猫街とペルシャ猫のアーナ(アーナの告白)
私はこの森のふもとから電車でふた駅分離れた、小さな町に住んでいるの。夫と一人息子との三人で、なんの説明も必要ないような、ごく平凡な暮らしをしていたわ。
自分が不幸だと感じたことはなかったし、小さないくつかの悩みはあっても大きな不安もなく過ごしていた。
そう、でもそんな生活にも、あの日を境に変化が起こったの。
私は友達の猫と昼ご飯を食べに出かけたのね。私たちはいつも昼ごはんをくれるおばあさんの家を知っていたし、捨てられる魚がある場所も知っていた。
その友達とはよく昼ご飯を食べにいく、仲の良い友達だったんだけど、こう言っちゃ悪いけどとても地味な容貌の子だったのよ。
風景の中にすぐに溶け込んじゃうような。そういう子っているでしょ?
でもその日はまったく違っていた。
遠くから見ても分かるのよね、垢抜けたっていうか、もう、なんていうかすべてが違うのよ。まるで別の猫みたいな。
それで、その子に理由を聞いてみたのよね、『なんだかずいぶん雰囲気が変わったけど、どうしたの?』って。
そしたら彼女、少し戸惑った様子を見せてからこう言ったの。『秘密のしておいてほしいんだけど……実は私、猫街で働き始めたの』ってね。
あなた、猫街のことは知ってる?
…………そうよね、知るはずないわよね。
いろんな動物たちが自分の体を売って大きな報酬を得るところ、そう言えば分かるかしら? でも失礼しちゃう、猫街なんて名前。
とにかく私、そのときは彼女のことを軽蔑したのよ。そんなはしたないことをして報酬を貰うなんて、何を考えているのかしらって。
でも、いくら自分にそう言い聞かせても、彼女の変化がいつまでたっても頭から離れないのよね。たとえば子どもとご飯を食べているときとか、水溜りに写った自分の姿を見たときとかね。私もそんなに自分の容姿に自信があるほうじゃなかったから。
私が彼女と同じように猫街で働き始めるまでに、そんなに長い時間はかからなかったわ。だいたい今から一ヶ月前ね、私は家族に嘘をついて、夜の猫街へと出かけていった。
それから私の生活はがらりと変わった。
別に子どもに関わる時間が減るとか、夫に対する愛情が無くなったとか、そういうことはほとんどなかったわ。ただ綺麗になっていく自分のことをどんどん好きになっていった。前よりも、自分に自信を持つことだってできた。
雄たちに抱かれる時間は嫌いだったけど、心をぐっと閉ざしていればどうってことない……、っていうわけには、やっぱりいかなかったのよね。
体がね、ひどく重いのよ。もちろん私はもともと体が大きいほうなんだけど、それはそういうのとまったく違う種類の重さなのよね。
深い深い海の底にずっと沈んでいるはずのべっとりとした泥水が、いつも体にへばりついているような、ひどく気持ちの悪い重さ。
もし心に重さがあるとして、それがとても重く耐えがたいものになったとき、ひょっとするとこんな感じがするのかもしれない。
初めて客を取った夜からその重さはいつも影みたいに私に付きまとって、もうこれ以上は私、耐えられそうにないの。
つまりそれが、私が猫街にいた日々のことを忘れたい理由。
それに、ついでみたいな言い方になっちゃうけど、私は妻であり、母親なのよね。
もしこのことがバレちゃって、その関係性が消えてしまうということを考えると、私はひどく怖いの……。