第10話
…傷付けた…多分、一番彼女が口にして欲しく無い言葉を投げ付けて、傷付けたのだ。
病院のベッドに寝かされて点滴を入れられた彼女の目から、絶える事なく涙が流れていた。
コイツは一体、どれだけの涙を流して来たんだろう?
これから先、どれだけの涙を流し続けるのだろう?
どんなに悲しくても怒っても、泣いていただけの宇佐美が、熱の上がった躰で裸足のまま転がる様に俺の部屋を飛び出し、自分の部屋にピョンピョンと駆け戻った。
慌てて追い掛ける俺の目の前で、彼女は段ボールを組み立てると、教科書から洋服、テーピング用のテープ等、号泣しながら手当たり次第に放り込み出したのだ。
「…宇佐美」
しゃくり上げながら荷物を放り込む宇佐美の躰を、俺は背後から抱き締めた。
「…やっぱりお前…大馬鹿だ」
「嫌ですっ!離して!!」
「落ち着け、宇佐美…」
「嫌です…嫌っ…」
「…典子…」
「…やだぁ」
泣きじゃくる彼女を覆い被さる様に囲い込み、俺は宇佐美の耳元で語り掛けた。
「馬鹿野郎……大体、何でわからねぇ?」
「…」
「勘違いしていいんだ…その通りなんだから…」
「…ぇ?」
「俺は…お前が…」
そう言い掛けた途端、宇佐美は激しく俺を拒絶した。
「イヤッ!!」
「…典子」
「嫌…嫌っ…違う…和賀さんは……衝動的に…」
「何言ってる!?俺は、本気でお前の事…」
「違うッ!!違う!和賀さんは…優しいから…思い込んで……衝動的に…違う…違うの……嫌…駄目なんだから…やだ、駄目よ…嫌だ…」
「典子!?典子ッ!!」
「……嫌ぁ…」
うわごとの様に話す彼女の躰の熱さ、呼吸の荒らさ、脈の早さ、意識の混濁…。
「…マズイ…姉貴!?姉貴!!救急車!!」
搬送された病院の廊下のベンチに座り、治療を受けている宇佐美を待つ俺の頬に、突然ヒヤリとしたペットボトルが押し当てられた。
「!?」
「何落ち込んでんだか…」
「…姉貴」
「ねぇ、要……アンタ達、付き合ってんの?」
「…いゃ…どうかな…違うんだと思う」
「ふぅん…でも、アンタは典子ちゃんに惚れてんだ…」
「何だよ…反対すんのか!?」
「別にぃ……ただ、典子ちゃんはウチの店子で、店でもバイトしてて…まぁ、大事なお嬢さんを預かってる立場だからさ、ウチは」
「…」
「寝たの?」
「……そういう意味じゃ、寝てねぇよ」
「そっか…そりゃ、良かった」
「え?」
「頭冷やしな、要」
「…姉貴」
「典子ちゃん、いい娘だし…私も好きだけど……半端な気持ちで手ェ出すなら…姉ちゃん、アンタの事ブッ飛ばすよ!?」
「…わかってる」
「わかってないね!」
「…」
「典子ちゃんの躰の事も、心の中の事も……アンタ、全部受け止められる覚悟ないでしょ!?」
「…」
「その覚悟が出来ない内は、あの娘に手出しするんじゃないよ……辛くなるのは、典子ちゃんなんだからね!」
「…わかってる」
溜め息を吐く姉貴の横で、俺はペットボトルのお茶を飲み干した。
「典子ちゃんさぁ…店でバイトしてても、賄い食べないのよ」
「…やっぱり」
「違うの」
「何が?」
「ウチって、休憩時間も店を閉めて食べる様な事してないでしょ?典子ちゃん、自分が食べるより…店で食事してるお客さん見たいって、いっつも厨房から覗いてんのよ」
「…」
「さっき、アンタの話聞いて思い出した……バイト始めた頃、典子ちゃんがお客さん見て『皆さん、楽しそうですね』って言うから、『そりゃ食事しに来てるんだからね』って答えたのよ。そしたら、何て言ったと思う?『食事って、楽しいんですか?』って聞いたのよ、あの娘…」
「…」
