動物園とレッサーパンダのアリシア(8)
おばあちゃんが眠っているのを確認して、私は家を出た。
背中にはリュックサック。天気は上々。庭に生えた三色の小菊が私の出発を見送ってくれる。
バスに乗るのもずいぶん久しぶりな気がした。
後ろに流れていく木々の緑色や、電柱やアスファルトのネズミ色を眺めながら私はそんなことを感じた。二日前に乗ったばかりだっていうのに。
膝に乗せたリュックサックを通して、アリシアの心臓から小さな鼓動が伝わってきた。
小さな暗闇の中で息をひそめているアリシアは、いったい何を考えているんだろうか。
「本当に大丈夫かな……」アリシアに届かないよう、私はひとりごちた。
考えれば考えるほど、馬鹿げた計画のように思う。でもアリシアの恋のために私にできることといったら、これしか方法はないんだ。
私が立てた計画。それはアリシアを、動物園のリリィの入っている柵の中に放り込んでしまおうという、とても単純なものだった。
アリシアはすぐに飼育員さんに見つかるだろう。それからどうなるのか、正直なところ私には想像もつかない。
絶滅危惧種のレッサーパンダがそのまま殺されたりしないことだけは分かるけど、その後は違う動物園に移されてしまうかもしれないし、どこか動物たちを収容している施設のようなところに移されてしまうかもしれない。
ひょっとしたら大騒ぎになって、『動物園に可愛らしい闖入者!?』なんて見出しで新聞に載ったりもすることだってあるかもしれない。
それでも、動物園の園長の方針とかなんとかによってはそのまま同じ檻の中で飼われつづける可能性だってもちろんある。リリィと結ばれる可能性だってゼロゃない。
それこそが、私とアリシアにとって何よりも重要なことなんだ。
バスはスピードを落とし、動物園の前で私とアリシアを吐き出して出発した。
「待っててね、アリシア。すぐに外に出してあげるから」
私の言葉が通じたのか分からないけど、リュックサックの中でアリシアが頷く気配がした。
私はリュックサックの上から、アリシアの頭のある場所を優しく撫でてあげる。
「中学生一枚ください」
受付にはこの間と同じおばちゃんが座っていて、また私のことをじっくりと観察するように見た後に、入場券を差し出してくれた。
私は背中に冷たい汗が浮くのを感じながら、その切符を受け取った。
「学校はいいのかい?」
受付のおばちゃんの声に、動物園の正門に向かいかけた私の足は止まる。
今は平日の昼間だ。私の同い年の子たちは、学校で勉強している時間。おまわりさんに通報されないことを必死に祈りながら、私は振り返った。
「今はいいの。私には学校よりももっと大事なことがあるから」
私の言葉を聞くと、おばちゃんはさして興味もなさそうにふぅんとだけ言って私から視線を外し、そのまま私の方を見ることはなかった。
二日前に来たときよりも、動物園はずっと寂しくてしんとしていた。
幼稚園児たちのいない平日の動物園は、退屈そうなおじさんや、小さな子どもを連れた母親がぶらぶらと動物たちを眺めるばかりで、どちらが見物されているのか分かったものじゃない。
アジアゾウの前を、アラビアオリックスの前を、オタリアの前を、赤く染まり始めた葉を揺らす木々に沿って通り過ぎてゆく。
そんな動物たちの前を通り過ぎるたびに、私は動物たちから見咎められるような視線を感じて早足になってしまうのだった。
逃げるようにしてレッサーパンダたちが草むらでじゃれ合う柵の前までたどりつくと、私は素早く左右を確認する。
アリシアのためにも、絶対に、見つかるわけにはいかないんだ。
周りには誰もいない。人間の気配なんてまるでしない。そこにいるのは物言わぬ動物たちだけだ。
私は三頭のレッサーパンダを見下ろす鉄製の柵の前で、肩からアリシアの重みをずっしりと感じるリュックサックをおろした。
リュックサックの少し開いた頭の部分からは、アリシアの不安げな瞳が私のことを見上げていた。
「怖いよ……」その瞳はそう言っていた。言葉よりもはるかに強い伝達力で、私にそう訴えかけてきた。
そのうるんだ瞳は、私が意識しないよう努めてきた不安を、胸の辺りから染み出させるには十分だったようだ。
私の額からは次々と汗が浮かび始め、乾いた唇がひどく気持ち悪かった。
私は不安をかき消すように目をつむり、二日前にこの動物園で見た、男女の幸せな物語の一部分を思い出した。やがてその記憶の中の二人は、人間から動物に、アリシアとリリィの姿に変わった。
アリシアとリリィは柵の中でキスをする。私は柵の外からその光景を見下ろして、幸せそうに微笑む。
そんな幸せな恋の結末を、私は必死に頭の中で描き続けた。
大丈夫、大丈夫。これはアリシアのためなんだ。アリシアは、ここでリリィと幸せに暮らすんだ。
私は自分に言い聞かせながら、リュックサックの中に手を伸ばすとアリシアを取り上げた。彼の血液の流れや、筋肉のはり、その体温を、私は両の手のひらから感じることができる。
私はゆっくりと時間をかけて決意を固めていく。周囲に相変わらず人の気配はない。
見下ろす柵の中には、他の場所よりも草が密生した小高い丘になっている部分がある。そこにちょうど投げ込むことができれば、アリシアがケガをすることもないはずだ。
柵の中のレッサーパンダが一匹、こちらに気づいたようでじっと私たちの様子を見つめていた。あれがリリィだ。私はなんとなく、そう直感した。
私の決意は揺るがない。私はゆっくりと、アリシアを持った両手を前後に揺らしていく。
いち、にの、さんだ。それで彼らの幸せな物語は始まるんだ。
空気を震わせる、アジアゾウの鳴き声が聞こえてきた。暖かい日差しは動物たちを包み込んでいた。いくつかの緑色の葉が風に飛ばされて、柵の中へ舞い込んでいった。私は一度だけ、大きく息を吐き出した。
「いち。にの。」
最後に思い切り、アリシアを持った腕を大きく後ろに逸らした、その瞬間だった。
左手の人差し指に鋭い痛みを感じた私は、反射的に大きく左手を振って、掴んでいたアリシアの体を振り落としてしまう。
背中からアスファルトの地面に叩きつけられたアリシアは、そんなことは気にも留めない様子で、一度も私の方を振り向かずに動物園の木立の間を抜けて走り去ってしまった。
痛みを感じた指を見るとアリシアの歯型がくっきりと残っていて、歯型のいくつかの穴からは血がぷっくらと浮き出していた。
「アリシア……」
私はそこで何が起こったのかうまく理解ができないまま、吹き抜ける秋の風にその身を任せていることしかできなかった。




