判断材料です」
「何の?」
「…俺の覚悟の」
フゥと溜め息を吐いた井手さんが、頬杖を付いて俺を眺めた。
「正直、こんな事になるとは思わずに、君ん家のアパートを紹介したんだが…僕は、和賀家に厄介事を持ち込んでしまった様だね…」
「アイツの事を、そんな風に言うのは止めて下さい!!」
「…僕も…全てを知ってる訳じゃない…それでもいいかい?」
俺は、拳を握って頷いた。
「…典ちゃんは…可哀想な子なんだ」
「…障害の事ですか?」
「それもあるが…彼女の周りの環境、育てられ方が…ね…」
「どういう事です?」
「…そもそも、宇佐美は、典ちゃんのお母さんの姓でね。宇佐美先生が、初めて全日本のトレーナーチームに抜擢された時の、主任トレーナーが典ちゃんのお祖父さんになる人だったんだ。彼には娘が3人居て、末娘が典ちゃんのお母さんになる」
「…」
「僕も直接は知らない…でも、少し障害があったらしくて…今で言う、軽い自閉症だったらしいんだ。両親は、彼女に外の世界との接触を取らせたくて、仕事場にも連れて来ていたらしい。そこで2人は出会い…恋に落ちた。他の人間には決して心を開かなかった彼女が、宇佐美先生には笑顔を見せた…文字通り、熱愛だったそうだよ。娘を溺愛していた両親は、宇佐美先生を婿養子にして同居生活が始まった…やがて彼女は妊娠し、女の子を出産したんだ。でも、出産という大事業に…躰も心も…耐えられなかったんだろうね…」
「亡くなったって聞いてます」
「うん…宇佐美先生もご両親も、それは悲しんで…そして、生まれて来た女の子に『典子』という名前を付けた……母親と同じ呼び名のね」
「えっ!?」
「漢字は違うんだ。お母さんの『法子』は、法律の法の字…だが、呼び方は同じ…。実際典ちゃんは、法子さんに生き写しなんだ」
「…」
「僕が典ちゃんに出会ったのは、彼女がまだ保育園の頃だったかな?お祖父さんが亡くなった後で、お祖母さんとも別居して、宇佐美先生は1人で典ちゃんを育ててた。練習にもしょっちゅう来ていて、彼女は僕達のマスコットガールで…良く笑って走り回る、可愛い子だったよ」
笑っていた時期が、ちゃんとあった…当たり前の事なのだろうが、そう聞いて…俺は胸を撫で下ろした。
「その頃、宇佐美先生は良く見合いをしてた。やはり、典ちゃんには母親が必要だって思ったんだと思うよ。何度目かの見合いで、結婚する事にしたと…チーム関係者にも報告した直後に…事故が起きた」
「土手から、落ちたそうですね?」
「瀕死の重症だった…僕達も輸血に協力したんだ。辛うじて命は助かったが…足の障害は、一生残ると言われたらしい。それでもね、宇佐美先生は理学療法のプロだ。娘の為に、血眼になって治療法を探して、手術を繰り返させた…だが、子供だった典ちゃんにとって、それは苦痛でしか無かったんだと思う」
「…コーチが怪我をされた時、一緒にリハビリしていたそうですね?」
「そう…あんなに笑っていた子が…泣き顔しか見せなくなってた。然も、リハビリを指導していた宇佐美先生は、とても厳しくて…子供に対しても容赦なかった。あの頃から、人が変わってしまったんだよ…宇佐美先生も。以前は、明るい頼りがいのある兄貴の様な人だったのが…意固地で妄執に取り付かれた様になった」
「…」
「大人でも辛いリハビリを、泣きながら彼女は耐えていた。やっと上手く動かせる様になった頃には、再び手術が待っている…子供の骨の成長に合わせ、少しずつ躰の中の装具も大きさを換えなきゃいけないから…成長が止まる迄、彼女の躰は切り刻まれた」
「…」
「それでも治らないんだ…宇佐美先生の苛立ちは、全て典ちゃんに向けられ、彼女は1人でそれを受け止めた。味覚障害の事は、聞いたかい?」
「えぇ…何を食べても、砂を食べている様だと」
「仕方ないだろうね…あの家の食事は、栄養を与え、講釈し、理解させる…食事じゃないんだ」
「…再婚は…しなかったんですか?」
「流れたみたいだね…それでもしばらくは、病院で面倒を見てくれていたよ。とても優しそうな女性だったけど…相手にもお子さんが居たから、仕方ないね」
「…そうですか」
