猫街とペルシャ猫のアーナ(6)
その日は朝から気持ちがぱあっと明るくなるような快晴で、私は黄色い長靴をはくとワスレグサの畑へと出かけていった。
昨日の雨がまだ地面を重く濡らしていて、私は足を取られて泥だらけにならないように慎重に歩かなければいけなかった。
そこいらに群生している野草と違って、ワスレグサはおじいちゃんの秘密の畑でしか採れない。
おじいちゃんが何度も行ったりきたりして踏みならした道を、私はふんふんと鼻歌を歌いながらゆっくりと進んだ。
ここは山でも林でもなく、森だ。
比較的、背の低い木々が圧倒的な量の葉を茂らせ、ところどころに湿った落ち葉が茶色い色を落としている。同時に、散りばめられるように咲いたタンポポやスミレ、リンドウといった目を引く色をした花々が、森全体にアクセントを落としていた。
どこからか、名前も知らない野鳥の鳴き声が響いてくる。
森は少し怖いけど、とても暖かい。そして澄んでいる。
私は森が好きだった。おばあちゃんと、そしておじいちゃんと暮らしたこの森が好きだった。それはお母さんと二人で暮らした都会での日々に負けないくらい。
すぐに私は秘密の畑に到着する。
時間にするとだいたい二十分と少し、それでもまだ梅雨さえ訪れていないこの時期に、私はひどく汗をかいていた。
少し小さくなったブラジャーを脱ぎ捨てたいけど、私はぐっと我慢する。
畑は森の深くもなく浅くもない位置にあって、そこはちょうど木々のないひらけた場所になっていた。
まるで都会の真ん中にぽっかりとたたずむ空き地みたいな、そこは本当に秘密の場所だった。
畑自体は小学校の教室くらいの小さなもので、そこにはワスレグサの新芽たちが五列になって、まっすぐきれいに整列している。
ミントの新芽にも似たその葉は、縦向きに二枚の葉が生え、その上に横向きの葉が、そのさらに上に縦向きの葉が……といったように、交互に小さなき緑色をした葉を並べていた。
昨日の雨で土は湿っているから、まだ水をあげる必要はないだろう。
私はその生まれたてのかわいらしい芽の周りの雑草を、丁寧に、時間をかけて引っこ抜いていった。
このおじいちゃんの秘密の畑は太陽の光をさえぎるものがないから、森の中とはまた違った、安心を含んだようなぽっかりとした暖かさがある。そしてまた、私は汗をかいていく。
春の空を名前も知らない鳥が二羽、並んで飛んでいった。彼らはどこか、遠い国から飛んできたのかもしれない。
私は黙々と雑草を抜く作業を続けていく。そんな作業を続けながら、私は想う。
今ごろ教室で勉強したり校庭で遊んだりしているであろう私の友達や、顔も名前も知らない私と同い年の子たちのことを。
そんな彼女たちのことを、私は少しだけうらやましく思った。自分の生活がひどく不自然でいびつなものに思えてきて、ひどく居心地が悪くなった。
ここには私しかいないはずなのに。ここはおじいちゃんの秘密の畑のはずなのに。
でも、いつかみたいに私は泣いたりしない。私はただ雑草を引き抜いていく。何も考えないように、息をするのも忘れてしまうくらい、必死に、時に投げやりに。
気がつくとそこにもう摘むべき雑草は一本たりとも残ってはいなかった。
私はふぅと息をひとつ吐いて、Tシャツのすそで額の汗をぬぐった。
いつの間にか太陽はもう頭の真上まで昇っていた。
「さて、帰るか」
私はもと来た道を歩いて家へと戻る。たまに森を通り抜ける、緑の匂いのする春の風が、ひどく心地良かった。
家に帰ると、玄関のドアの鍵が開いていた。私、出るときにちゃんと鍵を閉めたはずじゃあ……?
胸がとくんと跳ねると同時に、私はドアを開け家の中をのぞき込んだ。
玄関があって、ろうかがあって、三つの扉と、奥には二階へ伸びる階段が見えた。いつもとなにも変わりない風景だ。
玄関にあるのは私の靴とあまり使う機会のないおばあちゃんの外履きだけだった。私は泥がべったりと付いた長靴をその隣に並べた。
「お、おばあちゃん?」
私は家の中に向けて声をかける。けれどその声は、誰の元にも届いていないみたいだった。それとも、誰かが聞こえていないふりをしているんだろうか?
