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猫街とペルシャ猫のアーナ(3)

 私はちっとも集中できない本を閉じる。と同時に、ふと鼻をつく、不快なにおいを感じた。


「もう、おばあちゃんったら」私がそう言うと、おばあちゃんはうふふ、と笑った。


 私は立ち上がり、車椅子をベッドの脇に移動させると、おばあちゃんの両足の間に自分の右足を挟み込む。

 介護教室で勉強してきたというお母さんに習ったことを思い出しながら、おばあちゃんの両脇を抱えてうんしょと勢いをつけてベッドに移動させる。

 右手で頭を、左手で両足を抱えておばあちゃんに横になってもらうと、私はリモコン操作して電動ベッドの位置を少し高くしてからおばあちゃんの紫色のズボンをずり下ろした。

 軽く首を曲げて自分のズボンが下ろされるのを見ながら、あらあら、なんて言いながらおろおろするおばあちゃんがなんだかかわいらしい。

 私がオムツを外してせっせと濡れタオルでおばあちゃんのおしりを拭いていると、おばあちゃんはまるでうんちを漏らした天使のようににこりと笑ってから私に尋ねる。


「こんなことまでしていただいて……あなた、お名前は?」

「私は柳沼サキ、あなたは?」

「私は……あら、なんだったかしら?」

「柳沼ハツミでしょ、おばあちゃん」

「そうそう、柳沼ハツミ。よろしくね」

「よろしくね」


 そうして私たちはもう何十回目かになる自己紹介を済ませ、私はいつものように少し寂しい気持ちになる。

 おばあちゃんを横向きに寝せて、きれいなタオルでお尻についた水滴を拭きとったり汚物を一箇所にまとめたりと最後の仕上げを始めたときだった。

 部屋の中に、無神経なチャイムの音が響いて、私は顔を上げた。

 もう! なんだってあのチャイムっていうのは、こうもタイミングが悪いときにばかり鳴るものなんだろう。


「ちょっと待ってくださーい!」


 私はそうやって乱暴に玄関に向けて声を投げつける。この家は広いけど、私は声が大きいからきっとお客さんにまで届いたはずだ。

 だけど、またすぐに、ピンポーンという間の抜けた音は部屋の中に響くのだった。


「ちょっと、今手が離せないのよ!もう少しだけ待ってくれる!?」


 いくぶん苛立ちを含んだ声になっちゃったけど、それが相手にも伝わったろうけど、しかたがない。私は急いで作業を再開する。

 それでもチャイムは鳴り止む気配をみせなかった。

 ピンポーン、ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポピンポピンポ……。


「もう! ……おばちゃん、少し寒いかもしれないけどちょっと待っててね。すぐ戻るから」


 そう言い残して、私は手をきれいに洗ってから小走りで玄関へと向かった。

 いったい誰よ! こっちは本当に忙しいっていうのに……。


「遅いわ。いったい、いつまで待たせる気なの?」


 玄関のドアを開けるとそこにいたのは真っ黒な猫だった。

 雨の中を歩いてきたのか、その長くて柔らかそうな黒い毛はぺたんと肌に張り付き、そのそれぞれからぽたぽたと水滴を落としていた。

 艶やかな黒さの、長い毛におおわれた丸い顔に、大きな丸い目、きっとペルシャ猫だ。彼女はとても恰幅の良い大きな体をしていた。

 ペルシャ猫はその濡れた体をうんと細めると、やれやれ、なんて言いながら、私が開けた玄関のドアのすき間から、するりと家の中へ入り込んでしまった。


「待って。体を拭かないと、家が汚れちゃう」


 そんな私の言葉も無視して、ペルシャ猫はわがもの顔で私の足元を通り過ぎ、汚れた足でろうかを闊歩していく。私は慌てて追いかけるけど、敏捷な彼女には追いつかない。

 だけどペルシャ猫はろうかを真ん中まで歩いた辺りで急に振り返って、ほとんど駆け足になっていた私をバカにするみたいに言うのだった。


「どの部屋で待てばいいの?」


 急ブレーキをかけた私が応接室の扉を指差すと、ペルシャ猫はぴょんと跳ねてその扉の取っ手に飛びつき、器用に扉を開けると部屋の中に入り込んでしまった。

