台風とツキノワグマのそう太(11)
菜の花川――川の正式な名前は知らないけどこの森ではその名で通っている――の上流には、昔おじいちゃんに連れて行ってもらったきり一度も近づいたことはなかった。
大きな石や岩の少ない幅の広い川に沿って、春の始まりから夏にかけて菜の花が咲き乱れるその景色は、広い森の中でも特に鮮やかだ。そこは小動物たちの憩いの場所にもなっている場所だった。
私の視界に一輪の菜の花が映ったのは、家を飛び出してから三十分近くが経ってからだった。
私の息はあがりきっていて、上流に到着する前に少しだけ足を休めようか……と思った瞬間だった。私の視界の半分近くが、月光に照らされた鮮やかな黄色に埋め尽くされたのだった。
「わ!」
私は声を出して、暗闇の中に浮かび上がる一面の菜の花に見とれてしまうけど、すぐに本来の目的を思い出して再び歩き出す。その光景を心に留めておこうとするみたいに、ちらちらと菜の花の方向に目を向けながらも。
そう太は既にかん太の死んでいる場所にたどり着いてしまったのだろうか。もし、そうだとしたら……。
私は頭を振って、頭に浮かんだ不吉な想像を振り払おうとした。
今は余計なことを考えるよりも、少しでも早くかん太の死体を見つけるんだ。
そして見つけた後は、かん太の死体を永遠にそう太の目に付かないような、そんな場所に隠してしまおう。
そこでようやく、私の初めての仕事は終わるんだ。
私は次第に菜の花川から少し離れ、藪をかき分けるようにしながらかん太の、そして同時にそう太の姿を探した。
私はその時点で、自分の不吉な想像がおそらく想像では終わらないことを半ば覚悟していた。勘と言ってしまえば乱暴だけど、そう太がかん太の死体を見つけられないようなことはないように思えたんだ。
ひどく喉が渇いていた。見上げると、頭のちょうど真上に三日月がのぼっていた。遠くからふくろうの鳴く声が聞こえてきた。鼻をつく臭いがし始めたと思った次の瞬間に、私はかん太の死体を見つけてしまった。
腕にびっしりと鳥肌が立っていくのを感じた。
一瞬の躊躇の後、私は意を決して、かん太の死体の周囲の様子を調べ始めた。そう太がここへ来たのなら、何らかの痕跡が残っていてもおかしくない。
そして私はすぐにその痕跡を見つける。
ハエのたかり始めたかん太の死体の周辺にある木には、どれも鋭い爪で思い切り引っかいたような傷が残っていた。
その傷はまだどれも新しく、傷つけられた木の幹からは透明な汁のようなものがにじみ出て、流れ落ちていた。
よく注意して見てみると、かん太の足をえぐりとったままなお離さない罠にも爪で引っかかれたような跡が残り、そのすぐそばにはいくつかの固そうな爪と、まだ新しい血の跡が落ちていた。
少し離れた場所には、根元からへし折られた木が頼りなさげに隣の木に寄りかかっていた。
そう太はこの場所を見つけてしまったんだ。
私は圧倒的な暴力の前に粟だった両腕で、自分の体を抱きしめられずにはいられなかった。ひどく暑いはずなのに小さな体は小刻みに震え出していた。
「私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私のせいだ、私の……」
狂ったようにそれだけをつぶやきながら、逃げるようにその場を離れた。一度家に帰るか、さらにそう太の姿を探すか考えながら歩くうちに、私は見つけてしまう。月に照らされた、暗く美しい川の淵に引っかかるように倒れた、そう太の姿を。
私はすぐにそう太の元に駆け寄るべきだった。駆け寄って、なんだっていいから声をかけてあげるべきだった。
でも私には、どうしてもそれだけのことができなかったんだ。
私はしばらくそこで、動かないそう太の背中をただ呆然と見つめ続けていた。その光景を現実のものとして受け取ることを、私の中のどこかが強く拒否しているみたいだった。
私のせいだ――その言葉だけが私の頭の中をいつまでも渦巻いていた。
そのまま何分間かが経ったはずだ。もっと長かったかもしれない。
再びどこか遠くから聞こえたふくろうの鳴き声にはっとして、私は冷たい川に入ってそう太のそばに立った。
そう太の体は傷だらけで、体のあちこちから血を流していた。おそるおそる顔に手を近づけると、冷たい吐息が手に当たった。
「生きているの、そう太!?」
私は興奮して彼の体に触れるけど、その冷たさに驚いて思わず手を引っ込めてしまう。
川の冷たさに体温を奪われたそう太。血を失いすぎたそう太。全部……私のせいなんだ。私の目には涙が溜まり、今にも膝から崩れ落ちそうだった。
私の動きに気が付いたのか、そう太がゆっくりとその目を開けた。
「君か」顔のほとんど半分が川につかったまま、私を見つけたそう太は言った。
笑おうとしているのか泣こうとしているのか、そう言って顔をほんの少しだけ引きつらせたそう太の顔を直視できずに、私は一瞬目を逸らしてしまい、すぐにそう太の顔を見つめなおす。
「そう太……」
私はただ彼の傷ついた姿を見ながら名前を呼ぶことしかできなかった。かん太の掛かった罠を壊そうとしたのだろうか、そう太の爪は全てはがれ落ち、何本かの指は骨折しているようだった。正気を忘れて暴れたときについたのだろう、体中に残った切り傷や擦り傷が痛々しかった。
そう太は掠れた、ひどく聞き取りづらい声で言った。
「全部、思い出したんだ。あの子ギツネの言うとおり、かん太は罠にかかったまま死んでいたよ。僕はかん太が死ぬところを、目の前で見ていたはずなんだ。そして臆病な僕は愛するかん太の死と向き合うことから逃げて、忘れようとした。自分で忘れてしまうことを望んだんだ」
「そんな、違うわ……」
「違わないよ。僕は馬鹿だ。僕は間違っていた。僕は現実を受け入れることのできない卑怯者だ!」
最後の叫びだけがはっきりと私の耳に届いた。私はその場で泣き崩れてしまうのをこらえるだけで精一杯だった。
私は下を向いたまま、必死に、まるで弁解するみたいに大きな声を出した。
「ごめんなさい、そう太。全部私のせいなんだ、私の。私、私が間違ってたの。そう太は悪くない。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
嗚咽まじりに謝ることしかできない私を見て、そう太の口がゆっくりと動いた。彼は真剣な表情をしていて、私に何かを伝えようとしているみたいだった。
それでも、そう太の声が私の元へ届くことはなかった。そう太はそのまま川の中へ倒れこみ、動かなくなってしまったからだ。
私はそう太に抱きついた。そう太の体からは大量の血が流れ、川のその辺りだけがそう太の血で真っ赤に染まっていた。
それからのことはあまり覚えていない。
私は確かそう太の体を川の中から引き上げようとしたはずだけど、そう太の重たい体はその場からぴくりとも動かなかったんだ。諦めて震えながら家に帰り着くと辺りは明るくなり始めていたんじゃないかと思う。どんな道を通ったのかも、もう思い出せない。
そして私は泣きながら眠った。
重たい泥の中を浮遊しているような、深く、長く、そしてひどく居心地の悪い眠りだった。