「少し変わった娘だとは思ってたんだけどね…井手さんっていうの?核の先輩の人…あの人が良く知ってるみたいだから、聞いてみれば?」
「何か言ってたのか?」
「アンタん所のコーチなんだってね?普通学生さんが部屋借りたりする時は、親御さんが挨拶に来るでしょ?典子ちゃんの時は、井手さんが来たのよ。『普通の家族を見せてやって欲しい』って言われて、この人何言ってるんだって思ってたんだけど…」
治療室からストレッチャーに寝かされた宇佐美が出て来て、話は中断された。
疲れと心労から来る高熱に脱水、栄養失調気味だと指摘され、熱さえ引けば大丈夫だろうが、用心の為に数日入院する様に言われた。
「ご家族は?」
「父親は、海外に長期出張中なんです」
「ご親族は?」
「都内と神奈川に、親戚が居るそうですが…連絡した方がいいでしょうか?」
「未成年者ですからね…書類上の事も有りますし、病状も詳しくご説明したいので、連絡して頂けますか?」
「わかりました」
宛がわれた個室から医師が立ち去ると、姉貴が俺に言った。
「私、家に帰って親戚に連絡して来るわ。後で、着替え持って来るけど…要、アンタどうする?」
「俺は…ここで、コイツに付き添う」
「そう……さっきの事、良く考えなさいよ?」
「…あぁ」
「言っとくけど…交際に反対してんじゃないわよ?アンタの覚悟の問題…わかってるわね?」
姉貴が帰った後、アイボリーのカーテンに囲まれた空間でベッドの横に座り、彼女が涙を流しながら眠るのを見守った。
『……和賀さんは…いつも女の子に……こんな事するんですか?』
宇佐美は…俺の事を、どんな男として見ていたんだろうか?
『こんな風にされたら……私…勘違いしてしまいそうで…』
『……寂しくて……寒くて…心が凍り付きそうで…』
宇佐美は俺が好きで、俺も宇佐美を放って置けなくて…いつの間にか、彼女が可愛くて仕方なくなって…何度も抱き締めてキスをして…すっかり、気持ちが通じ合ってると勘違いしたのは、俺の方だったっていうのか?
朝登校する時も、昼休みも、バレー部も、帰りだって一緒だった…夜だってマッサージして…。
そう考えて改めて思った…そんなに長く、宇佐美と時間を共にしていたんだと…。
そして、そんなに時間を共にしていたにも関わらず、俺は気付かなかったのだ。
『…何食べても……砂を食べてるみたいで……取り敢えず、薬で栄養だけ…』
確かに昼休みに食堂に行っても、彼女が注文するのは小さなサラダ位で、後は殆ど味の付いていない様なテーブルロールを小さく千切って口に運ぶ…しかし、それすら食べ切れずに、丁寧に包むと自分のバックに入れて持ち帰っていた。
毎日のマッサージで宇佐美の躰の様子はわかる…どの程度の障害なのかも、どれだけ無理をしているかも、どんな補助が必要なのかも、凡その検討は付く。
無理を重ねると車椅子か寝た切りになると…宇佐美がマネージャーを引き受けた時に井手さんも心配していた。
だが、心は…一体どれだけの傷を追っているんだろうか?
『済みません』
『ごめんなさい』
『申し訳ありません』
宇佐美と話していると、殆どこの言葉で埋め尽くされる。
ただの口癖なら俺だって気にはしない。
だが…宇佐美はそう言って、確実に傷付いている様に俺には見えるのだ。
「大体、『食事って、楽しいんですか?』って、何なんだ…」
何を食べても砂を噛む様だと言っていたのは、単に味覚障害とかそういうレベルの話ではないのかもしれない…もっと、何か根本的な…。
遠慮がちなノックの後、カラカラとドアの開く音がする。
「…どう?」
「寝てるみたいよ…カーテン閉まってるし」
「でも、参ったわねぇ…又入院なんて…」
中年女性の声…宇佐美の親戚だろうか?