 私は肩をすくめてから、靴下が濡れないようにろうかの端っこを歩いておばあちゃんの待つ部屋に急いだ。


「ごめんね、おばあちゃん。ちょっとお客様で」

「誰だい? 回覧板なら私が回してこようか?」

「違うの、私にお客様が来たの。だからおばあちゃんはもう少しここで横になっててね。お客様が帰ったらすぐにお夕飯の支度をするから」


 おばあちゃんは納得したのかしないのか、ふうんとだけ言って目をつむってしまった。

 私はおばあちゃんのズボンを思い切り引き上げて、簡単に後片付けをしてから、横になったままのおばあちゃんを残して礼儀のなっていないペルシャ猫の待つ応接室へと向かった。


「ちょっと、タオルくらい貸しなさいよ」


 私が応接室に入ると、ずぶ濡れのペルシャ猫はソファにごろんと横になっていた。おじいちゃんが大好きだった、シックな茶色いソファが台無しだ。

 私はひどく不機嫌になりながらもそれを態度に出さないよう努め、用意していたタオルをペルシャ猫に差し出した。

 ペルシャ猫の座るソファとテーブルをはさんで、向かいにある一人がけの椅子に腰を下ろす。


「さて用件なんですけど、」


 私がそう切り出すと、その話も聞き終わらないうちに、タオルに包まれたままのペルシャ猫はこう言った。


「忘れたいことがあるの」


 忘れたいことのひとつやふたつ、誰にだってあるだろう。私にだってあった。

 たとえば不意に友達にひどいことを言っちゃったことだとか、ふとした瞬間に思い出す、耳をふさぎたくなるような悲惨な事件のことだとか……。

 その内容は千差万別だろうけど、もしそれを本当に忘れられることができたら、どれだけいいことだろう。

 ここはそんな願いを叶えることのできる場所だった。


「それで、あなたの忘れたいことっていうのは?」

「ミルク」

「え?」

「ここは客に飲み物も出さないの?」


 ふぅ、私は態度の大きなペルシャ猫に悟られないくらいの小さなため息を吐いて部屋を出た。

 冷蔵庫からミルクを取り出して、どぼどぼと容器についでから応接室に戻る。

 ミルクを取りに行く間に拭いてしまったのだろう、部屋に入るとペルシャ猫のぺたんとした毛並みは元のしっとりつややかな柔らかいものに戻っていた。


「どうぞ、ミルクよ」

「ありがとう」


 のどが渇いていたのか、ペルシャ猫の前にミルクを差し出すと、小さな舌を何度も行き来させて、彼女はそれをおいしそうに一気に飲み干してしまった。


「それで、改めて聞くけどあなたのお名前は?」

「アーナ」


 アーナ。私はいつものように、テーブルの上に用意していた紙にさらさらとその名前を書いていく。


「アーナ、あなたの忘れたいことは何ですか?」

「体を売った記憶、私を抱いた雄たち、猫街」


 私はそれらの単語を紙に書き足しながら聞いた。「それは……具体的にはどういった?」


「ちょっ、ちょっと待ってちょうだい。どうしてあなたみたいな小娘に、私のことを話さないといけないの?」

「どうしてと言われても……」

「私はなんでも忘れさせてくれる老人がいると聞いてきたのよ。あなたのような小娘に会いに来たんじゃないわ」

「私の名前は柳沼サキ、小娘じゃありません。そしておじいちゃんはもう亡くなって、今は私がおじいちゃんのあとをついでいます。それでご不満なら今すぐお帰りください」


 私は凛とした態度で言う。お母さんが言うには、私のこういった頑固さはおばあちゃんにそっくりなのだそうだ。

 そんな言葉を受けたアーナはというと、しばらくむっとした顔をしてみせたものの、すぐに諦めたように言った。


「ごめんなさい、言いすぎた」うわ、こいつ意外といいヤツ? 私はそんな風に思って戸惑う。


 一呼吸おいてから、アーナは話しはじめた。彼女の忘れたい記憶の全てを。

 私はいつものようにそんな話にふんふんとあいづちを打ちながら、テーブルの上の用紙を黒く埋めていく。

 アーナはずいぶんと話上手だったから、私はずいぶんと楽をすることができた。それはつまり、いつもと比べて。

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