そう考えると、私の胸は急にどくどくと大きく鳴り始め、体中にかいていたはずの汗がすうっと引いていくのを感じた。
だって私、確かに出かけるときに鍵をかけたはずなんだ。
私は音を立てないようにゆっくりとろうかを進んだ。
「誰?誰かいるの?」私は蚊の鳴くような声で言い、反応を待った。
自分でもその声が誰かに届いてほしいのかほしくないのか、よく分からなかった。
ただ心臓の音だけがうるさくて、できることなら勝手に家に入り込んだ悪いヤツに聞こえないように、もう少しだけ静かにしてほしかった。
いくら待っても反応は返ってこなかった。
私はゆっくりとリビングの扉を開ける。そこには車椅子に乗ったおばあちゃんがいて、テーブルの前でうとうとと居眠りをしていた。
そのテーブルの上にはまるで今作られたばかりといったように湯気を立てる食事が置かれていて、それがどういうことを意味するのか、私が理解した瞬間だった。
「あら、サキじゃない」
「きゃっ!」
突然、背中からかけられた声に、私は叫び声をあげて飛び上がってしまう。
そんな私の姿を見て、お母さんったら一人でげらげらと笑い出す。もう、こっちは本気でびっくりしたっていうのに……。
「お母さん。こっちに来るときは、来る前に連絡してって言ってるでしょ!」
「ごめんごめん、サキが朝寝坊している間にお昼ご飯作って、びっくりさせようと思ったんだけど」
変わらず背が高くてきれいなお母さんは、まったく悪びれる様子はなさそうだった。
「靴はどうしたの?」私は聞く。
「え?」
「玄関に、靴なかったでしょ?」
「靴なら靴箱に入れたわよ、置いておいたら泥が付いちゃうしね。それよりサキ、あなた手も体も泥だらけじゃない。シャツも汗でびっしょりだし。いったいどこに行っていたのよ?」
「おじいちゃんの畑」
「あなた、まだおじいちゃんの畑いじりの真似なんかしていたの?」
「そうだよ、悪い?」
「悪いってことはないけど、ちゃんと他のこともやってるの?例えば勉強とか……」
「ちゃんとやってるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
……私を捨てたクセに。そんな言葉がわたしの頭に浮かぶけど、もちろん口には出さない。
そもそもどうしてそんな言葉を思いついちゃったんだろう? 私、本当はそんな風になんて思いたくないのに。そんなこと思いたくなんかないのに。
「そう」とだけ言って、お母さんは少しだけ悲しそうな顔をした。お母さんったら、卑怯だ。
「じゃあ待ってるから、シャワーを浴びてきなさい」
「うん」とだけ答えて、私はフローリングのろうかを風呂場までとぼとぼと歩いていった。
お母さんは、何も分かっちゃいない。私がしていることも、私が感じていることも、私のことなんて、何ひとつ。
頭からシャワーをかぶりながら私はそう思う。私は悲しい気持ちになる。
お母さんに、会いたくないわけじゃなかった。いや、それどころかいつも、いつだって会いたいと思っている。
でも、どうしてなんだろう。会うと、いつだって素直にお母さんに甘えることができないんだ。
私は蛇口をひねってシャワーの水を止めると、真っ白なタオルできれいに体をふいてから、お母さんとおばあちゃんの待つリビングへと向かった。
「三人でご飯を食べるのも久しぶりね」
お母さんはそう言ってスプーンの上のご飯をおばあちゃんの口に運んだ。おばあちゃんはもぐもぐと噛んでそれを飲み込む。
約一ヶ月ぶりの、三人での食事だった。
私とお母さんの前には熱々のグラタンが、おばあちゃんの前には軟らかくした白ご飯と丁寧に骨を抜いた焼き魚が。
そんな光景を見ていると、前にこのテーブルに三人分の食事が載ったのが、なんだか遠い昔のことみたいに感じられるのだった。
前にお母さんが来てから、もう一ヶ月も経つんだ。
お母さんは月に一度、たくさんの食料と、生活に必要なものを買ってきてくれた。トイレットペーパーだとか、おばあちゃんのオムツだとか、薄手の洋服だとか、生理用品だとか、そういったものを。
だから私が買い物をするために森を出るのは月に三回か、少ないときは二回でもこと足りた。
お母さんのグラタンを口に運ぶと、懐かしい味が口中に広がる。
いつか買い物をするために森を出たときに、私はファミリーレストランに寄って、少し緊張しながらも大好きなグラタンを頼んでみたことがあった。けれど、お母さんが作ったものとは全然味が違った。私にとって、それがすごくうれしかったのをふと思い出した。
私の想いをよそに、いつもと同じ会話の少ない食事は進んでいく。
「そういえば、あなた少し背が伸びたんじゃない?」
「そうかも、しばらく測ってないから分からないけど」
「そうよね、絶対伸びてるわよ」
沈黙。
「お母さんは、仕事はどんな調子?」
「相変わらず。忙しくて、てんてこ舞いよ」
「そうなの」
沈黙。
「そういえば、もうスミにご飯はあげたかねぇ?」
「スミ?」
「おばあちゃん、スミにはもう私がご飯をあげておいたわ」
おばあちゃんに言ってから、スミというのはおばあちゃんがうちで飼っていると思い込んでいるぬいぐるみの犬で、こう言っておくと落ち着くのだと、小声でお母さんに説明する。
「あんたはすごいわねぇ」
「そんなことないって」
「いや、あんたはすごいよ」
私たちはまるでお互いの距離を確かめ合うみたいに会話をした。それはどこか恥ずかしくて、少しくすぐったい時間だった。
そして、いつもそうだった。ようやく一緒に暮らしていた頃みたいに普通に話ができるようになりかけた頃に、素直に甘えることができるようになりかけた頃に、お母さんはこう言うんだ。
「ごめんなさい、夕方から仕事があるからもう出るわ」
「……うん。じゃあまた、一ヵ月したら」
「そうね。あなたには迷惑をかけて、本当に悪いと思っているわ」
「ううん、別にいいって」
「でもね、安心した。また一ヵ月したらね」
お母さんは大きく手を振って帰っていった。後片付けはいつものように私の仕事だ。
「大好きなお母さん、また一ヶ月したらね」
私は洗剤をたらしたスポンジを何度も握って泡立てながら、ひとりそんな風につぶやいた。