カーテンの中に居る宇佐美の様子を見るでもなく、入って来た2人は椅子に座り込み話を始めたので、俺はつい出て行く機会を逸してしまった。
「隆義さんは?」
「ヨーロッパなんだってよ?」
「どうする?連絡した方がいいのかしら?」
「嫌よ、私…どうせ又大した事なくても大騒ぎして、文句言われるの私達ばっかり!」
「いつ帰って来るの?」
「8月中旬だった予定が延びたみたいよ?イタリアで足止めだって」
「優雅よねぇ…娘ほったらかしにして…」
「それなんだけど…残りたいって言ったの、典ちゃんの方だって!」
「そうなの!?今になって、ようやく自我が目覚めたって事?それにしても、目出度い様な、迷惑な様な…」
「大学進学と同時に独り暮らししてるって聞いた時は、驚いたのなんの…あの隆義さんが、よく許したわよね!?」
「私、てっきりイタリアでの仕事引き受けて、典ちゃん連れて行くと思ってたわ」
「私も…でも、大学での仕事も引き受けて、当分は行ったり来たりだって。夏休みに入るしお盆の事もあるから、典ちゃんの事頼むって…ヨーロッパに発つ前に、そりゃしつこい位に連絡して来て…ホトホト参ったわよ」
「じゃあ、退院したらお宅で引き取って貰えるのね?」
「嫌だ、無理に決まってるじゃない!今は旦那の両親と同居してるのよ!?前だって…旦那がイイ顔しないのを、典ちゃんが小さいからって無理に…」
「ウチだって無理よ!!息子達だって受験生だし…第一、どこで寝かせるの!?」
「お母さん達が生きてたらねぇ…」
「でも、私…未だに主人に嫌味言われるわ」
「あぁ…あの母娘に食い潰されたって?ウチだって言われるけど…今更…」
「貴女の所は、いいわよ!…ウチは賃貸で、子供達もまだまだお金が掛かるし…」
「…溺愛してたもの…あの娘が隆義さんと結婚するって時も子供が出来たって時も、そりゃあ喜んで…だからあの娘が亡くなった後も、典ちゃんの手術や治療費は全部お父さんの遺産で払うって、わざわざ遺言遺したんでしょ…」
「ねぇ…隆義さん、蓄えあるわよね?」
「どういう事?」
「だって、典ちゃん…この先何があるか…今回は、たまたま発熱しただけらしいけど、この先もっと重い病気や障害が酷くなったら…」
「…それは…」
「隆義さんだって私達だって、典ちゃんより先に逝くわ!そしたら、典ちゃんの血縁って、私達の子供達だけって事になるのよ!?そんな…頼られたって…」
「…それは…ウチだって困るわ…」
聞いてはいけない話だ…だが、聞いていて吐き気がしそうだった。
思わずベッドに手を付いて立ち上がろうとすると、その手をそっと押さえる小さな手…。
驚く俺に、宇佐美は悲し気な瞳を揺らして頭を振った。
俺の座っていた椅子がガタッと音を立て、不審に思ったのか、外からカーテンが開けられる。
「何っ!?誰なの、貴方!?」
「…ッ」
「…私の…アパートの、大家さんの御子息です。ずっと、私に付き添って下さいました」
宇佐美のいつもの様なか細い声では無い…抑えた様なこの声は…先日、大学で父親と対峙した時と同じ様な、冷たい空気を孕んでいた。
「…そうなの?でも、いらしたなら声を掛けて下されば…」
立ち上がった俺は、仏頂面のまま何も言わずに頭だけ下げた。
195㎝というこの身長に見下ろされ、尚且つ不機嫌なオーラ全開の俺に、目の前の伯母達はオドオドと手を取り合う。
「伯母さん…私…大丈夫ですから」
「え?」
「今回も…今後も…伯母さん達の手を煩わす事の無い様に、気を付けますから。況してや、従兄弟達の世話になる様な事は、絶対にありません」
「…」
「大丈夫です。独りでちゃんと生きて行ける様に、大学に入ったんです。まだ未成年ではあるけれど…あの頃の様な、何も出来ない子供じゃありません」
「…典ちゃん、あのね…私達は何も…」
「退院した後も、私独りで何とかなります。伯母さん達のお宅でお世話になる様な事はありません」
「…典ちゃん」
「いいじゃない!帰りましょ、姉さん!!」
「…でも」
「典ちゃんだって、自分の事は責任持つって事でしょ?それなら、体調管理だってキチンとやって貰いたいもんだわ!」
「申し訳ありません…今回は、私の不注意です」
宇佐美は、ベッドの上で深く頭を垂れた。
「…貴女が未成年者である以上、何かあるとこうやって大人の手を煩わすの!偉そうな事を言うなら、その辺りの事も踏まえた行動を取って頂戴!!」
「…わかりました。お手数をお掛けして…申し訳ありませんでした」
「帰りましょ、姉さん!」
宇佐美の伯母達が病室を去ると、彼女は深い溜め息を吐いた。
「…済みません。お聞き苦しい事を聞かせてしまって…」
「…お前」
「和賀さんも…お帰り下さい。昨夜も、余りお休みになれなかったって…」
「…いゃ、俺は…」
「……独りに…して…頂けませんか?」
俯いたままの宇佐美が握り締める拳に、ポタリと涙の雫が落ちた。