「学校に通い出してからは、虐めが激しくてね。子供って、ホラ…残酷だったりするだろ?典ちゃんが虐められているという話を聞くと、宇佐美先生は学校やら相手の家に迄捩じ込んで行ってたらしい…あの人も、典ちゃんの事を溺愛しているから…」
「でも…仲が悪いみたいですよね?大学に行くのも、反対して…」
「…段々、過激になってるらしいんだ。宇佐美先生は、典ちゃんを手元に置きたがる…外に出したくないんだ」
「…」
「大人になって、益々お母さんの法子さんに似て来たからね…尚更なんだろうけど…。典ちゃんが言うには、自分じゃなく、自分の容姿の向こうに母親を見ているんだと…」
「それって、おかしくないですか!?」
「彼女は、生まれながらにそんな風に見られてた…祖父母でさえ、彼女ではなく自分達の娘に呼び掛けている節があったそうだよ」
「…」
「幼い典ちゃんの口癖は、それは自分か母親か…どっちに言ってる?ってものだった…だから、自分として生きている意識が、典ちゃんには希薄なんだと思う」
「…」
「そんな彼女が、宇佐美先生の反対を押し切って進学すると聞いた時は、正直驚いた…頭の良い子だから、どこの大学に行くのかと思えば、ウチだって言うじゃないか!合格して家を出て独りで暮らしたいと聞いて、これは何かあったんだと思ったよ」
「一体何が…?」
「わからない…彼女の高校時代の事は、僕は殆ど知らないんだ」
「…」
「当然、宇佐美先生は反対した…だけど典ちゃんの決意は固くて…アパートの入居が決まって直ぐに、以前よりウチの大学がお願いしていた講師の依頼を、宇佐美先生は受けたんだ」
「…娘のストーカーかよ…」
思わず吐いた言葉に、井手さんは眉をひそめた。
「僕の知ってる事は、殆どこれで全部だと思うんだが…何か、質問はあるかい?」
「ひとつ…宇佐美は、笑顔を向けられるのが苦手だと言うんですが…何か原因があるんでしょうか?」
「あぁ…まぁ色々あるんだろうが…宇佐美先生が常日頃、他人は信用するなと言っていたのも原因の1つではあるね。それに、ホラ…笑いって、色々な種類があるだろう?侮蔑を含んだり、憐憫を含んだり…敏感なんだと思う」
「…親戚に疎まれてるのも、原因なんでしょうか?」
「何か言っていたかい?小学生の頃は、遠征があると伯母さんの家に預けられていたそうだから…嫌な思いもしたんじゃないかな?」
「さっき…疎ましいなら、最初から構うなと…俺も他の奴等と一緒なのかと言われました」
「…道理だね…だが、それじゃ誰にも頼れない」
「誰にも…頼る気はねぇと…目標は、1人で生きて行ける様になる事だと…大学で資格を取って、卒業して働いて…1人でも生きて行ける事を証明したいんだと言ってました。親に迄迷惑掛けず遠慮するって何なんだって思いましたけど…結構思い込んでますよね?」
「何だかんだ言ったって、親ひとり子ひとりだからね…本来は、物凄く仲のいい親子なんだ…ただ、今は少し歪んで依存しあっている様に、僕には見える」
「宇佐美の夢って…何だかご存知ですか?」
「夢かい?」
「夢は何だと聞いたら…夢とは別に目標ならあるって答えるんです。どう違うんだって聞くと、自分にとって夢は、現実には絶対に叶えられねぇ事って答えやがる」
「…何だろう?…小さな頃は、大きくなったら何になりたいって聞くと、即答してたけどね」
「何て?」
「『お嫁さん!!』って…まぁ、小さな子供の考えそうな事だよ」
「…そんな事だろうと思いました」
「え?」
「アイツの夢…変わってねぇんです…きっと…」
「…」
「宇佐美は、結婚は疎か恋人すら作る気はねぇと…玉置に話してたそうです」
「和賀、君は…どうする積もりだ?」
強張った顔で、井手さんが尋ねる。
「俺の覚悟は決まりました…っていうか、端から決まってたんです。唯、色々わからねぇ事が多くて、揺れてただけだ」
「…」
「俺さえ揺るがなければ、宇佐美は俺を選びます」
「…そんな自信、あるのか?」
「アイツは、俺に惚れてますから」
「だが、君…まだ20歳だろう?」
「19です。でも、年齢なんて関係ねぇでしょ?ウチの親父も、21には人の親でしたよ」
「…流石は、和賀家だな」
そう言って、井手さんは笑った。




